岩下俊三/ジャーナリスト/この憲法があるからこそ闘えるのだ!!/07/05/15
岩下俊三(フリージャーナスト)
憲法改正の手続きを定める国民投票法案が与党単独で、5月14日可決、成立した。参議院審議では最低投票率の是非などが論点となったが、与党は何ひとつ修正することなく18項目にわたる付帯決議という民主党への“めくらまし”で、採決に踏み切った。目の前にある参議院選挙などへの思惑から、野党は当然硬化する中、これを奇貨とし、あれよあれよという間に憲法改正への手続き法を決めてしまった。拙速のそしりは免れ得ない。まことに残念であり、わが国の議会制民主主義の崩壊というほかない由々しき事態である。
またこの事態は、そもそも自民党内にくすぶる自らの“憲法草案”にたいする異論のためか、ここまで自・公の与党と民主党合同ですすめてきた憲法論議自体の成立をかえって遅らせる結果となってしまった。その意味で安倍普三の強引さは、民主党の枝野議員に“彼は究極の護憲”と皮肉られるほど、対処療法的に、解釈改憲で集団的自衛権を行使すべきなどという、かえって憲法改正議論を遠のかせるような訪米前の安倍首相の言質があり、混乱していた。というより実は他に“ある特殊な勢力”によるより巧妙な策動で戦後60年のさまざまな思いが一瞬にして踏みにじられたというべきか、いずれにしてもこの結果に甘んじている野党、特に民主党のエゴイズムが気になる。日本にはもう与党しかないのか?
党派性を優先させて議席微増のために、この地方選でも萌芽しつつある「超党派」の憲法改正に反対する市民勢力の芽をもつみとり、与党の数の論理を勢いづかせ、このような重要法案を結果的に通してしまうことは、擬制の民主主義と疑われても仕方ないレベルに今の野党の無様さは達しているようにも見える。だから、もちろん、第一義的には憲法を守る立場にある安倍首相の「反立憲主義」や、みずからのDNAにもとづく改憲への情念で、この手続き法を「政治化」させたことの理不尽さ、見識のなさに、まずその歴史的な責任がある。もちろん、憲法の主権者である国民の意思を問うための、国民投票法案であるならば、憲法そのものの改正と同じく、その手続き法といえども、中身や問題点についての十分な議論にもとづく広範な合意が必要であり、それがなされないということは、民主主義を標榜する法治国家のやることではない。しかも、数に任せて強行採決しさえすれば、最後は無理が通れば道理などいとも簡単に引っ込むとでも思っているのだろうか。
まずは第一に、安部総理に従軍慰安婦問題や、沖縄の集団自決問題同様その責任をきびしく問いたい。
しかし、いくら与党のやり方を非難しても議席がとれない野党であれば、何をされても、しょせん詮無いことであろう。そして市民が「超党派」というパルタイ(党派)を超えた無党派層(政治的関心の高いがゆえの無党派)になっているのを理解しないで、55年体制的な旧態依然とした野党エゴイズムに陥って、不満を結集し、具体化できないでいることこそが、むしろ大きな問題であろう。そして、何よりもジャーナリズムの問題はもっと大きい。今、自民党の憲法策動のどさくさのなかで、決められようとしている放送法、とりわけ政党の意見をそのまま流す「編集権の自由」への侵食を改憲策動の一環として捉えるなら、この際「あるある大辞典」に引っかけて何でもやってしまおうという総務省の言論弾圧的意図に、どうしてジャーナリズムに携わる人たちは怒らないのか。起ち上がって闘わないのか。また、たとえ怒ったとしても、総務省からの理不尽な恫喝に萎縮し、自主規制でなんとか電波法という既得権の“オメコボシ”に与かろうとしている姑息な態度はなんなのか。私は早速懇意の、ある民放プロデューサーにこのことを問い質した。
「あなたはそもそもなぜこの職業を選んだのか」という僕の問いに対しての答えは「スキルさえあれば、どんな職業でもよかったのです。たまたまテレビ局に受かったものですから、新日鉄でも内定が早ければよかったんですが・・・・」というので「ではジャーナリストとしての職責に対して、メディアの戦争責任はないのか」と畳みかけるとあっさり「ありません」という。 この歴史認識、職能意識の甘さこそが安倍首相と同じく「二枚舌」そのものであって、いずれ歴史に責任をもつべき立場にいながら、今の自分のスキルや金銭には興味があっても、歴史には興味がないと平然という。それが安倍総理をはじめゲーム世代の政治感覚であり、ルサンチマンなどとは無縁な、しかし異様にスキルの高さを競いあう新自由主義社会、つまりアメリカ型のエリート社会というものかと思い、愕然とした。そこにビジョンや哲学のない安倍首相と同じ“あたらしき幽霊”をみたような気がした。
道理で格差は広がるはずだ! 唖然としながらも、僕は思った。老人や子供いわゆる社会的弱者を嘲笑し、置いてけぼりにしていく先にあるのが“戦争”だったりするのだけれど、かように考える能力はあるのに考えようとしないのはなぜだろうと。
考えれば、格差される社会は差別が拡大されたままこうして法整備され確定されていく。再び軍国主義が助長され、脱落した者は二度とエリートに戻れない。こうした風潮の社会で、差別にあえぐ若年フリーターの中から、澎湃としてわきあがる「戦争待望論」を時の権力は見逃さないだろう。いかに利用するかが、容易に思い浮かぶ。
その矛盾を突くことなく自己保身にのみに身をゆだねているメディア関係者は、ジャーナリストにあらずだ。権力の太鼓もちになって、ゆでがえるのような、人生をゆであがるまで楽しむ輩でしかないし、ジャーナリストの風上にもおけない連中にすぎない。自分の職制における責任を果さない、一見、ジャーナリストたちが社会的に尊重されるような世の中で、敗戦によって戦争の反省から生まれ、国民の努力と総意で60年守ってきた憲法が、その運命を変えられようとしている。いまこそ事の真相を国民に正しく伝えようとしないジャーナリストは、その歴史認識の捏造と同じ、一部の靖国派の策動に乗せられた人間として、厳しく歴史のなかで糾弾されるであろうことを知れ!
ジャーナリストよ、だから、いまこそふんばれ!萎縮するな!