岩下俊三/「テロ戦争」は大量殺戮、人権無視が許されるのか/06/08/15
岩下俊三(フリージャーナリスト)
1948年生まれ。慶応大学卒、パリ大学在学中から映画制作、BBC、フランス2などでテレビドキュメント制作に従事。1985年よりテレビ朝日をベースにニュースステーション、報道特別番組を制作、世界中の紛争地域を取材。大学講師(表現文化論)。
いまや世界は「対テロ戦争」という“記号”に支配されているようにみえる。すくなくとも「対テロ戦争」という記号さえあれば、アフガンやイラクのみならず、世界各地で起きているどんな理不尽な大量殺戮も人権無視も許容されるということになってしまった。かくして「対テロ戦争」とは唯一絶対なる神であり正義であるということになった。なぜなら世界で唯一の超大国・アメリカの大統領が、イギリスで発覚した航空機爆破未遂事件に対し「イスラム教のファシストと戦争状態にある」と世界に向かって宣言し、この“記号”の圧倒的なパワーの下で「戦争」が正当化されているからだ。もちろん、この「対テロ戦争」という“記号”を易々と使うブッシュ氏個人は、霊長類のヒトとしてちゃんとした「言語」で表現する能力があるとはとうてい考えられないから論外としても、むしろ問題は「言論機関」であるマスメディアが、そのとうていヒトの発した「言語」とは思えない表現を、唯々諾々と伝えていることにあるのだ。
僕はかつて9・11事件が起きた時、何の確証もない時点で「同時多発テロ」という言葉を「すぐに」使うのはよくないと言った覚えがある。しかしマスメディアの「速報性」という大義名分に押されて「誰が、何時、何故いいだしたのか」分からぬまま、“記号”として便利だから、各社横並びで使い続けていったという「苦い」経験をしている。その伝でいうなら「イスラム教がファシスト」であるという文法的にも歴史的にも「言語」体系としてもまったく事実と違う誤った認識と、間違った「ことば」が、今度もそのままマスメディアに使われてしまった。
「もし批評なくして彼の言を伝えるのなら、テロリストを打ち負かすためにはレバノンの市民がどれだけ犠牲になってもよい!ということにならないか?」
←(イスラエルのレバノン空爆)
報道の現場でこうしたことをいう一言居士(つまり僕のことだが)は大事件が起きて忙しい時は(そうでないときも?)嫌われるし、排除される。自分が排除されることにはなんの異議もないが、考えたり立ち止まったりする“のろまなカメ”の「ちょっとまて!」という諫言を無視するのはいかがなものか。なんとなく、楽で、分かりやすく、速く、しかも情緒的に「怖いですね」「困りますね」「なんとかしてほしい」「懲らしめろ!」というような受け入れやすい“記号”でもって物事を伝えるということが、どんな結果をもたらすか、昭和の戦争における「言論機関」の悔恨をいまさら持ち出すまでもないだろう。
しかしながら、たとえば最近、頻繁につかわれる、「お国のため」の最新バージョン「国益」とか、例のテポドン騒動のときにまたぞろ出てきた「座して死を待つのか」とかいった類の浅薄な“記号”の氾濫は、ただ嘆かわしいというレベルをこえて、国民に「考える」ということを停止させるという危険な兆候すら感じさせる。悪の符牒としての「テロリスト」そして、「イスラムがファシスト」であるという無茶苦茶な言語、自分に異議を唱えるものはすべて「悪」であることにしてしまう単純明快さにたいするメディアの、ほとんど批判らしき批判をしないこの「体たらく」はいったい何であろうか?
たしかに報道するために「事実」をどう認識するかということは決してたやすいことではなく、まして一刻でも「速く」伝えることは重要である。しかし、だからといって、「言語」の意味を考えなくてもいいことにはならないし、伝聞(「だれだれが、こう言った」)だから、ただ伝えればいいということにはならない。ひとつの意見があれば、もうひとつの意見がある。絶対的正義も絶対的悪も存在せず、永遠の被害者も加害者もいない。いまさら小学生に教えるようなことを言われたくないだろうが、現実の報道の現場では、こうした「基本」はいまや完全に無視されている。
イスラエルについてあえていえば、2000年来の被害者だからといって他国を侵略し、虐殺されたから虐殺できるという永遠の権利などどこにもない。そして、メディアはたとえどんな理由があろうとも、戦争を正当化する「言辞」をそのまま垂れ流してはいけない。
まさか、我々は自ら「戦争を放棄」している国民であることを忘れたワケではなかろう。
「テロリスト」も「ヒズボラ」も「ハマス」も「イスラム同胞団」もそれぞれ存在しているだけの「意味」があり、その真実は具体的に検証しなければわからないのだ。伝えるにあたって「わからないが・・・・」という前提を付けることは決して恥ではない。もし恥だと思うなら直ちに行って取材するしかない。
だれも行かないのならこの一言居士が行ってやろうじゃないか!