桜井 均(元NHKプロデューサー)「憲法九条」または日本人の冒険について~加藤周一さんが遺したもの~/09/01/31
「九条」は精神の冒険 なし崩しの瞬間見逃さずに
桜井 均(元NHKプロデューサー)
今から4年半ほど前、2004年6月10日に出された《九条の会アピール》は、「日本国憲法は、いま、大きな試練にさらされている」という危機意識の表明から始まっている。その呼びかけ人の一人、加藤周一さんが亡くなった。加藤さんはしばしば「九条」は日本人が続けている「精神の冒険」だと語った。「九条」は、過去への反省と未来への誓約を含む国際公約であり、60年間日本人が護り続けてきた理想である。その理想を消してはならないというメッセージが「冒険」という語にこめられている。
《九条の会アピール》はこう続く、「集団的自衛権の名のもとに自衛隊の海外派兵を行うために九条を変えようとする勢力が台頭している。その地ならしに教育基本法までも変えようとしている。イラク攻撃はすでに泥沼化している」と。これらの言葉は、小泉政権が陸上自衛隊をイラク南部のサマワに派遣した04年2月8日を具体的にふまえ、安倍政権が教育基本法を変えた06年12月22日の暴挙に向けられている。
「九条」をめぐる情勢はめまぐるしく変わる。危機感と希望はいつも隣り合わせである。その隙間に、「なし崩し」改憲が忍びよる。加藤さんはその「なし崩し」の瞬間を見逃さず、あらゆる手段を講じて九条擁護の活動をつづけた。《九条の会アピール》はこう結んでいる、「あらためて憲法九条を激動する世界に輝かせたい」と。
04年7月24日に開催された「九条の会・発足記念講演会」で、加藤さんは「憲法改正を目的とした保守合同は、保守ではなく《反動》である」と厳しい口調で言い放った。集団的自衛はもっぱら日米連合軍を想定し、必ずや日本に徴兵制を持ち込む。軍備増強は軍産体制を強化し、外交的な選択肢を狭める。しかし、憲法九条をめぐる政府見解と民意との間にはそうとうな隔たりがあり、そこにこそ国民の政治的選択の可能性があると希望を語った。
06年9月に「戦後レジームからの脱却」を掲げて安倍政権が登場すると、加藤さんの発言は激しさを増した。日本が「九条」を外せば、世界中が日本を危険視するだろうと言った。その帰結は孤立である。そして歴史の前例をあげてみせた、「1941年12月8日、真珠湾攻撃の報を聞いて、世界中の大都市という大都市が勝利を確信した。アメリカの参戦はロンドン市民を安堵させ、パリ市民も解放の日が近いと喜んだ。モスクワではスターリンが日本の南進を知ってほくそ笑んだ。そして東京でも人々は戦勝気分に酔っていた。日本人だけが何も知らないのは今も変わらない」と。加藤さんは「美しい国」の挫折を予告していた。
この年の12月8日、加藤周一さんは東大駒場で「老人と学生の未来~戦争か平和か~」と題して講演を行った。憲法改正に関する国民投票法の論議が盛んになり、教育基本法改正が行われる前夜であった。「戦争をしながら人権を尊重した例はない。現憲法の根幹をなす平和主義と民主主義、すなわち「九条」(戦争の否定)と「十一条」(基本的人権の尊重)にはそれぞれ「永久に(forever)」と「永遠の(eternal)」という言葉が使われている。それらを変えることは「改正」ではなく「革命」だ」と断言した。「革命」とはこの場合、根本的な破壊という意味である。その上で、日本的な集団の圧力が少ない老人と学生が連帯して、憲法破壊を阻止しなければならないと訴えた。
こうした危機感は、全国に6,500を超す「九条の会」を発足させる原動力となった。07年7月30日、参院選で与野党が逆転、その後、安倍政権は自壊し、憲法改正の声は小さくなったかにみえる。しかし、加藤さんは一見マイルドな福田政権の手法を警戒していた。07年11月で期限が切れる「テロ特措法」(インド洋沖給油活動)を、閣議決定でさらりと「新テロ特措法」(補給支援活動特措法)に変えてしまったことに対して、加藤さんは「九条の会全国交流集会」(第2回)ですかさず批判した。福田内閣は日本国憲法を超える特別措置法を持ち出してこれを合法的と称している。イラクにおける軍事的行動が憲法を超える高い理想を追求しているとは思えない、と訴えた。
08年5月4日から6日にかけて開かれた「9条世界会議」に日本と世界各地からのべ3万人以上の人々が集まり、紛争地の人々に九条は「輝かしい存在」と映った。このころ病に臥せる加藤さんは、憲法を「護る」から「活かす」へ論点を絞っていた。「活かす」とは、政府が憲法精神に抵触するような法律(「新テロ特措法」)や行動(航空自衛隊のイラク空輸)をとることに対して、裁判を背景に制限を加えることだと語った。名古屋地裁で航空自衛隊のイラク空輸に違憲判断がでたことを踏まえた加藤さんの情勢判断といえる。08年秋、福田内閣は瓦解した。
思えば、地裁判断に含まれていた「平和的生存権」にからめて、加藤さんは九条をただ反戦のシンボルにとどめるのではなく、これからは教育、福祉、医療など生活に根ざした息の長い闘いをしてほしいと訴えていた。年末年始に開設された派遣村のニュースを見て、ここにも、まさに九条の精神が息づいていると、私は思った。
今から10年前の1999年に加藤周一さんは「私たちの希望はどこにあるか~戦後最大の転換点のなかで~」(「世界」緊急増刊)で、「新ガイドライン」は明らかに戦争法であり、九条改正の前哨が始まったと指摘。そして、同じ年にさしたる論議もなく通過した一連の法律「通信傍受法」「住民基本台帳法」「国旗国歌法」などが、将来、時限爆弾のように破裂して民主主義が徹底的に制限されるときが来るかもしれないと警告した。加藤さんは99年を「権力対人民の関係の画期的な変化」の年と見ていた。思えば、これが「私たちの希望」の転換点でもあった。
それから10年、「九条の会」発足から4年半、全国各地に7,000を超える「・・九条の会」が誕生した。今年行われる衆院選の結果は九条にどう影響を及ぼすのか、それを見ずに加藤周一さんは逝った。
戦争中、若き加藤さんは、信濃追分の木のベンチに誰かの手で「in terra pax」と彫られたラテン語の文字を見つけた。「地には平和を」という聖書の言葉は、当時としては強い反戦意思の表明であった。戦争に反対しているのは自分だけではないと励まされたという。こうした体験に連なって、加藤さんは、闊達にネットワークする「九条の会」が、紛争の絶えない世界に、人権侵害に苦しむ地に「九条の精神」を手渡して行くことに希望を託したのではないだろうか。
(この原稿は09年1月25日 ジャーナリスト第610号に掲載 若干加筆し転載)