鈴木龍治/沖縄平和ネットワーク、JCJ出版部会会員/「大江健三郎・岩波書店訴訟」が狙うもの/06/03/15
鈴木龍治(沖縄平和ネットワーク、JCJ出版部会会員)
日本の知性と良心を代表すると多くの人が認めるノーベル賞作家・大江健三郎氏と、同じく信頼性の高い出版社である岩波書店が「謝罪広告等請求事件」の「被告」の座に立たされている。大阪地裁で昨年10月からほぼ2ヶ月ごと、すでに3回の公判が進行しているが、マスコミの関心が薄いせいもあってまだ一般の市民に広く知られるに至ってはいない。この稿ではその概要だけを、「マスコミ9条の会」の皆さんのご記憶にとどめていただきたいと思う。
争点は沖縄戦である。沖縄本島への米軍上陸に先立って、米軍は本島西方の慶良間列島に上陸した。その際住民の多くに犠牲者が出たが、中でも悲惨だったのが少なからぬ人数が「集団自決」(「自決」ではなく「集団死」という言い方が正しいという意見もある)によって命を失った事実だ。
今回の訴訟は、その事実に触れた数多くの資料の中から、いずれも岩波書店が発行元である家永三郎著『太平洋戦争』、中野好夫・新崎盛暉共著『沖縄問題二十年』、大江健三郎著『沖縄ノート』の3著作を取り上げ、販売・頒布の禁止と謝罪広告、計3000万円の慰謝料を求めている。故人である家永・中野両氏を除いて存命の大江氏と法人としての岩波がやり玉にあがったというわけだが、なぜか健在で沖縄に在住の新崎氏は告訴対象から除外されている。
訴えを起こした原告は2人で、1人は沖縄戦時に慶良間列島の座間味島で海上挺進第1戦隊長として米軍と戦った梅澤裕元陸軍少佐(陸士大52期、89歳)。もう1人は同じく慶良間列島の渡嘉敷島で海上挺進第3戦隊長であった故赤松嘉次元陸軍大尉の弟、赤松秀一氏である。
(写真/慶良間諸島/渡嘉志久ビーチ)
両原告は、それぞれの島で「集団自決」があったことは認めるが、それは日本軍の命令や強制によるものではなく、そのように記述した前記の著作物や著作者は読者を誤らせ、梅沢、赤松両隊長の名誉を毀損したと訴状で主張している。
原告らの認識では、慶良間での「集団自決」には日本軍の責任はなく、自決は住民らの自発的決断だった。にもかかわらず、前記著作物などが誤解を生じさせたという筋書きだ。
梅澤、赤松氏の提訴が行われた昨年8月、「沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会」が結成された。その趣意書に、「私たちはこの訴えをまったく正当な、勇気ある行動だと思います。沖縄戦に関しては、『軍命令』によって集団自決が発生したという過った情報が子供たち対象の書物や、映画、教科書ですでに大量に独り歩きしており、これ以上とうてい放置できない状況です。今回の裁判は梅澤、赤松両氏の名誉を回復するだけでなく、日本の名誉を守り、子供たちを自虐的歴史認識から解放して、事実に基づく健全な国民の常識を取り戻す国民運動にしなければならないと私たちは考え…」とある。
その「支援する会」の役員名簿を見ると、個人では「自由主義史観研究会」の藤岡信勝、岩田義泰、上杉千年氏らが並び、協力団体としては「自由主義史観研究会」、「昭和史研究所」、「大和心のつどひ」、「新しい歴史教科書をつくる会大阪」などが名を連ねている。
提訴者とその支援者たちの正体と政治的な目的は明らかであろう。同じ内容の記述でも沖縄戦後いち早く「集団自決」と軍の関係などを取材して発表した「沖縄タイムス」の、今では古典的な名著とされる『鉄の暴風』や、丹念な調査と住民証言に基づいて編纂された沖縄県史などにはわざと触れずに、沖縄からは遠隔の地に住む大江氏や岩波書店を標的にし、裁判所も東京や沖縄ではなく、傍聴や監視、被告への支援がしにくい大阪を選んでいる。
大江氏が「九条の会」の呼びかけ人の1人であり、岩波が護憲運動の中で重要な役割を果たしていることも彼らが標的とした理由の一つだろう。
原告側は、両隊長による「軍命令」があったかどうかの一点に問題を絞って突破しようとしているが、子どもや女性、老人を含む「集団自決」の悲劇は、一片の命令や通達の有無で発生するものではない。長年にわたる皇民化教育や小さな地域に絶対権力を持って大量の軍隊が陣を構えて住民を支配し、米軍による猛攻撃から住民を守ろうとしなかった経過、などが住民を悲劇に追い込んだ事は明らかである。また、「本土決戦」のための時間かせぎに沖縄全体を捨て石にするという大本営の戦略そのものが、住民の命を奪う構造に他ならない。
九条を中心とする憲法を改悪し、靖国思想による「皇軍」の復活を目指す勢力にとって、沖縄戦に絡む諸事実は喉に刺さった骨である。中でも「軍隊は住民を守らない」という、沖縄戦から県民が学び取った最大の教訓をないがしろにし、住民犠牲を殉国美談にすり替えて新たなナショナリズムと国防意識を宣伝するために、反戦の象徴的存在である高名な作家と出版社に攻撃をかける必要があったのだ。
この裁判で、私たち沖縄で平和運動に携わる者は、単に大江氏と岩波書店に対する「応援団」として関わるのではなく、真実と誇りをかけた自らの闘いとして位置づけ、取り組んで行こうと決意している。法廷の現地大阪(関西)でも、いち早く傍聴支援の体勢が築かれつつある。今後の推移にご注目をお願いしたい。