岩下俊三/ジャーナリスト/歴史捏造の犯罪を犯し、靖国体制を推進する安倍内閣の危険/07/06/15


 

歴史捏造の犯罪を犯し、靖国体制を推進する安倍内閣の危険

 

岩下俊三(フリージャーナリスト)

 国民投票法が他の「重要法案」と同様の強引な強行採決をもって、与党賛成多数で可決、成立したがその実態はあくまで不透明で、法案を通過させた本人すらもその本当の意味が理解できていないらしく、憲法問題に長く取り組んできた民主党の枝野議員などはあまりの残念さに激怒し、安倍首相の見識のなさに「彼こそが究極の護憲派なのでは?」といった皮肉が飛び出す顛末と相成った。もっとも安倍首相に今更見識の有無を問いただしてもどうなるものでもあるまいが、ただ問題は一国の宰相としての発言が残念ながらその国の文化レベルをも代表しているとされがちであるから、彼がどういう軽薄な思想信条をもとうともかまわないけれども、少なくとも発言権を与えられるための最低限の認識くらいはないと、周りの日本人記者団の同一視される目線もたまったものではない。それでも国際会議では取材できる権利すなわちプレスカードを手にするだけでよしとしている連中も多く、自国の首相とともに諸外国から馬鹿にされてもこたえないらしい。本業の批判精神を忘れて己のスキルアップと実績(給与)さえ上がれば、ジャーナリストである必要もないらしい。人間、矜持さえ捨てれば、仕事であっても気楽なものだなぁと感心するほどだ。しかし、ものを言っている主体は、サルではなく人間ですよというほどのことは相手に理解させたほうが、世界に通用するのではないかと僕なんか思うけど・・・・。やっぱり古いのかなぁー。
 というのは、私などは、ものをいうための文化レベルは当然必要だと思うので、突然、安倍さんが「戦後レジュ―ムからの脱却」などと言い出すとハラハラしてしまうのである。総理大臣がそのようなことをいえば、当然、第二次大戦の敗戦国であった日本のファシズム体質を、アメリカをはじめとする戦勝国がどう管理するかという世界的な枠組みを唐突に脱却し、わが国が管理する立場に回ることを意味することになり、彼の当面の目的に反し、日米同盟に楔を打ち、ひょっとすると日本が「核」を保有しかねないという危惧を近隣諸国はおろかアメリカにも与えかねないことを分かっていっているのかなと心配になる。このことは単なる杞憂というだけでなく、憲法九条を改悪して「戦争をする国」になることを自民党憲法草案が宣言しているだけに、そう捉えられかねない。本音のようなそこまでの決意はないような安部の態度ではあるが、こうしたままでは説明不足のそしりは免れないし、相手にあらぬ警戒を与えてしまうことがどうしてその場で想像できないのだろうか、これを見識不足といわずして何というのであろうか? 

 かくのごとく相手の立場にたって考えない決定的な想像力の欠如こそが、文化力の欠如そのものであって、たとえば従軍慰安婦問題における安倍首相の「狭義の云々」という発言をとりあえず発信すること自体、あとで修正するにしろ何にしろ、その未分化さをすでに露呈している。これでは聞く耳すら持ちようがない。もともと政治的に話題にもならなかったのに安倍の軽薄な発言が同盟国のアメリカにもたしなめられる結果になった。そういうことは、そうした発言をたしなめる人間がメディアを含め、いなかったということになる。またそうした安倍総理が無自覚に持っている国家観つまり「無反省史観」は周辺国に無用の警戒感をもたらせるだけでなく、歴史の捏造という犯罪を容認していく靖国体制のようなものをいっそう助長していくものにほかならない。それを本人が気がついていようがいまいが、ナショナリズムの蔓延として意外と自足的にはやく進むものになっている。そうした事実こそが歴史的な事実を認識していないという安倍内閣の危険さでもある。そして何よりそれを阻止しようとしないジャーナリズムの不作為は後の世に、その責任が厳しく問われるはずである。

 為政者はえてして国民と国家を同一のものにしたがる傾向がある。だからかつての皇民化教育が手っ取り早く国民を軍人に仕立てあげ、死地に向かわせるための有効な手段であったし、いまもなお「愛国心」という精神的支柱をうち立て、ならず者の扇動を使って教育基本法を変え、やっと手にした平和をまもる憲法という為政者への縛りをなくそうとしている。そうしてウソの美辞麗句をならべた「美しい国」すなわち対処療法的なポピュリズムで一時的な感情論で多数さえ占めれば、強行採決で自らの軽薄な政治的決断を推し進めることで、自分の思うようになると信じているらしい。だから国家権力さえ掌握すれば憲法を改正し思うがままの個人的な野望(いい悪いは別としてそういった志、哲学、ルサンチマンすらもないのがよけい怖いのだが・・・)が実現できると思っているらしい。歴史認識も年金行政をはじめとする政府自体の自己検証もまったく意に介しておらず、たとえばあきらかになかった大量破壊兵器の存在を根拠にしたイラク派遣などと同様、「喉元過ぎれば・・・」で松岡農水大臣の自殺すら時が過ぎれば、どこ吹く風で検証する必要などないとおもっているようだ。まして年金問題など一時的な反省の意を示せば一年先には例によって「水に流して」くれるだろうと考えている節がある。まさに狂乱したお坊ちゃまの行状としか言いようがない。由々しき事態である。これは文化レベルを云々する以前の問題で、安倍総理は自分の敬愛する祖父・岸信介の失脚は彼が思っているような日米安保の双務性を一歩進めんとしたことに対する国民の無理解ではなく、強行採決という手法が国民大衆の怨嗟をよんだことにあるという事実を知ろうとはしないし、まだ理解していない。また一部与党のなかで不協和音となっている憲法の解釈変更は連立の基盤をゆるがしていることも無視して、まだ「官邸主導」だとうそぶいているらしい。この莫迦殿を諌めるものはいないのか?

 はたしてそれでいいのか?この安倍の体たらくにメディアは奮起するどころか官邸担当になった出世コースに乗った若き記者たちの「裸の王様」の安倍首相に気に入られる質問しかしなくなるという現象すら招いている始末。デスクはデスクで自主規制さえすれば安全だということで唯々諾々と「客観」報道しつづけている。その意味で「あるある大辞典」問題とNHK問題の影響は大きい。はたしてそれでいいのか?日本にはジャーナリズムはないのか?といいたい。もちろんそれは僕がいっているのではなく、もはや政府というならず者の「おれおれ詐欺」でだまされた国民の悲痛な叫びとして、そういっているのである。
 1948年生まれ。慶応大学卒、パリ大学在学中から映画制作、BBC、フランス2などでテレビドキュメント制作従事。1985年よりテレビ朝日をベースにニュースステーション、報道特別番組を制作、世界中の紛争地域を取材。大学講師(表現文化論)。