斎藤駿/『通販生活』発行人/「北朝鮮の脅威」に正面から向き合わないと/06/07/01 /

『軍縮問題資料』06年5月号より転載


護憲派の課題:そろそろ、信念から戦略へ

「北朝鮮の脅威」に正面から向き合わないと。

 私が発行人をつとめているカタログ雑誌(通販生活)は護憲を標榜しているので、改憲を支持する読者からの批判のお手紙をいただく機会が多い。かなりの量のそれらを読んでいてつくづく痛感することは、当り前の話だけど、批判派もまた護憲派と同じく「戦争はまっ平だ」という気持を表明していることだ。

 多くの読者が「改憲支持と言うと護憲派の人たちはすぐに戦争好きと決めつける」と嘆いている。私たちは改憲派というと「外交のために軍事的抑止力は必要だ」とか「国益のためには戦争も辞さない」と広言する政治家や評論家ばかりを連想しがちだが、市民レベルでは護憲派とちょっとの差異しかない改憲派が多いのだ。(むろん、勇ましい政治家や評論家の言にのせられてしまうニッポン・チャチャチャの若者はかなり存在すると思うけど)

 ちょっとの差異とは、言うまでもなく「北朝鮮の脅威」だ(国民の間に「中国の脅威」がひろがっているとはとても思えないので、こちらについては言及しない)。隣国が現実にテポドンを発射し、拉致事件をおこし、不審船うろうろ事件をおこし、核保有国願望を表明しているのだから、これを「脅威」=「不安」ととらえるのは当然の感情だ。

 ところが、護憲派の多くの人たちはこの不安を一笑に付してしまう。

 「アメリカの軍事力には依存しない、自衛隊は解消するでは無責任すぎない? 丸腰でいて、万一、北朝鮮が攻めてきたらどうするつもり?」

 ――どう考えても、攻めてくる理由がない。バカバカしい。

 「でも、万一、攻めてきちゃったときはどうするわけ?」

 ――攻められない状況を外交(6ヵ国協議)の力でつくっていく。

 「万一、その外交を無視して攻めてきたときは?」

 ――視聴率狙いのテレビ報道に踊らされないでよ。

 「将軍様の抑えが効かなくなって、万一、軍部が暴発しちゃったら……もう、いいや、きみたちとは話が通じない」

 こうして、かつての護憲派はどんどん改憲派へ転向していってしまう。私も身近かで何人もの転向事例を経験している。

 いま、わが国を徘徊している「北朝鮮の脅威」は、かの国の軍事力よりも、拉致事件に象徴されるような金正日体制の異常な秘密主義から生まれているとみるべきだろう。極端な情報不足が私たちの不安を増大させている。この情報不足からくる不安を理性の力や不戦の信念で補って解消できる人は残念ながら極少数派なのだ。「北朝鮮は侵略してこないだろうという意見は希望的観測だろ。侵略してこないというのなら納得できる根拠を示してくれ」というのが素直な国民感情なのだ。

 北朝鮮の「脅威」なんて一種の恫喝外交なんだろうと私は考えているけれど、拉致事件が恫喝外交かよと言われると答えに窮する。ミステリーの国北朝鮮を相手にして、「脅威」が存在しないことの「納得できる根拠」をひき出す力は私にはない。だれにもないのではないか。

 「いずれ金正日体制は崩壊するさ。いっときの隣国状況で憲法9条が左右されてたまるか」と言う人もいるだろうけど、崩壊したらしたで、その先を予測できる人はいない。軍部の中から第二の金正日将軍が出てくるかもしれないし、改憲派がよく口にする「武装難民が侵入してくるぞ」かもしれない。予測できないから中国も韓国も仕方なしに金正日体制を支えようとしている。「万一」の不安が解消する見通しは一向に立てられないのだ。

 9・11同時多発テロによってアメリカの空気が一変してしまったほどの変りようではないけれど、拉致事件発覚以後、平和憲法をめぐる世の中の空気は確実に変ってきた。人々の憲法9条を見る視線は、拉致事件以前と以後ではずいぶん変ってきた。

 これからの護憲運動は、この空気の変りようを意識するところから組み立て直さないといけないのではないか。

 たとえば森達也さんは、「周囲がナイフやピストルを持っているときに丸腰になることは、とても勇気のある、そして崇高な決断です。報復は報復に連鎖する。自衛は先制攻撃に短絡する」(週刊金曜日06年1月6日号)と言っている。半藤一利さんは、「世界に対して、日本が率先して『武器を捨てよう』と動いたっていいじゃないですか。よく『いい年して、青臭いこと言うんじゃないよ』と言われるけど、今こそ理想主義でいくべきです」(毎日新聞夕刊・06年1月13日)と言っている。

 時代の空気に迎合する知識人が多い中で森さんや半藤さんの意見はとても貴重なのだけど、でも、いまはこのような非武装論を強調すればするほど改憲側をよろこばせてしまうのだ。国民の多くは「北朝鮮の脅威」をリアリズムとして受けとめており、さらに、いまのところは人殺しをしないで雪かきをするだけの自衛隊に好感をもっているから、非武装論を逆手にとって「え!! 北朝鮮の脅威があるというのに、アメリカとは手を切る、自衛隊24万人とこれまでの装備は明日からゼロにするでいいんですか」とたまげたふりをしてみせる改憲側のポーズに共感をもってしまうのだ。

 今日の非武装論に必要なのは、拉致事件の発覚以後、急速に拡大している隣国への不安に対する心くばりだ。

 理念のことばは未知(未経験)だからわかりにくくて不安。

 現実のことばは既知(経験)だからわかりやすくて安心。

 理念と現実が口ゲンカをしたら現実派のほうが優位に決まっている。未経験よりは経験を信じる人の割合のほうがよほど大きいからね。人の多くはつねに現実を媒介して理念を信用する。相手を納得させる説明は「純粋理念」ではなくて、「直近の現実をとりこんだ理念」から生れてくる。

 にもかかわらず、改憲側があおる「北朝鮮の脅威」を「あり得る」と考え始めている人たちの不安、「あり得るかも」と迷っている人たちの不安に対して、いま、護憲側は不安を一掃できることばをつくれていない。その結果、護憲派との差異がちょっとしかない人たちをどんどん改憲の側に押しやっている。

 護憲側の世論形成活動といえば、気の合った同士の相も変らぬ理念ワンダフル集会、国民があまり読みたがらない理念的発想の新安全保障法づくり、同じく理念型の無防備地域宣言活動、同じく理念先行の東アジア共同体づくり、それと……あ、もうないか。理念がいけないと言ってるんじゃないよ、不安(情)への配慮を欠いた理念の無神経を言ってるんだ。説得って、相手の気持がわからないと成り立たないものなのに。

 自民党は「新憲法草案」を出したあと、最大の改憲サポーター、金正日将軍の協力をとりつけておどろおどろしい「弾道ミサイル攻撃、ゲリラ・特殊部隊攻撃、着上陸侵略用の避難マニュアル(市町村国民保護モデル計画)」を出してきた。小泉郵政選挙で点数を稼いだ自民党内の「コミュニケーション戦略チーム」は今後も常設チームとしてPR活動を継続することになった。自民党は改憲に向けた世論誘導を日々、実行に移しているのだ。

 護憲側はちょっと、のんびりしすぎていないか。

 ちょっと、理念の人に偏りすぎていないか。

 ちょっと、戦略の人がいなさすぎないか。

 ちょっと、勝手バラバラ活動すぎないか。

 この現状はひょっとして、「どうせ負けるんだから、一人一人が信念に殉じるしかないんだ」というあきらめの反映かしらん?

 そこでつくった私のキャッチフレーズ。

 「もう、あきらめる? まだ、あきらめない?」

自衛隊改組案を目に見えるかたちでPRしないと。

 拉致事件発覚以降、伝統的な非武装論はむしろ9条改憲を促進してしまう働きをする。

 それでは「北朝鮮への不安」を解消できる非武装論とはどんなものだろう。

 たとえば、2月11・12日に開かれた社民党の党大会は次のように宣言した。

「明らかに違憲状態にある自衛隊は縮小を図り、国境警備・災害活動・国際協力などに改編・解消して非武装の日本を目指す」

 私も以前に全く同じ趣旨の文章(『世界』03年10月号)を書いたことがあるのであまり声高に批判する資格はないのだけど、自己批判をこめて言えば、なんと説得力のない宣言なんだろうと思ってしまう。国民が不安を抱いている「国境警備」に具体性がなくて、アバウトな政策にとどまっているからだ。ディティールの伴なわない政策からは説得力は生まれない。

 そこで私の提案はこうなる。

〈自衛隊の一部を海上保安庁に収れんして新しい国境警備隊をつくる〉

 国際紛争のほとんどは国境のトラブルだから、外交によってそのトラブルが解決するまでは国境警備隊が不測の事態に備える。わが国の国境は海であり、現状の国境警備機能は主に海上保安庁によって担われているから、新しい「国境警備隊」はここのシステムに準拠する。なによりも、海上保安庁の性格は新しい「国境警備隊」の性格にフィットするしね。

 「この法律のいかなる規定も海上保安庁又はその職員が軍隊として組織され、訓練され、または軍隊の機能を営むことを認めるものとこれを解釈してはならない」(海上保安庁法第25条)。すなわち、軍隊ではなくて警察組織。平和憲法の精神はこんなところにいまも息づいているのだ。海上保安庁は防衛庁ではなくて国土交通省の外局なのだ。

 こんな、現実をふまえた理念=目に見える国境警備隊論こそが説得力をつくるのではなかろうか。

 軍事専門家のプロジェクトをつくって、海上自衛隊や航空自衛隊を海上保安庁にどのように一体化させるのか、さらには「国境警備隊」の装備はどのくらいの規模が必要なのか、潜水艦や哨戒艦艇、偵察機や戦闘機、戦車や装甲車をどのくらい装備するのか、隊員数はどのくらい必要とするのかをまとめてもらう。

 自前の核を所有したところでテロ世紀の現代に100%防衛なんてあり得ない、防衛の現実可能性はここまでしかないのだという「ここまで」を証明してもらう。「ここまで」の国境警備予算は年間どのくらいかかるものなのか、見積ってもらう。ちなみに海上保安庁の平成18年度予算は1,780億7,900万円で定員は1万2,000人だ。国境線の長いわが国の地形を考えると、これは少ないと思う。

 「わが国は専守防衛に徹するだけだと言うんだったら、国境警備隊のテコ入れで十分でしょ。イージス艦(まさかスクラップにはできないから)まで持っている国境警備隊なんて、世界最強でしょ。この上、なんで軍隊まで持つ必要があるの?」

 目に見える「国境警備隊」のイメージとセットで森さんや半藤さんの非武装論を打ち出していけば、とたんに非武装論は生き生きとよみがえってきて、私たちとちょっとの差異しかない改憲派の人たちをよび戻せる可能性も出てくると思うんだけど。

 あっちが「9条を変える」なら、こっちは「自衛隊を変える」だ。「9条を変えないで自衛隊を変える」だ。

 「変えない」と「変える」を自分の中でどう折り合いをつけていくか。状況の変化に目をつぶったままで原理を守りつづけることができるのか。状況の変化に反応するあまりに譲れない一線まで変化させてしまっていいのか。「9条を変えないで自衛隊を変える」は、変化をとり入れながら原理を変えない折衷主義の立場だ。

 「それはそれでいいんじゃないの。自衛隊については解散論あり改組論あり現状維持論ありでいいじゃないか。いろいろな主張を互いに尊重することが大切だものね」

 それじゃ困るんだ(あ、つい声が大きくなってしまった)。

 早い話、護憲派と改憲派のテレビ討論会を想像してごらんよ。自衛隊の扱いについて、護憲側がいくつもの論に分裂していたら、「おや、割れてますね。一体、自衛隊は解消するんですか、残すんですか、変えるんですか。国民は迷っちゃいますね」と改憲派にからかわれるにきまっている。これだけで護憲派の連中は頼りないと国民に思われてしまうのだ。かんじんのコンセプトがバラバラだと、出てくる力も出てこないのだよ。

 いまはもはや平時じゃなくて非常時なんだから、

〈護憲派は具体的な自衛隊改組論で合意をつくろう〉

 自衛隊の扱いについては、「具体的」と「合意」が重要なのだ。

 自民党内部では韻文的な「日本軍」派も「愛国心」派も不満を抑えて、散文的な「自衛軍」の草案で統一してしまった。いまのところ、小異を捨てて大同につく柔軟さでは改憲派のほうがはるかに上だ。見習わなくちゃ。

 近い将来必ずやってくるだろう「国民投票」の欺瞞は、一見、改憲論と護憲論の争いに見えて実体は改憲論と現状維持論の争いになることだ。改憲派は国民投票で負けたとしても、そのときは現状に戻って解釈改憲をつづけていけばいいのだからね。しかし護憲派が一致して具体的な「国境警備隊」論を主張していければ、その主張によって勝利したわけだから、当然、自衛隊を改組させることができる。だからこそ声をそろえる必要があるのだ。

 ついでに、もう一つ提案したいことがある。

〈せめて統一的な戦略センターをつくろうよ〉

 いま必要なのは、最終局面の国民投票に向けて護憲の世論をどう形成していくかを総合的に設計する知恵袋のセンターだ。

 改憲派の各グループは連日自民党本部に集まって「市町村国民保護モデル計画の次の手はどうする?」といった戦略を練っている(自民党というのは各グループの集合体だから、そういう言い方をしてもいいだろう)。対する護憲派の各グループは月に一度も顔を合わせないで、各自がバラバラに戦略を練っている。練っているのかな。

 護憲の声が押されぎみな理由、どうも北朝鮮のせいばかりにしてはいけないみたいだ。

ワンフレーズにはワンフレーズで対抗しないと。

 私の本業は商品を広告化(情報化)して販売する通信販売だから、一年中、キャッチフレーズをつくっている。キャッチフレーズというのは、商品説明文(ボディコピー)を読んでもらうためのきっかけをつくる第一声のワンフレーズ。

 このキャッチフレーズがバカにならない。売上げはキャッチフレーズにかなり左右されるからだ。いま売っているニュージーランド製の羊毛の敷毛布を例にとると、一枚にメリノ羊一頭半ぶんの毛量を使っていて、さらに毛足が3センチもあるから、眠っている間の体温がそのフサフサ毛量にためられてとても暖かい。それで最初につくったキャッチフレーズは商品の特長をそのまま反映させた、

 「これは暖かい 敷毛布一枚にメリノ羊まるまる一頭半ぶんの羊毛を使っている贅沢」

 でも、これではあんまり売れなかった。いまの消費者、ただの品質自慢には食傷しているから、この程度では立ち止まってくれない。そこで奥の手を出した。

 「電気毛布は余計な水分を奪うからのどや肌がカサカサする。やっぱり電気熱より体温熱がいい

 ライバル商品を叩いて優位性を誇示するフレーズ、もっと露骨に言ってしまうと、ライバル商品に内包されている不安をかき立てるフレーズ。これにさし替えたとたん、売上げは2倍近くにふくれ上がった。足を止めてボディコピーを読んでくれる消費者の数が格段に増えたってことだね。キャッチフレーズの影響力はこのくらい大きい。

 このキャッチフレーズ効果をフルに活用したのが前回の小泉郵政選挙だった。「改革をとめるな」と「郵政民営化、賛成か反対か」をくっつけて、一見、だれも反対しようのない「改革、賛成か反対か」にすり変えてしまった。足を止めさせるどころか、かんじんのボディコピーを読まなくてもわかったような気持にさせてしまう手品。おそらく、このトリッキーなすり変えアイディアには腕のいい広告マンが介在していたにちがいない。

 人は成功体験をくり返したがるものだから、国民投票がやってきたとき、改憲側の主役、自民党は再び前回のようなキャッチフレーズ戦術を展開してくるだろう。

 「自衛隊は軍隊じゃないのか」

 軍隊に決まってるさ。

 国民投票は二者択一型だから、予想されるキャッチフレーズも二者択一型が多くなる。

 「ウソをつく憲法がいいのか、ウソをつかない憲法がいいのか」

 ウソをつく憲法を認める国民がいるか?

 こんなふうに、「おれたちはごく当り前の話をしているだけなのになんで反対するんだろ」とくびをかしげてみせるのが小泉流キャッチフレーズ。

 勝手に憲法違反の現実をつくっといて、この現実は動かせないと居直るなんて筋の通らない理屈なんだけど、いまさら腹を立ててみても仕方ない。憲法違反の自衛隊をむざむざ肥大化させてしまった怠慢のツケがいま回ってきているんだからね。

 「侵略されても黙って家族を見殺しにしろと言うのか」

 「武力を伴なわない外交では中国になめられてしまう」

 足を止めさせるキャッチフレーズの要諦は聞く者の不安をかき立てることだから、こんなふうにどんどん不安をかき立てるキャッチフレーズも乱発してくるにちがいない。

「ことば・ことば・ことば

 ことばには どくがある。

 たったひとつの ことばが

 蝮のどくよりも よくきく」

 井上ひさしさんの『天保十二年のシェイクスピア』を観にいったら、主人公の唐沢寿明さんがそう歌っていた。昨秋の衆院選の直後だったから、唐沢さんの顔に「改革、賛成か反対か」と絶叫していた小泉さんの残像がだぶってしまって、すごく生々しく聞こえた。

 相手が不安醸成型キャッチフレーズ戦術で仕掛けてくるのなら、遠慮することはない、こちらも同じように不安醸成型キャッチフレーズ戦術を展開して対抗していけばいい。子どもや若者の生命を脅かす危険が現実のものとなりかかっている正当な不安が存在するのだから、その不安をかき立てて、どこが悪いの? 堂々とかき立てていいのだ。私の「電気毛布は余計な水分を奪いすぎる」だって、正当な不安だから使っているのだ(こんなところでお前の商売を正当化してどうなるんだってか、ごめんごめん)。

 あっちが「日米同盟の軍隊を持たないで妻子が守れるか」と言うのなら、こっちも「日米同盟の軍隊が海外へ出ていったら、妻子が守れるか。銃後(死語が生き返ったね!)にスペインやロンドンみたいなテロの危険がふりかかる」と言い返してやればいい。あるいは「アメリカの軍産複合体のために日本の若者の血を流すなんて、まっ平」とかね。

 でも、こんなふうに言うと、すぐに猛反発がやってくる。

 「冗談じゃない、情を刺激することばで不安をかき立てるなんて邪道だよ。相手と同じ土俵で争っちゃいけないんだよ」

 それこそ、冗談じゃない。

 護憲派の多くは、情(感性的認識)は理や知を曇らせると考えているみたいだけど、説得に情と知は不可欠だから、昔から「知情合一」と言われてきたのだ。10人中9人が「9条を変えるなんてとんでもない」と言っていた時代をふり返ってごらん。その時代の多数派は戦争経験者だったろ。当時、9条の理念は経験という情だったから支持を集められたのだ。「冷戦に加担するなんて冗談じゃない、もう戦争はこりごりだよ」という経験が9条を支持するエネルギーの源泉だったはずだ。昔は護憲派だって「再び、わが子を戦場に送るのか」と情に訴えるキャッチフレーズを愛用していたのだ。

 知だけでは人を説得できない。いや説得できないことはないけれど、きわめて少数の人しか説得できない。

 9条の攻防戦はことばの戦いなのだから、説得力のある知情合一のことばをつくり出すためには、政党人のことば、学者のことば、文学者のことば、運動家のことばに頼ってばかりいてはだめだ。日頃、ことばの力で世間の評判をつくっている広告人のノウハウをもっとどんどんとり入れないとだめだ。

 広告のノウハウとは、ことばのつくり方と使い方をセットで捉えることば遣い。どんなことばを、いつ、どこで、だれに使うか、1ヵ月に何回くらい使うか。反応のにぶかったことばは素早く別のことばにさし替える。

 「郵政民営化、賛成か反対か」にしたって、ことばの力だけで一人歩きできたわけじゃない。ことばの使い方、つまりメディアの使い方と連動して定着していったのだ。メディアの使い方という問題に直面するとき、護憲陣営の戦略の立ち遅れはさらにはっきり見えてくる。

主戦場はテレビになるから今から準備しないと。

 市民運動のベースはもちろん草の根運動だ。「国民投票とどう向き合うか」という座談会(週刊金曜日06年2月17日号)で、小森陽一さんは次のようにおっしゃっている。

 『私たちの「九条の会」が目指しているのは“国民投票で勝つ”。この一点ですね。大事なことは、どうやったらどのくらいの期間でどの規模の運動で過半数を取れるのかという「仕込み」と「仕掛け」と「段取り」が必要でしょう。そこまで考えた運動にするのかどうかですよ。「九条の会」の事務局長として、全国に行ってみて、決定的に変わったなと思うのは、小学校の学区単位の全戸訪問をやっているところですね。自分の家からはじめて、九条について大丈夫かと塗りつぶしていく。必ずいろいろな反応、たとえば「北朝鮮の脅威をどうするの」というような生の声がくる。そうすると、この問題はどうする、ちょっと誰かいい智恵ないかという議論になって、だったらその問題は誰々さんに話してもらおうと学習会をやる。よしわかったというんでその人のところにもう一回話しに行く。本気で自分の地域の地図を塗りつぶしていくのが運動だと思うんです』

 私もまったく同感だけれど、そこにテレビがあらわれてくる。塗りつぶすべき地図に住む説得対象者宅にはテレビがあり、つねにテレビの影響を受けているからだ。地道な草の根運動をはばむ存在として、テレビの報道がある。「北朝鮮の脅威」はテレビ局の視聴率かせぎに有効な素材として実体以上にふくらまされているんだぜと説明したところで、やっぱり映像のことばは強いからなかなか説得しきれないケースも出てくるはずだ。

 小泉チルドレンを大量に輩出させた昨秋の衆院選は、あらためて、今日の「国民」は「視聴者」であることを証明してみせた。柳の下の2匹めのドジョウで、自民党は9条国民投票でも同じ手を使ってくるだろう、国民投票をエンターテインメントの物語に仕立ててテレビ局の視聴率主義をくすぐる戦略を使ってくるだろう。そんな土俵では争わないのだと意気ごんだところで、国民(視聴者)はテレビを見るのである。

 小森さんの言う「仕掛け」や「段取り」にもっとも欠かせない対象として、テレビがある。

 テレビのことばは水のように流れて消える。立ち止まって聞き返すことができないから、刺激的なキャッチフレーズは印象に残ってもボディコピーはあまり残らない。

 テレビのことばはつねに生身の人間映像を経由して語られる。同じことばでも語り手の親和力次第で伝わり方は大きく変ってくる。テレビでは、ことば以上に語り手が重要なのだ。

 あらためて言うまでもなく、テレビは知よりも情を刺激する媒体、複雑を単純にすり変える媒体だ。「だからテレビは問題をじっくり考えるのにふさわしくない媒体なんだよ」という意見は正しいが、今日の国民はあまり活字を読みたがらない「視聴者」だから、やはり9条の主戦場はテレビになっていくだろう。

 テレビを避けて、9条の戦いは戦い抜けない。テレビの商業主義を嫌悪して、9条の戦いは戦い抜けない。先ほど引用した『天保十二年のシェイクスピア』の歌は、実はこう歌い直すのが正解なのだ。

「テレビ・テレビ・テレビ

 テレビには どくがある。

 たったひとつの テレビが

 蝮のどくよりも よくきく」

 どくにはどく。テレビにはテレビ。その覚悟がなくて、どうして9条が守れるものか。

 ことばと語り手。テレビ言語と出演者。再び『天保十二年のシェイクスピア』の科白をもじって言えば、

 テレビか、集会か、それが問題だ。

 テレビか、活字か、それが問題だ。

 単純か、複雑か、それが問題だ。

 なじみのある著名人が明快に語るか、なじみの薄い九条の会発起人が難解に語るか、それも問題だ。

 いま、テレビという巨大な主戦場を前にして、護憲派の政党も市民グループも途方に暮れている……そりゃそうだろう、テレビ戦略をいきなり素人に考えろと言われてもねえ。

 対する自民党は「コミュニケーション戦略チーム」という自前の広告代理店をつくり、小泉郵政選挙でトレーニングを積んで自信をつけてきた。チームリーダーの世耕弘成さんは最近、そのトレーニング内容を本にしてくれた。題名はずばり「広告戦略」だ。

 「例えば、菅直人氏が出てくるなら絶対に竹中平蔵氏。これは相性がとても良かった。えびす顔をした竹中氏との討論になると、菅氏のほうがだんだん眉間にシワがよってきてイラついていくのがわかった。

 テレビ出演のひと枠たりともムダにしなかった。それは党の職員にも徹底した。出演依頼の電話を適当に受けたり、その場での返事はご法度。『どんな相手ですか、どんなテイストでやるんですか、司会者がいてひとりずつ質問していく形式ですか、それともみんなでディスカッションする討論形式ですか』、それを正確に聞きだすよう徹底させた」(プロフェッショナル広告戦略・ゴマブックス刊)

 企業広告や商品広告をつくっている企業人や広告人が読むと、この本に描かれている自民党の広告戦略はごくごく常識的なレベルだが、著者の世耕さんはなるほどプロフェッショナルだ。「テレビ出演のひと枠たりともムダにしなかった」はプロでなくては言えないディティールだ。

 プロか、アマか、それが問題だ。

 いや、少しも問題じゃない。こっちも戦略チームをつくればいいんだから。

 「つくるって、一体、どこに広告戦略のプロがいるの?」

 いるともさ。もし、護憲の各党各派が一堂に集まって統一的な戦略センターをつくると決めてくれさえすれば、手弁当で馳せ参じてくれる護憲の広告人はいっぱいいるよ。いまはどこへ馳せ参じたらいいのかわからないから動けないだけ。

 もし統一的な戦略センターをつくれれば、いざ国民投票で決戦となったとき、護憲の広告人たちによびかけて、この戦略センターをメディア担当、マニフェスト担当、キャッチフレーズ担当、反論担当、マーケティング(調査)担当、広告塔・応援団(著名人)担当などの部署をもつ「9条広告代理店」に変えてもらうのだ。

 国民投票の効用は、テレビ局が改憲派の主張も護憲派の主張も公平に報道してくれることだ。わが国のテレビ報道(NHKも民放も)は放送法第3条の2で、「政治的に公平であること」「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」と定められているから、さすがに国民投票ともなれば各局とも小泉郵政選挙ほどの偏重報道はつつしむにちがいない(つつしまない場合に備えて、護憲派は事前に量的公平報道を申入れておく必要がある)。好むと好まざるとにかかわらず、国民投票が最後の勝負どころになるのだから、いまからせっせと準備しておかないと間に合わないのだ。戦略を欠いたバラバラの戦い方で国民投票を迎えるわけにはいかないのだ。

 「戦略を一つにまとめても勝てるかなあ? 自衛隊の問題は日米安保の問題であり、アメリカの軍事力に依存したがっている人、ずいぶん多いからなあ」

 いいじゃないの、負けたって。

 もし負けたとしても、惜敗率が高ければ高いほど、この先、アメリカが横暴な要求をつきつけてきたときの拒絶材料として使えるんだから。

 「海外派兵ですか、ムリ、ムリ。なにしろ日本国民の半分近くが9条2項の改憲に反対でしたからねえ」

 自民党にも外務省にも宇都宮徳馬さんの流れをくむ人はいるよ、と信じようよ。

 「まだ、あきらめない」って、そういうことだ。 (斎藤 駿)

<編集部注> この原稿は軍縮市民の会・軍縮研究室発行の『軍縮問題資料』06年5月号から発行者の許可を得て転載しました。筆者は雑誌『通販生活』発行人の斎藤駿さんです。『軍縮問題資料』2006年5月号についての情報はこちらへ