岩下俊三/フリージャーナリスト/いま必要とされる東アジアとの共同体意識/06/04/15


岩下俊三

1948年生まれ。慶応大学卒、パリ大学在学中から映画制作、BBC、フランス2などでテレビドキュメント制作に従事。1985年よりテレビ朝日をベースにニュースステーション、報道特別番組を制作、世界中の紛争地域を取材。大学講師(表現文化論)。

 いま必要とされる東アジアとの共同体意識

戦後、一貫して日米関係のみに偏ってきたわが国の歴史のなかで、いまほど東アジアにたいする共同体意識が必要とされる時代はないと思う。しかしながら、その一方で、近隣諸国とりわけ中国との「摩擦係数」が、靖国問題を契機にこれほどヒート・アップしている時代もまた、なかっただろう。

 このことに関してはいろんな解説や論評がみられるが、小泉首相がいう「これは心の問題であって、他国に止めろといわれたから・・・」云々、そして中国側にもみられる「反日」的言辞等々は、お互いの国民感情をいたずらに刺激し、それが両国に内在する政治的矛盾をカバーする政治家の「小気味よい」「短絡した」発言、内向きのメッセージとして利用され、その結果安易なナショナリズムの高揚を促してしまったというのが実情のようだ。

政治の不作為、それはつまり、自らの脆弱な政権基盤を、大衆迎合のポピュリズムによって支えようとする卑劣で品格なき政治手法といわざるをえず、今流行の「国家の品格」からしても、けっして上等とはいえず、また真の保守または愛国精神とも似て非なるものといわざるをえない。というのは、僕自身が日本と中国の外交関係者や政治家にインタビューすると、「ON」では、それぞれ建前として相手国の非難をするが、「OFF」(記録に残らない雑談)では、ほとんどのヒトが「ほんとは、困っているんです」と嘆きつつ、なんとか解決の糸口を模索して悩んでいるからである。悩んでいることはそれなりに認めるが、それを表にださないのはやはり卑怯だとおもう。

しかし、これを卑怯というなら、卑怯はむしろメディアの側にもあって、日中摩擦を奇貨として、このことを煽り立て、視聴率を上げようとか、発行部数を伸ばそうとかする「邪悪」な精神のことも糾されるべきである。もとより、「神が死んだ」というニーチェ以来、何が正義で何が悪かは僕のような浅学の手に負える命題ではない。ないけれど職能として「してはならない」ことは、あるはずだと思う。当然、多様な意見があり、極端な意見も含め言論の自由は保障されていなければならないし、まして国家に管理されてはならない。国家が、もし例外的に、管理すべきはむしろ「ナショナリズム」そのものであろう。それにしても今日の「中国問題」に関する一部メディアの論調は、あまりにも情けない。

問題の核心をなぜ本音で語れないのか

 僕は、絶対的正義はないといえども、「戦争」は絶対的に悪だと思う。こういうと2チャンネル的にいえば「サヨク」小児病といわれるかもしれない。また武力なくして国が守れるとおもっているのか=「乙女の祈り」(懐かしい言い回しだが)と揶揄されるだろう。しかし、僕がいろんな論客に直接会って、本音の話をした限りにおいては、むしろ「ウヨク」的な論者ほど、本当に「戦争」を正義と考え、東アジア間での紛争を「戦火」で解決できるというひとは残念ながら(?)一人もいなかった。武士道や愛国心を強調するのなら、なぜ本音と建前をつかいわける「卑怯な」ことをするのか、僕にはわからない。

そして、メディアの職能というのなら、日中友好を唱える「サヨク」(実際にいるのかどうか知らない)の人々に対しても、ただ現状を嘆き、論評するだけでいいものだろうかと思う。自分の出来ることを具体的にやることが、その姿勢があってはじめて、崇高な理念を述べることができるのであって、なにもしない「不作為」もしくはシニシズムは、それこそ55年体制の残滓としての「乙女の祈り」ではないだろうか。ではお前になにができるのか?と問われれば胸を張れるほどのことはない。ないけれど、実はこの間、ちょっと面白い「試み」に関与したことを、この際マスコミ内外のみなさんにお伝えしておきたいとおもう。

番組を日中両国で同時製作、同時放送

その試みとは当HP、「マスコミ9条の会」の呼びかけ人である「ばばこういち」さんたちが、先月末、日本と中国で同時製作した番組を同日、同内容で放送したことである。ことの顛末はまたの機会に述べるとして、いままでこのような試みは、あるようでなかった。費用対効果が見えず、ほとんどボランティアだったようだが、日中両国で、まったくおなじ内容を互いに全国に放送したのは今回がはじめての、「快挙」である。いまの状況を考えると、こういうことをやること自体が、いかに困難であったか想像していただけると思う。

ばばさんたちは、国家の垣根を低くし、お互いに相手のことを理解しあえるための作業を、メディアでしかできないことを、たとえ採算がわるく、自己の利益にならなくでも、やるべきだからやったという。単純明快。爽やかな風が一衣帯水の間を吹き渡ったと思う。

安全な場所から、何もせず、空理空論をいうのは卑怯だ。「野にして粗なれど卑に非ず」これこそが本来の“記者魂”だと思う。自他ともに猛省を促したい。