2006/01/01/
1949年山口県生まれ。大学在学中の71年にキューバで砂糖キビ刈り国際ボランティア。73年東大法学部政治学科卒業、東大「ジプシー」調査探検隊長として東欧を現地調査。74年朝日新聞入社。長崎支局、東京本社外報部など経て84年サンパウロ支局長(中南米特派員)。87年週刊誌『アエラ』創刊編集部員。91年バルセロナ支局長。95年「NGO・国際協力チーム」メンバー。2001年ロサンゼルス支局長。
04年9月から月刊誌『論座』編集部員。ほかにCS放送「朝日ニュースター」のキャスター、大東文化大講師(政治学)も務め、現在は「アジア記者クラブ」代表、「コスタリカ平和の会」共同代表。
『君の星は輝いているか……世界を駈ける特派員の映画ルポ』(シネ・フロント社)
、『燃える中南米』(岩波新書)、 『人々の声が世界を変えた!……特派員が見た「紛争から平和へ」』(大村書店)、 『太陽の汗、月の涙』(すずさわ書店)、『観光コースでないベトナム』(高文研)、『たたかう新聞「ハンギョレ」の12年』(岩波ブックレット)、 『狙われる日本−ペルー人質事件の深層』(朝日新聞社)、 『フジモリの悲劇』(三五館)、『ジプシーの幌馬車を追った』(大村書店)『歴史は急ぐ……東欧革命の現場から』(朝日新聞社)、『バルセロナ賛歌』(同)
公式サイト
http://homepage1.nifty.com/CHIHIRITO/
雑誌連載
☆『週刊金曜日』で「国際時転」
☆月刊『シネ・フロント』で「映画で世界をめぐる」
☆『季刊・軍縮地球市民』で「平和は実現できる」。その第2号でコスタリカについ
て詳しく書きました。
軍隊の廃止を明記した憲法は、世界で日本とコスタリカの二つだけだ。ところが、日本と違ってコスタリカには、本当に軍隊がない。自分の意志で軍隊を捨ててしまった。
平和憲法を言葉通りに実行し、しかも活用しているという点が日本とぜんぜん違う。コスタリカの街角で八百屋のおじさんや女子高生らに「侵略される不安はないの?」と問うと、ほとんどだれもが「私たちは努力して侵略されないような国をつくってきた。この平和国家を侵略する国があるはずはない」と自信を持って答える。自分の国に誇りを持っている!
コスタリカの平和憲法は1949年に生まれた。前の年に政治的な対立から内戦となり、1カ月半に2千人が死んだ。悲惨な内戦が終わったとき、むごいことを繰り返さないためにはどうしたらいいかと考え、そもそも武器があり軍隊があるから戦争が起きるという素朴な事実に気がつき、軍隊をなくすことを決意したのだ。憲法第12条で「恒久的制度としての軍隊は禁止する」とうたう。治安のためにいるのは6400人の警察のほか、2千人の国境警備隊だけ。警官は棒だけで、拳銃さえ持っていない。国境の警備も10隻のボート、8機のセスナ、3機のヘリコプターだけで、軍艦も戦闘機も戦車もない。
日本と違って、自衛権は認めている。侵略されたときには大統領の呼びかけと国会の承認で、軍隊を組織できる。米州相互援助条約(リオ条約)という地域の集団安全保障機構に加わっていて、他国から攻められたら中南米の国が寄ってたかってコスタリカを助ける仕組みだ。これまでに2度、隣のニカラグアから侵略の動きがあったが、条約にのっとって周辺諸国が支援したり米州機構が仲介したりして、侵略する側があきらめてしまった。
中米で内戦が相次いだ1980年代には当時のモンヘ大統領が「永世非武装・積極的中立宣言」をし、「領土を戦場に貸さず、紛争に援助せず」という原則を示した。アメリカのレーガン政権による介入もきっぱり拒否した。続くアリアス大統領は、自国が平和であるためには隣の国が平和でなくてはならず、さらにその隣の国も平和でなくてはならないと、内戦をしている中米諸国を説得して回った。ニカラグアなど3カ国の内戦を終わらせ、その功績で彼は1987年度のノーベル平和賞を受賞した。いわば「国際火消し」として平和を輸出したのだ。ノーベル賞の賞金で立ち上げたアリアス平和財団は、冷戦後にだぶついた武器が紛争国に出回らないように小型武器の輸出を監視している。
さらにコスタリカは国連平和大学を誘致して世界平和のために何をすべきか研究しているし、国連で平和に関する提案があると必ずコスタリカの名がある。平和を国家哲学としていることを国民が認識し、周囲の国からは尊敬される平和国家がここにある。
コスタリカの大学生が大統領を憲法違反で訴えて勝訴した。アメリカが2003年にイラク戦争を始めたとき、コスタリカのパチェコ大統領はブッシュ米大統領にこの戦争を支持する言ってしまった。このため米ホワイトハウスのホームページにコスタリカの名が米国の同盟国として載ってしまった(ちなみにイラクに派兵した日本もいまだに同盟しているが)。これに対してコスタリカ大学4年のロベルト・サモラ君は、平和憲法を持っている国が他国の戦争を支持するのは憲法違反だ、と考えた。わずか2週間で訴状を書き、憲法裁判所に提出した。裁判所は2004年にサモラ君の訴えを全面的に認めた。大統領の発言を無効とし、大統領に対してアメリカに連絡しホームページからコスタリカの名を消させろ、と判決を下した。大統領はあっさり非を認め、ホワイトハに連絡した。ホームページからコスタリカの名は消えた。大学生が大統領に勝ったのだ。
今からちょうど1年前の昨年2月、サモラ君は日本にやってきた。護憲の市民団体が共同で招いたのだ。彼は沖縄から北海道まで全国12カ所で講演した。
東京では日本の若者3人が彼に質問する形の討論会を開いた。その司会をしたのが私で、事前に彼と話
した。
彼に「大学生が憲法違反するなんて、日本ではとても考えられない」と言った。それに対して彼は、こう言った。「コスタリカでは大学生どころか小学生でも、ごく普通に憲法違反の訴えをしています。どうして日本ではできないんですか」。コスタリカでは年間1万2千件の違憲訴訟があり、最年少記録は小学2年生だという。
コスタリカでは小学校1年から人権教育をする。入学してまず教えられるのは「人はだれも愛される権利がある」ということだ。人はだれも基本的人権を持ち、人権を侵されたなら子どもでも(赤ん坊でも)憲法裁判所に憲法違反として訴えることができると、小学校1年で習うのだ。だから小学2年生でも違憲訴訟しようと考えるのだ。
とはいえ、難しい法律用語に満ちた訴状を小学生が書けるのか、とサモラ君に問うと、彼はこう言った。「紙切れにチョロチョロと違反の中身を書くだけでいい。電話1本でもいい」。
コスタリカでは、違憲の事実さえ告げればいい。あとは国家がやってくれる。違憲の
指摘を受ければ、それを調べて是正するのは国の仕事だと考えている。訴えがあれば憲
法裁判所の調査官が事実を調べ、違憲の可能性があれば訴訟として成立する。弁護士が
介在する必要もない。ここが日本と違う。日本では、法律は国家が国民を縛るためにあ
ると思われているが、コスタリカでは国民の権利や自由を守るために政府を縛るために
あると思われている。
コスタリカでは、憲法が国民のごく身近にある。法律は、国民がより良き生活をする
ために積極的に使うものだと考えられている。コスタリカのこの考えこそ、本来の憲法
の在り方ではないだろうか。そうした考えに、中南米の各地で接した。南米ベネズエラ
の街頭で、路上に風呂敷を敷いて法律の本を売る露店があった。そばで見ていると、赤
ん坊を抱いた若い女性が小さな憲法集を買った。彼女を追いかけて「なぜ憲法の本を買
ったのか」と問うと、彼女は「法律を知らないと闘えないでしょ」とこともなげに言っ
た。そうだ、法律は国民が使うためにあるのだ。
平和憲法を採用することを決めたとき、コスタリカはもう一つの重要な決定を行った。それまで国家予算の3分の1を占めていた軍事予算を、そっくりそのまま教育費に回してしまうことだ。
そのときに掲げたスローガンが「兵士の数だけ教師を」である。軍備を放棄すると軍人がいなくなるが、その分、学校の先生を育てようとしたのだ。ほかにも「トラクターは戦車より役立つ」、「兵舎を博物館へ」というスローガンが、このときつくられた。
実際、首都サンホセの中心部に歴史博物館があり先史時代から現代に至るまでのコスタリカの歴史の展示をしているが、この建物は元はといえば陸軍の兵舎だった。壁には今も内戦時代の弾痕が残っている。
さらには「トラクターはバイオリンへの道を開く」というスローガンもあった。平和な環境で畑を耕して生産が上がれば生活が豊かになり、農民の子もバイオリンを習うような文化的な暮らしができるようになるという意味である。
そのスローガンはきちんと守られた。平和憲法ができて以来、半世紀以上にわたって国家予算の3分の1近くが教育費にあてられている。予算の総額が膨らんだ現在でも国家予算の21%が教育費である。さらに教育費は国内総生産(GDP)の6%以上とするという法律もつくられた。この結果、途上国としてはまれにみる教育国家が生まれた。国民の10人に1人が教師の資格を持っている。読み書きができる国民の割合を示す識字率は95%で、他のラテンアメリカ諸国に比べて飛び抜けて高い。隣のニカラグアは77%である。
学校の授業をのぞいてみると、「対話」と「人権」そして実践教育を重視している点で日本との違いが目に付く。「紛争解決」をテーマとした中学校の公民の授業では、生徒が机を教室の隅にのけて真ん中の空間に円を描いて座り、「紛争解決」のためにはどうしたらよいかを討論していた。先生が諭すように教えるのでなく、生徒自身が話し合い、意見やアイデアを出し合う中から答えを見いだそうという教育である。それにより、友だちとのけんかから国家間の紛争まで、対話で解決することの大切さを理解する。授業を見ていると、生徒一人一人がしっかりとした自分の意見を持ち、しかも手を挙げて堂々と意見を述べる場面を見て、感動する。
それにしても、軍事費をなくし、しかもそれをそっくり教育に回すというのは、いかにも理想主義に沿ったように見える。なぜ、そのような決定が行われたのだろうか。その事情を聞こうと、モンヘ元大統領を訪ねた。
首都郊外の自宅を訪ねると、すでに引退した彼はこう答えた。
「内戦が終わった後、理想としての平和を私たちは求めました。同時に、今後のコスタリカの発展をどうしたらいいのかと考えました。わが国は資源もないし、経済的に貧しい国です。カネを持たない国にとって軍事力は大きな負担です。国の発展のためには教育に力を入れるしかないが、教育にも軍事にもカネを注ぐことは不可能です。そのどちらかを私たちは選ばなければならなかった。考えた末に選んだのが教育だったのです」と淡々と語った。
つまりが、国家の発展のために執った経済的に現実的な政策が結局は軍備の放棄につながったということである。純粋に理想主義を追い求めたというより、実は現実主義が根底にあったわけだ。私は、彼が「私たちは理想を求めた」とでも言うのかと思っていた。しかし、この正直な答えを聞いて、いっそうコスタリカに親近感を持った。
思えば、世界に貧しい国は多くあるが、コスタリカのような決定をした国は他にはない。
多くの発展途上国は教育など無視してひたすら軍備増強し、それが内戦や飢餓を招いている。コスタリカの周囲の中南米の国も、内戦だらけだった。「発展のために軍備でなく教育を選択した」という言葉をスラリと言え、しかも実行に移してきたということはやはり大変なことだ。