(日本ジャーナリスト会議07・12・7集会の講演を補筆)
満州事変前夜、日中戦争、太平洋戦争を通してみる
戦時を目前に変質していった新聞メディア
―権力に操作される新聞の姿、先導する「読売」の今の役割|ー
はじめに
「新聞と戦争」の関係について、「昭和前期の戦争がどのようにして起こり、太平洋戦争に発展していき、国が滅亡したのか」、また「その過程を新聞はどのように報道したのか」について、お話ししてみたいと思います。
今(07年12月7日)からちょうど、70年ほど前の1937(昭和12)年12月17日は日中戦争で日本軍が中国の首都・南京を陥落させ、いわゆる南京事件が起こった日であります。
この日中戦争の勃発から今年(2007年)は70年目でありまして、いわゆるこの長期の戦争に対して「15年戦争」「アジア・太平洋戦争」などと言われておりますが、これは満州事変が1931(昭和6)年9月から始まり、日中戦争(1937年7月)、それから太平洋戦争開始が1941(昭和16)年12月と、約15年間に及んだ戦争全体を指すわけです。
それと、9・11テロ(2001年)、以降、アフガン戦争、イラク戦争、それ以降の現在まで続く対テロ戦争という名の政治国際状況の中で、メディアは戦争をどう報道してきたのか、メディアはどのような状況に陥っているのか、歴史的に対比しながらこの類似性と異質性、問題点と教訓を、一緒に考えてみたいと思います。
メディアは歴史軸をしっかりおさえながら、深く幅広くグローバルな中での日本の位置がどこにあるのか、ジャーナリストはニュースの真実がどこにあるのか、世界はどのような方向に進んでいるのかを、的確に見通して、報道していく責任を負っています。
次々に起ってくる膨大なニュースの処理におぼれてはなりません。ジャーナリストは発表されたものを単にヨコ文字からタテ文字に直すだけのニュース伝達人から、プロのニュース鑑定人として、歴史軸、世界観の中でふるいにかけて、その事の大小、真偽をぎりぎりまで取材すべきです。それがジャーナリストの役割なのです。
さて、歴史のサイクルから見て、現在から70年前が日中戦争の勃発と言いましたが、それからさらに70年前の1867 (慶応3) 年には大政奉還があり、翌38年が明治維新にあたります。明治以来70年で日本はアジア第一の国、世界の大国にのし上がったわけですが、ここで日中戦争の泥沼に自ら突っ込んでいって、抜け出せずに、さらに世界に相手を拡大した大東亜戦争(太平洋戦争は米側の命名)に突入して、1945(昭和20)年に敗戦(終戦といいかえてはいけません)しました。アジアの最も端っこにある、それまで全く無名のちっぽけな鎖国国家だった日本は、20世紀では「日の昇る国」よろしく世界でもっとも躍進したわけです。
それから、またまた70年たった現在(2007年)は世界での各国のレースはどうなったのでしょうか。中国、インドの躍進、台頭が連日、大きなニュースになっており、2050年に中国が米国を抜くか、並ぶ世界の超大国になるのは間違いない状況になりつつあります。
一方、日本の経済力、国民生活の低下は著しく、経済、社会的な国際指標では15位以下の先進国から中低位国に転落する瀬戸際に立たされています。
大体、世界史の中での各国の興亡、経済的な繁栄と衰退は6,70年サイクルで起っていますが、日本は今その衰退のカーブに入っているわけです。
そこで、本日の演題である昭和初めの日本のメディアの状況に戻りますと、当時、テレビはまだ発明されておりません。
新聞・雑誌・出版などの印刷メディアが中心の時代であり、中でも新聞が圧倒的に力を持っていました。いわば、新聞黄金時代であったのですが、1923(大正12)年9月の関東大震災によって、東京の主要紙の大半が社屋を焼失するなど甚大な被害をこうむりました。国民、報知、時事、読売など大きな被害を受けました。
その結果、大阪資本の朝日、毎日が震災前から東京には進出していたのですが、圧倒的な資本力に物を言わせまして、震災以後に一挙に東京に出てまいります。
『東京朝日』「東京日日」(毎日系)とも昭和の初めには東京勢を食って部数を大体100万部以上に伸ばしてきます。
満州事変、それから日中戦争、太平洋戦争勃発(昭和16年)で以後10年間で、朝・毎は100万部から350万部という3倍以上に大幅な増加ぶりです。
一方、読売新聞は昭和の初めの段階では大体、十数万部。震災で社屋が消失し、つぶれかかっていたところを、正力松太郎がこれを買い取りまして社長に就任、巨人軍を創設する、日米野球をやる、各種メディアイベントを大々的にやる、紙面的にもセンセーションな報道を続けて、驚異的に部数をのばしてきます。
太平洋戦争が始まる前の段階では、ほぼ朝・毎と肩を並べて300万部を突破するという勢いで、ほぼ、30倍という急増。まさしく、『新聞は戦争によって発展する』「メディアは戦争によって大きく伸びる」というのを証明したわけです。
こうして、太平洋戦争前には朝・毎・読という3大紙が完成して、日本の新聞界を牛耳る態勢になりますが、同時に情報局による国家の言論統制も完成し、メディアは完全にコントロールされて、国の宣伝機関になり下がります。
大本営発表以外は何も書けない『メディアの死んだ日』となるわけです。
どうして、『メディアコントロール』が完成したのか、15年戦争で言った場合は、満州事変がその発火点になりますが、満州事変を新聞はどう報道したのかをみてみましょう。
満州事変が引き起こされる背景
―メディアに携わる人たちが歴史的経緯を正確に認識し、深めるために―
満州事変前の段階で、圧倒的な力を持っていたのは「朝日」「毎日」なのですが、この朝毎の戦争へのスタンスは違っていました。
まず、朝日は、大正デモクラシーを先導し、普通選挙法の大々的なキャンペーンを行い、米騒動、シベリア出兵では寺内正毅内閣を弾劾するというリベラル色の強い新聞でした、このため、政府からにらまれて、「白虹事件」(大正7年)では「大阪朝日」が新聞紙法による「朝憲紊乱罪」に当るとして弾圧され、書いた記者が有罪となると共に、「大阪朝日」が新聞発行停止の瀬戸際に追い込まれました。政府、立憲政友会と朝日は犬猿の仲だったのです。
一方、『毎日』(ここでは大阪毎日)は、ライバル『朝日』(大阪朝日)に追いつけ、追い越せと大阪、関西では販売面で猛烈な競争をしており、読者層が大阪地盤の保守的な中小商業者らの中心であったせいもあり、朝日とは反対の論調、対立する関係にありました。
ところで、平民宰相・原敬がここで登場します。原は1897(明治30)年に、31歳のとき、破格の高給でスカウトされて大阪毎日新聞社に入社し、翌年には社長に就任、同社の近代化経営、対ライバルの朝日攻略を進めました。
1900(明治33)年に伊藤博文が立憲政友会を組織すると、同党に入り、幹事長となって政治家に転身、寺内内閣のあとに、原敬が首相兼法相となります。ここで「白虹事件」の処理に当たり、原は村山龍平社長を呼んで、以後の編集方針は『不偏不党とする』という誓約書(社告)を差し出すことで、朝日は廃刊をからくも免れました。「白虹事件」はある面では、朝毎戦争の一環だったのです。
満州事変の2年前、1929(昭和4)年元旦紙面に、毎日は新聞界で初めての国策遂行の『東亜調査会』を設置したと大々的に発表しています。
この調査会は新聞社による初のシンクタンクといってよいもので、顧問には清浦奎吾、内田康哉、松岡洋右、林権助、井上準之助、斎藤實、近衛文麿、徳富蘇峰が名を連ね、東亜共栄の意義を明確にし、国策樹立とその国民運動を新聞キャンペーンによって先導する目的のものです。
この後、1929(昭和4)年5月には徳富蘇峰を毎日は社賓として招きます。当時国民新聞社長だった徳富はいうまでもなく明治・大正で、昭和戦前期の日本を代表する言論人であり、最大のジャーナリストであります。
以後、徳富は『東京日日』「大阪毎日」の第1面に毎日「日々だより」というコラムを連載し、ライフワークである「近世国民史」の連載も同時にするということで、毎日は当時の保守的な言論を代表する新聞としての主張をより鮮明にしていきます。
国会で『満蒙は日本の生命線である』という言葉をはじめて使って質問したのは松岡洋右ですが、こうして満蒙権益死守論を徹底してキャンペーンしていく体制が軍部、関東軍、政友会、メディアの共同歩調で整い、毎日がその旗をふって先導していくわけです。
そして1931(昭和6)年9月18日、満州事変は関東軍の謀略によって起こされますが、毎日は自衛のための軍事行動であるとして、関東軍の暴走を全面的に支援するキャンペーンを大々的に行います。
この結果、当時のメディア界では《関東軍主催・毎日新聞後援 満州事変》と言われたほどです。この間の事情は前芝確三『体験的昭和史』(雄渾社、1968年)にくわしい。前芝は当時の大阪毎日外信部長で、詳細に事変前後のメディア事情を話している。
ところで、満蒙問題が日中間に深くささって肉と化して、抜くに抜かないトゲとして、両国を蝕み病状がますます悪化して中国との対立、満州事変、日中戦争、太平洋戦争へと発展して、結局、最後には大日本帝国は亡ぶわけですが、この間、40年(日露戦争1904→敗戦1945)です。
戦争は外交の失敗によって起りますが、日中外交の失敗が、こうした日本の大敗北につながったのです。新聞メディアがこの外交の失敗に大きな影響を与えたことは間違いありませんし、その苦い歴史的な教訓を学ぶ必要があります。
そのために、ここで、『戦争のキーワード』となった、歴史的に複雑にもつれた満蒙問題をもう一度振り返ってみたいと思います。
20世紀に入って、日本はロシアと日露戦争(1904−5年)を戦って勝利して得たのが、満蒙権益(中国東北部)です。その内容は、@韓国への日本の指揮、監督権A旅順、大連の租借権と南満州鉄道(いわゆる満鉄)B北緯五〇度以南の樺太(サハリン)その付属諸島などを勝ち取ったのです。
日本はこの遼東半島最西端の一帯を「関東州」と命名しました。関東軍はこの関東州と満鉄の警備を主目的とした2個師団(約一万人)の駐留兵です。
軍満蒙問題はこの日清、日露戦争による数十万人の血の犠牲と、莫大な戦費を払って獲得した満州権益、満鉄などの『満蒙の特殊権益論』の死守にあったのです。
日露戦争の勝利によって、日本は極東の三等国から世界の一等国になったという自尊心が一挙にふくらむと同時に、対中国、アジアへの蔑視も強くなってきます。中国でもナショナリズムが強くなり、近代国家建設が進められ、租借地、利権などの回収運動が起こります。
1912(明治45)年1月、清国は崩壊し、中華民国(孫文の臨時大統領就任)が誕生します。日本側は1914年7月に第一次世界大戦が勃発すると、中国で激しい権益競争をしていた英国、フランス、ドイツ、米国などの列強が自らの戦争で、中国どころでない鬼のいぬまに、中国の権益をおさえるためすばやく行動します。1915(大正4)年1月18日、大隈重信内閣(加藤高明外務大臣)は袁世凱政権に対華21か条要求を突きつけました。
『関東州の租借期限(1923年まで)、満鉄の権益期限(1929年まで)をいずれも99年間に延長』「南満州などでの日本人の店舗、耕作地の貸与権、所有権を認める、日本人の商工業の営業を認め、鉱山採掘権を許与」「中国政府は政治経済軍事顧問として日本人を雇用する」など、中国側の権益、国益を幅広く侵す内容のものを強引に押し付け、武力を背景にした最後通牒を突きつけました。
中国民衆は憤激して最後通牒の5月7日を『国恥記念日』と定め、激しい日貨ボイコット運動が起こります。1919(大正8)年5月4日、北京の学生たちが21か条要求の取消しと山東権益の返還を求めて大規模な反日デモがおこり、これが全国に波及して一大民族運動へと発展していきますが、これがいわゆる『5・4運動』といわれるもので、中国共産党の成立の基礎となったのです。
こうして、日中対立はエスカレートしていきます。反日感情はうねりとなって高まり、日本商品のボイコットや日貨排斥運動、排日運動へと発展していき、年を追って深刻化、中国全土に拡大し、両者の溝はますます深く拡がっていったのです。
ところで、日本が昭和に入る直前の1926(大正15)年7月、中国では国民革命軍(蒋介石)が北方(満州地域)の軍閥勢力を倒して、中国を統一する北伐の動きがはじまります。
1927年(昭和2)4月、若槻礼次郎内閣が金融恐慌で倒れると、政友会の田中義一内閣が成立した。田中は自ら外務大臣を兼任し、満蒙強硬派の森恪を外務政務次官にすえて対中外交を軟弱外交の「幣原外交」から転換し、第一次世界大戦後の恐慌から脱出するため、満蒙権益の拡大に舵を切ったのです。
田中義一政権発足直後に、満洲問題は新たな火種が起っていました。北部軍閥の張作霖が満鉄と平行して走る「打通線」などを建設したために、満鉄が大きな打撃を受けました。
1927年(昭2)5月、蒋介石の国民革命軍による北伐が開始されると、政府は山東省にいる約2万人の居留民の保護を理由に、済南に陸軍兵士4,300人を第一次出兵させた。北伐を阻止するためだが、国民政府、北京政府は激しく非難し、再び中国各地に排日運動、日貨ボイコットが起き、日系の紡績工場は操業停止などの影響が出た。
翌28年3月、政府は第二次済南へ出兵。青島に兵を送り、5月3,4日に国民革命軍との間で軍事衝突があり、中国の軍民ら5千人以上の死傷を出した済南事件を起こしました。
その後、北伐は国民革命軍が張作霖の奉天軍がいる北京を包囲し、蒋らの兵力は約50万で、張の奉天軍は兵力約30万だったので、張の奉天軍が敗れて満州に敗退すれば、戦乱が満蒙に及び,日本権益が侵害される恐れが出てきた。この点に、関東軍は危機感を募らせて、満州全域を軍事占領する満州国の建国計画をひそかに練り始めました。
一方、田中首相は満州を戦乱に巻き込まないため、田中は蒋介石から「満州には侵攻しない」との言質をとり、張作霖には一旦北京を離れて、東三省で再起を期すように強く働きかけました。張作霖もしぶしぶこの日本側の帰順圧力を受け入れましたが、関東軍はこれまで散々手を焼いてきた張作霖の満州復帰は全く邪魔な存在でしかなく、暗殺を企てました。
国民革命軍との決戦を断念した張作霖は6月4日早朝、北京を退去して特別編成列車で満州に引き上げた。途中の奉天近郊の京奉線が満鉄線と交差する陸橋付近にさしかかった際、線路に仕掛けられていた火薬が爆発、列車ごと吹き飛ばされ8両目の貴賓室に乗っていた張作霖は重傷を負い、まもなく死亡したのです。
これが、張作霖爆殺事件(中国では皇姑屯事件)です。
犯行は関東軍高級参謀・河本大作大佐らが行ったもので、爆薬は関東軍工兵隊から調達し、独立守備隊の東宮鉄男大尉が指揮して、橋脚に250キロ黄色火薬を仕掛けて付近の小屋まで200メートルもの導火線を引いて爆破した。現場には便衣隊の犯行にみせかけるため、日本守備隊に殺された中国人2人の遺体があった。5日後に日本側は『蒋介石軍の便衣隊による犯行』と発表しました。便衣とは当時の中国人の普段着のことで、普段着で人々にまぎれて攻撃してくる工作員、ゲリラをさして『便衣隊』と呼んでいました。
河本はこの爆殺の混乱に乗じて部隊を出動させ、満州を一気に武力占領することを狙ったが、上層部も動かず蒋介石、張作霖の東北軍も冷静で、混乱はおこらず河本の狙いは失敗に終わった。
この張作霖暗殺事件は国内では『満州某重大事件』と呼ばれて、真相は秘匿され、新聞の報道もきびしく制限されましたが、発生直後から元老・西園寺公望や一部の政界トップは真相を知ることになります。田中首相はこの河本大佐の責任問題で、昭和天皇から叱責されて1年後に退陣することになります。
以上の張作霖爆殺事件はいわば第一次満州事変といってよいものです。これが、失敗に終わったために、この2年後に再び、満州事変が起こされたわけです。こうした、歴史経過を現在の中国報道にあたるジャーナリストは基礎知識として知っておく必要があります。(つづく)
(日本ジャーナリスト会議07・12・7集会の講演を補筆)
満州事変前夜、日中戦争、太平洋戦争を通してみる
戦時を目前に変質していった新聞メディア
―権力に操作される新聞の姿、先導する「読売」の今の役割|ー
前坂俊之(静岡県立大学国際関係学部教授)
はじめに
「新聞と戦争」の関係について、「昭和前期の戦争がどのようにして起こり、太平洋戦争に発展していき、国が滅亡したのか」、また「その過程を新聞はどのように報道したのか」について、お話ししてみたいと思います。
今(07年12月7日)からちょうど、70年ほど前の1937(昭和12)年12月17日は日中戦争で日本軍が中国の首都・南京を陥落させ、いわゆる南京事件が起こった日であります。
この日中戦争の勃発から今年(2007年)は70年目でありまして、いわゆるこの長期の戦争に対して「15年戦争」「アジア・太平洋戦争」などと言われておりますが、これは満州事変が1931(昭和6)年9月から始まり、日中戦争(1937年7月)、それから太平洋戦争開始が1941(昭和16)年12月と、約15年間に及んだ戦争全体を指すわけです。
それと、9・11テロ(2001年)、以降、アフガン戦争、イラク戦争、それ以降の現在まで続く対テロ戦争という名の政治国際状況の中で、メディアは戦争をどう報道してきたのか、メディアはどのような状況に陥っているのか、歴史的に対比しながらこの類似性と異質性、問題点と教訓を、一緒に考えてみたいと思います。
メディアは歴史軸をしっかりおさえながら、深く幅広くグローバルな中での日本の位置がどこにあるのか、ジャーナリストはニュースの真実がどこにあるのか、世界はどのような方向に進んでいるのかを、的確に見通して、報道していく責任を負っています。
次々に起ってくる膨大なニュースの処理におぼれてはなりません。ジャーナリストは発表されたものを単にヨコ文字からタテ文字に直すだけのニュース伝達人から、プロのニュース鑑定人として、歴史軸、世界観の中でふるいにかけて、その事の大小、真偽をぎりぎりまで取材すべきです。それがジャーナリストの役割なのです。
さて、歴史のサイクルから見て、現在から70年前が日中戦争の勃発と言いましたが、それからさらに70年前の1867 (慶応3) 年には大政奉還があり、翌38年が明治維新にあたります。明治以来70年で日本はアジア第一の国、世界の大国にのし上がったわけですが、ここで日中戦争の泥沼に自ら突っ込んでいって、抜け出せずに、さらに世界に相手を拡大した大東亜戦争(太平洋戦争は米側の命名)に突入して、1945(昭和20)年に敗戦(終戦といいかえてはいけません)しました。アジアの最も端っこにある、それまで全く無名のちっぽけな鎖国国家だった日本は、20世紀では「日の昇る国」よろしく世界でもっとも躍進したわけです。
それから、またまた70年たった現在(2007年)は世界での各国のレースはどうなったのでしょうか。中国、インドの躍進、台頭が連日、大きなニュースになっており、2050年に中国が米国を抜くか、並ぶ世界の超大国になるのは間違いない状況になりつつあります。
一方、日本の経済力、国民生活の低下は著しく、経済、社会的な国際指標では15位以下の先進国から中低位国に転落する瀬戸際に立たされています。
大体、世界史の中での各国の興亡、経済的な繁栄と衰退は6,70年サイクルで起っていますが、日本は今その衰退のカーブに入っているわけです。
そこで、本日の演題である昭和初めの日本のメディアの状況に戻りますと、当時、テレビはまだ発明されておりません。
新聞・雑誌・出版などの印刷メディアが中心の時代であり、中でも新聞が圧倒的に力を持っていました。いわば、新聞黄金時代であったのですが、1923(大正12)年9月の関東大震災によって、東京の主要紙の大半が社屋を焼失するなど甚大な被害をこうむりました。国民、報知、時事、読売など大きな被害を受けました。
その結果、大阪資本の朝日、毎日が震災前から東京には進出していたのですが、圧倒的な資本力に物を言わせまして、震災以後に一挙に東京に出てまいります。
『東京朝日』「東京日日」(毎日系)とも昭和の初めには東京勢を食って部数を大体100万部以上に伸ばしてきます。
満州事変、それから日中戦争、太平洋戦争勃発(昭和16年)で以後10年間で、朝・毎は100万部から350万部という3倍以上に大幅な増加ぶりです。
一方、読売新聞は昭和の初めの段階では大体、十数万部。震災で社屋が消失し、つぶれかかっていたところを、正力松太郎がこれを買い取りまして社長に就任、巨人軍を創設する、日米野球をやる、各種メディアイベントを大々的にやる、紙面的にもセンセーションな報道を続けて、驚異的に部数をのばしてきます。
太平洋戦争が始まる前の段階では、ほぼ朝・毎と肩を並べて300万部を突破するという勢いで、ほぼ、30倍という急増。まさしく、『新聞は戦争によって発展する』「メディアは戦争によって大きく伸びる」というのを証明したわけです。
こうして、太平洋戦争前には朝・毎・読という3大紙が完成して、日本の新聞界を牛耳る態勢になりますが、同時に情報局による国家の言論統制も完成し、メディアは完全にコントロールされて、国の宣伝機関になり下がります。
大本営発表以外は何も書けない『メディアの死んだ日』となるわけです。
どうして、『メディアコントロール』が完成したのか、15年戦争で言った場合は、満州事変がその発火点になりますが、満州事変を新聞はどう報道したのかをみてみましょう。
満州事変が引き起こされる背景
―メディアに携わる人たちが歴史的経緯を正確に認識し、深めるために―
満州事変前の段階で、圧倒的な力を持っていたのは「朝日」「毎日」なのですが、この朝毎の戦争へのスタンスは違っていました。
まず、朝日は、大正デモクラシーを先導し、普通選挙法の大々的なキャンペーンを行い、米騒動、シベリア出兵では寺内正毅内閣を弾劾するというリベラル色の強い新聞でした、このため、政府からにらまれて、「白虹事件」(大正7年)では「大阪朝日」が新聞紙法による「朝憲紊乱罪」に当るとして弾圧され、書いた記者が有罪となると共に、「大阪朝日」が新聞発行停止の瀬戸際に追い込まれました。政府、立憲政友会と朝日は犬猿の仲だったのです。
一方、『毎日』(ここでは大阪毎日)は、ライバル『朝日』(大阪朝日)に追いつけ、追い越せと大阪、関西では販売面で猛烈な競争をしており、読者層が大阪地盤の保守的な中小商業者らの中心であったせいもあり、朝日とは反対の論調、対立する関係にありました。
ところで、平民宰相・原敬がここで登場します。原は1897(明治30)年に、31歳のとき、破格の高給でスカウトされて大阪毎日新聞社に入社し、翌年には社長に就任、同社の近代化経営、対ライバルの朝日攻略を進めました。
1900(明治33)年に伊藤博文が立憲政友会を組織すると、同党に入り、幹事長となって政治家に転身、寺内内閣のあとに、原敬が首相兼法相となります。ここで「白虹事件」の処理に当たり、原は村山龍平社長を呼んで、以後の編集方針は『不偏不党とする』という誓約書(社告)を差し出すことで、朝日は廃刊をからくも免れました。「白虹事件」はある面では、朝毎戦争の一環だったのです。
満州事変の2年前、1929(昭和4)年元旦紙面に、毎日は新聞界で初めての国策遂行の『東亜調査会』を設置したと大々的に発表しています。
この調査会は新聞社による初のシンクタンクといってよいもので、顧問には清浦奎吾、内田康哉、松岡洋右、林権助、井上準之助、斎藤實、近衛文麿、徳富蘇峰が名を連ね、東亜共栄の意義を明確にし、国策樹立とその国民運動を新聞キャンペーンによって先導する目的のものです。
この後、1929(昭和4)年5月には徳富蘇峰を毎日は社賓として招きます。当時国民新聞社長だった徳富はいうまでもなく明治・大正で、昭和戦前期の日本を代表する言論人であり、最大のジャーナリストであります。
以後、徳富は『東京日日』「大阪毎日」の第1面に毎日「日々だより」というコラムを連載し、ライフワークである「近世国民史」の連載も同時にするということで、毎日は当時の保守的な言論を代表する新聞としての主張をより鮮明にしていきます。
国会で『満蒙は日本の生命線である』という言葉をはじめて使って質問したのは松岡洋右ですが、こうして満蒙権益死守論を徹底してキャンペーンしていく体制が軍部、関東軍、政友会、メディアの共同歩調で整い、毎日がその旗をふって先導していくわけです。
そして1931(昭和6)年9月18日、満州事変は関東軍の謀略によって起こされますが、毎日は自衛のための軍事行動であるとして、関東軍の暴走を全面的に支援するキャンペーンを大々的に行います。
この結果、当時のメディア界では《関東軍主催・毎日新聞後援 満州事変》と言われたほどです。この間の事情は前芝確三『体験的昭和史』(雄渾社、1968年)にくわしい。前芝は当時の大阪毎日外信部長で、詳細に事変前後のメディア事情を話している。
ところで、満蒙問題が日中間に深くささって肉と化して、抜くに抜かないトゲとして、両国を蝕み病状がますます悪化して中国との対立、満州事変、日中戦争、太平洋戦争へと発展して、結局、最後には大日本帝国は亡ぶわけですが、この間、40年(日露戦争1904→敗戦1945)です。
戦争は外交の失敗によって起りますが、日中外交の失敗が、こうした日本の大敗北につながったのです。新聞メディアがこの外交の失敗に大きな影響を与えたことは間違いありませんし、その苦い歴史的な教訓を学ぶ必要があります。
そのために、ここで、『戦争のキーワード』となった、歴史的に複雑にもつれた満蒙問題をもう一度振り返ってみたいと思います。
20世紀に入って、日本はロシアと日露戦争(1904−5年)を戦って勝利して得たのが、満蒙権益(中国東北部)です。その内容は、@韓国への日本の指揮、監督権A旅順、大連の租借権と南満州鉄道(いわゆる満鉄)B北緯五〇度以南の樺太(サハリン)その付属諸島などを勝ち取ったのです。
日本はこの遼東半島最西端の一帯を「関東州」と命名しました。関東軍はこの関東州と満鉄の警備を主目的とした2個師団(約一万人)の駐留兵です。
軍満蒙問題はこの日清、日露戦争による数十万人の血の犠牲と、莫大な戦費を払って獲得した満州権益、満鉄などの『満蒙の特殊権益論』の死守にあったのです。
日露戦争の勝利によって、日本は極東の三等国から世界の一等国になったという自尊心が一挙にふくらむと同時に、対中国、アジアへの蔑視も強くなってきます。中国でもナショナリズムが強くなり、近代国家建設が進められ、租借地、利権などの回収運動が起こります。
1912(明治45)年1月、清国は崩壊し、中華民国(孫文の臨時大統領就任)が誕生します。日本側は1914年7月に第一次世界大戦が勃発すると、中国で激しい権益競争をしていた英国、フランス、ドイツ、米国などの列強が自らの戦争で、中国どころでない鬼のいぬまに、中国の権益をおさえるためすばやく行動します。1915(大正4)年1月18日、大隈重信内閣(加藤高明外務大臣)は袁世凱政権に対華21か条要求を突きつけました。
『関東州の租借期限(1923年まで)、満鉄の権益期限(1929年まで)をいずれも99年間に延長』「南満州などでの日本人の店舗、耕作地の貸与権、所有権を認める、日本人の商工業の営業を認め、鉱山採掘権を許与」「中国政府は政治経済軍事顧問として日本人を雇用する」など、中国側の権益、国益を幅広く侵す内容のものを強引に押し付け、武力を背景にした最後通牒を突きつけました。
中国民衆は憤激して最後通牒の5月7日を『国恥記念日』と定め、激しい日貨ボイコット運動が起こります。1919(大正8)年5月4日、北京の学生たちが21か条要求の取消しと山東権益の返還を求めて大規模な反日デモがおこり、これが全国に波及して一大民族運動へと発展していきますが、これがいわゆる『5・4運動』といわれるもので、中国共産党の成立の基礎となったのです。
こうして、日中対立はエスカレートしていきます。反日感情はうねりとなって高まり、日本商品のボイコットや日貨排斥運動、排日運動へと発展していき、年を追って深刻化、中国全土に拡大し、両者の溝はますます深く拡がっていったのです。
ところで、日本が昭和に入る直前の1926(大正15)年7月、中国では国民革命軍(蒋介石)が北方(満州地域)の軍閥勢力を倒して、中国を統一する北伐の動きがはじまります。
1927年(昭和2)4月、若槻礼次郎内閣が金融恐慌で倒れると、政友会の田中義一内閣が成立した。田中は自ら外務大臣を兼任し、満蒙強硬派の森恪を外務政務次官にすえて対中外交を軟弱外交の「幣原外交」から転換し、第一次世界大戦後の恐慌から脱出するため、満蒙権益の拡大に舵を切ったのです。
田中義一政権発足直後に、満洲問題は新たな火種が起っていました。北部軍閥の張作霖が満鉄と平行して走る「打通線」などを建設したために、満鉄が大きな打撃を受けました。
1927年(昭2)5月、蒋介石の国民革命軍による北伐が開始されると、政府は山東省にいる約2万人の居留民の保護を理由に、済南に陸軍兵士4,300人を第一次出兵させた。北伐を阻止するためだが、国民政府、北京政府は激しく非難し、再び中国各地に排日運動、日貨ボイコットが起き、日系の紡績工場は操業停止などの影響が出た。
翌28年3月、政府は第二次済南へ出兵。青島に兵を送り、5月3,4日に国民革命軍との間で軍事衝突があり、中国の軍民ら5千人以上の死傷を出した済南事件を起こしました。
その後、北伐は国民革命軍が張作霖の奉天軍がいる北京を包囲し、蒋らの兵力は約50万で、張の奉天軍は兵力約30万だったので、張の奉天軍が敗れて満州に敗退すれば、戦乱が満蒙に及び,日本権益が侵害される恐れが出てきた。この点に、関東軍は危機感を募らせて、満州全域を軍事占領する満州国の建国計画をひそかに練り始めました。
一方、田中首相は満州を戦乱に巻き込まないため、田中は蒋介石から「満州には侵攻しない」との言質をとり、張作霖には一旦北京を離れて、東三省で再起を期すように強く働きかけました。張作霖もしぶしぶこの日本側の帰順圧力を受け入れましたが、関東軍はこれまで散々手を焼いてきた張作霖の満州復帰は全く邪魔な存在でしかなく、暗殺を企てました。
国民革命軍との決戦を断念した張作霖は6月4日早朝、北京を退去して特別編成列車で満州に引き上げた。途中の奉天近郊の京奉線が満鉄線と交差する陸橋付近にさしかかった際、線路に仕掛けられていた火薬が爆発、列車ごと吹き飛ばされ8両目の貴賓室に乗っていた張作霖は重傷を負い、まもなく死亡したのです。
これが、張作霖爆殺事件(中国では皇姑屯事件)です。
犯行は関東軍高級参謀・河本大作大佐らが行ったもので、爆薬は関東軍工兵隊から調達し、独立守備隊の東宮鉄男大尉が指揮して、橋脚に250キロ黄色火薬を仕掛けて付近の小屋まで200メートルもの導火線を引いて爆破した。現場には便衣隊の犯行にみせかけるため、日本守備隊に殺された中国人2人の遺体があった。5日後に日本側は『蒋介石軍の便衣隊による犯行』と発表しました。便衣とは当時の中国人の普段着のことで、普段着で人々にまぎれて攻撃してくる工作員、ゲリラをさして『便衣隊』と呼んでいました。
河本はこの爆殺の混乱に乗じて部隊を出動させ、満州を一気に武力占領することを狙ったが、上層部も動かず蒋介石、張作霖の東北軍も冷静で、混乱はおこらず河本の狙いは失敗に終わった。
この張作霖暗殺事件は国内では『満州某重大事件』と呼ばれて、真相は秘匿され、新聞の報道もきびしく制限されましたが、発生直後から元老・西園寺公望や一部の政界トップは真相を知ることになります。田中首相はこの河本大佐の責任問題で、昭和天皇から叱責されて1年後に退陣することになります。
以上の張作霖爆殺事件はいわば第一次満州事変といってよいものです。これが、失敗に終わったために、この2年後に再び、満州事変が起こされたわけです。こうした、歴史経過を現在の中国報道にあたるジャーナリストは基礎知識として知っておく必要があります。(つづく)