NO PASARAN(奴らを通すな) 近田洋一(ジャーナリスト) 06/02/01


 

NO PASARAN(奴らを通すな)                

近田洋一(ジャーナリスト)          

 1月3日から10日までスペインに行きました。マドリードにあるピカソのゲルニカに会い、スペイン人民戦線の足跡をたどりスケッチするのが目的でした。

 僕が生まれた1938年はマドリード攻防戦の最中です。共和国政府に対して、フランコ軍と彼を後押しするイタリア、ドイツ軍が首都マドリードに対して激しい攻撃を加えて、市民がこれに抵抗していました。同時代感覚というのでしょうか。僕はファシズムに対して、党派を超えて立ち上がったスペイン人民戦線に強い関心を抱いていました。

 当時人々が叫んだ NO PASARAN の合い言葉は、憲法を改悪しようとたくらまれ、ファシズムが足下に忍び寄っているとき、再び僕たちの合い言葉として新鮮に甦ってきたのです。僕は当時の戦線配置図と記録を元に、フランコ軍による虐殺があったマヨール広場や、これに抵抗して市街戦が繰り広げられた路地などをスケッチしました。こうした中で見たゲルニカは新鮮で衝撃的でした。 新幹線でピカソが生まれたマラガに向かう途中、アンダルシアの旅はつらいものでした。

見渡す限りのオリーブ畑。ガルシア・ロルカはこの辺りで殺されました。もう一つ、心に大きく占めていたのはスペイン人民戦線へ、国際義勇軍として日本人では唯ひとり参加したジャック・白井のことです。生まれは函館。アメリカに渡り、反ファッショ活動をした青年です。このグループには沖縄から多くの移民労働者も参加していました。

白井はリンカーン旅団に加わり、記録によるとオリーブ畑の塹壕からちょっと頭を出したところをフランコ軍の狙撃兵にこめかみを射抜かれました。広大なオリーブ畑が彼の墓標です。「彼はこのどこかに眠っている」。胸が締め付けられる思いでした。

マラガでも共和国支持の市民は徹底抗戦しました。教会には犠牲者が祀られています。 強調したいのは、スペイン人民戦線について当時、日本はまったく取材していないのです。これは「九条改悪反対」運動を無視し続ける今のメディア状況と酷似しています。  石垣綾子は「オリーブの墓標」の中でジャック・白井を追跡するとともに、「戦後から今に至る沖縄県民の抵抗がスペイン人民戦線を受け継いでいる」と書いています。  

今、沖縄は基地再編の中で再び世界規模でのファシズム体勢に組み込まれ、日本からも見捨てられよう、としているのです。スペイン人民戦線と沖縄、今生きている僕たちが地続きで繋がっていることを、どうすれば理解できるのでしょうか。