橋本誠/東京新聞/周到に殺傷力高め 東京大空襲 焼夷弾の実像 /07/03/09
1945年3月10日の「東京大空襲」で降り注いだ焼夷弾(しょういだん)。B29爆撃機約300機の攻撃で、10万人以上の命が奪われた。街を焦土に変えた兵器はどのように使われ、進化したのか。東京大空襲の被害者が集団提訴する9日を前に、愛媛県の高校教諭藤本文昭さん(43)が入手した米軍の映像から「無差別爆撃の主役」の実像を探った。(橋本誠)
■ 愛媛の高校教諭 米軍映像を発掘
「焼夷弾の燃え方や中身がよく分かる映像。どれも驚きながら見ました」
映像を初めて見た印象を藤本さんは振り返る。
藤本さんは、今治明徳高校矢田分校で英語教諭を務め、B29の元搭乗員インタビューなどの平和学習に取り組んできた。今回の映像は二年前からワシントンの米国立公文書館に足を運び、入手した約六時間分。今月下旬の「高校生平和サミットin沖縄」に参加する生徒が、ダイジェスト版を発表する予定だ。
「日本空襲に関するムービーは20年以上見つかっておらず、大変貴重」と話すのは、作家で「東京大空襲・戦災資料センター」館長の早乙女勝元氏。東京に向かう部隊のドキュメント「ターゲット東京」や、中国から日本を爆撃するB29のために建設したインドの補給基地などいずれも興味深い資料だが、最も目立つのが焼夷弾の映像だ。
東京大空襲・戦災誌(東京空襲を記録する会編)によると、「東京大空襲」の一夜で投下された焼夷弾は実に約1,700トン。その際、少数の先行機が目印として投下したのが「M47A2焼夷弾」だ。大型の油脂焼夷弾で、映像では爆弾倉から落ちていく様子が映っている。
米軍資料を分析している空襲研究者の奥住喜重氏は「米軍の命令書にも最初に投下するよう書いてある。すき間なくたくさん積むために、6発ずつ束ねて落とされた」と話す。
M47A2が起こした火災を目安に、後続の本隊がばらまいたのが「M69焼夷弾」。中身は石油精製物のナフサとパーム油などを混合したナパーム剤。木造家屋の内部にとどまるよう小型化された日本向けの油脂焼夷弾だ。今回の映像には38発のこの焼夷弾を一つに束ねた「E46集束焼夷弾」が映っている。兵士がクレーンで慎重にトラックに積み、信管を取り付けてB29に搭載する様子などが記録されている。
E46は投下後、目標上空で散開。子爆弾のM69は着弾後、ナパーム剤を噴射し、付着した衣服や家屋を火炎で包む。「第二次世界大戦のナパーム弾の歴史」というカラー映像には、ベタベタしたゼリー状のナパーム剤を指でつまんで見せる場面がある。粉末の燃焼剤をドラム缶に注ぎ、ナパーム剤を調合する作業風景もある。
■「硫黄島で使用」55ガロン弾も映す
砂浜などで行った投下実験の映像も多いが、奥住氏が注目するのが「55ガロン焼夷弾」。ドラム缶のようなボディーにナパーム剤とガソリンを詰め、羽根を付けて落とす映像がある。「辺りを焼き払う大型の焼夷弾。『硫黄島の戦闘で使われた』と文献にあるが、映像を見たのは初めて」という。
■ M50シリーズは鉄筋建物を照準
一方、M69より貫徹力が強く、鉄筋コンクリートの建物にも突き刺さる「M50」シリーズの焼夷弾の実験映像もある。マグネシウムの筒部と、中に詰められた酸化鉄とアルミニウムからなる溶接剤(テルミット)が激しく火花を噴いて燃える。飛行機から落とされたM50が屋根を突き破り、いすやテーブルを燃え上がらせるシーンもある。
奥住氏は「M50は、ドイツ製をまねた英国の焼夷弾を米国がさらに改良した。燃えにくいドイツの街を焼くためだったが、45年5月にドイツが降伏。大量に余り、どんどん極東に持ってきた」と説明する。八王子の空襲では屋根に穴が開いた。
さらに目を引くのが、M50の消火実験だ。バケツで水をかけた瞬間、かえって爆発的に燃焼している。「消せない」「近づかない方がいい」と話す声も。シャベルで砂をかけたり、長時間ホースで水をかけたりしないと消えない。奥住氏は「真珠湾攻撃の後、米国は『日本軍が太平洋沿岸を攻撃してくるのでは』という恐慌に陥った。そのころ、米国の一般市民に焼夷弾の防御方法を教えた映像では」と推測する。
早乙女氏は「すごい威力で、燃焼時間も結構長い。周到に用意され、極めて合理的だ」と舌を巻く。対する日本側の備えは、砂袋とバケツリレー、火たたきという“三種の神器”だった。「東京大空襲」では市民も消火の義務を課せられたが、一軒に5発も6発も落ちれば消しようがなく、逃げ遅れる人が続出した。早乙女氏は「『必勝の信念』で消せと言われたが、まるで江戸の火消し。この映像を当時の軍部に見せたい」と憤る。
■ 日本軍も開発 重慶爆撃で投入
軍事ジャーナリストの前田哲男氏によると、こうした焼夷弾は日本も中国での戦闘から使っていた。「テルミットやマグネシウムのほか、燃焼時間が長く、激しいにおいが心理的効果を生む黄リンも使われた。(1938年に爆撃が始まった)重慶も、日本と同じ燃えやすい木造家屋が多かったため、大火災が発生した」。ドイツもゲルニカ爆撃でテルミット型焼夷弾を使ったという。
こうした焼夷弾の最終進化形といえるのが油脂焼夷弾だ。前田氏は「米国は英国、ドイツ、日本に続いて一番遅く開発を始めたが、最後は一番効率的で破壊力の強いものに到達した」と解説する。第二次世界大戦後は主に「ナパーム弾」の名で使われ、最初に大規模に使われたのが朝鮮戦争だった。「日本爆撃と同様にB29で集束焼夷弾を落としたが、規模と量がはるかに上。平壌は東京以上に完ぺきに破壊された」(前田氏)という。
ベトナム戦争では、より大型の爆撃機が使われ、ナパーム弾の投下量も増えた。早乙女氏は「ナパーム弾の炎から逃げた少女を取材したが、一発で小学校の運動場ほどの面積が火炎で覆われる。あの下に人がいると思うと、ぞっとする」と振り返る。
負の遺産はまだある。集束焼夷弾の「集束」は、英語でいうと「クラスター」。分裂した子爆弾の不発弾に触れた民間人が犠牲になる「クラスター爆弾」の語源と同じだ。レバノン紛争やイラク戦争で使われ、世界的に問題になっている。
「日本では『親子焼夷弾』と呼ばれていたが、クラスター爆弾は昔からあったということ」と奥住氏は話す。先月、禁止条約の交渉が始まったが、米国などが製造をやめる気配はない。
一連の映像を見て、早乙女氏はこう警告する。
「62年前の兵器でさえ相当の殺傷力があったことが確かめられた。今はさらに途方もない破壊力に発達しているということです」
<デスクメモ> クラスター爆弾の廃絶を国際社会が目指した先月のオスロ宣言には、米、ロ、中が不参加。日本は「安全保障などの理由」から態度を保留した。自衛隊には日本がライセンス生産した数千発のクラスター爆弾があり、防衛省側は「専守防衛のための兵器」と説明している。ライセンスの元は、もちろん米国だ。(蒲)(東京新聞2007.3.9朝刊・特報)