国際法の網が南半球を覆う
ちょっと、話を戻しますと、今、地球儀を見て南半球、海底、南極、北極これは国際共同管理です。それから宇宙空間すべて、核兵器を使えないという空間になっているわけです。それを切り開いたのが、実は日本国憲法です。
この本(「国際条約集」)には今申し上げた条約が全部入っています。それらを綿密に読みますと、日本国憲法の特に前文ですね、前文の匂いが、あるいは語句が、あるいは一節が、うまく取り入れられて、現在まで至っているわけです。
じゃ、日本国憲法の前文というのはどういうことかといいますと、皆さんもよくご存知ですが、この中にはアメリカの独立宣言も入っていればフランスの人権宣言も入っています。それからイギリスのマグナカルタも入っていますし、世界の人間たちが戦って手に入れた力が、権利が、いろいろな形でこの前文に入っています。
そして九条。これは古い話で、世界平和ということをジャン・ジャック・ルソーからカントとずーっと続いている哲学者たちが考えてきたことです。
日本でもご存知のように、幕末の横井小楠という福井藩の政治顧問がいますけれど、この人はもう完全に世界政府を作らないとだめだ、と。まだ明治になる前ですよ。それから一番有名な人は植木枝盛、そういった人たちがみんな、いわゆる今の国際連合よりもうちょっと強力なものを作らないと、つまり国家の主権の上に立つものをお互いに作り合わないと駄目ではないかと、もう明治の前ぐらいから、特に明治時代にしきりに言っていました。
日本人であれば誰であろうが、人間である限り必ず誰かの命令で人を殺しに行く、誰かの命令で人に殺される、そういうのはもうごめんだと。それはもう15世紀よりも前くらいからずっと言われていた。日本では特に幕末に大きくなった流れで、押しつけでもなんでもないんです。そういう地下水のようにあったもの、私の運命は私が決めるのだ、他人が決めるのではないという、これは基本的人権ですが、それがずっと養われてきた。
それが、もちろん前文に、もうちょっと平たく言いますと平和的生存権という平和に生きる権利が誰にでもあるのだということが全部盛り込まれているものですから、これをやはりみんな手本にするのです。
サン・マリノのレストランのおやじさんも、日本国憲法を実は師と仰いでいるわけです。店の方針にしているのかどうかは分りません。そのレストランのおやじさんは実は、サン・マリノの議員なんです。国会議員ですよね。国会議員もボランティアでタダなんですよ。実費だけです。早く辞めたいと言っていましたけれども。
そう考えますと、日本国憲法というのは、私たちは別として、あれが邪魔な人たちが邪険にしたのにもめげず、あちこちで素晴らしい仕事をしている。今、現在進行形ですね。
実は、モンゴルと北朝鮮と韓国と日本の間で、北アジア非核兵器地帯構想というのが起きていたのです。北朝鮮のああいう動きで、それから日本はいろいろと渋って、それは今一時期ぽしゃっています。けれども、その中でモンゴル一国だけですけれども、非核兵器地帯を名乗って、今そうなっています。ですから地球儀の南半分では全部核兵器は使えない、北半球ではモンゴルがそうなんです。
だから、僕は朝青龍を贔屓にしているわけです。偉い国から来た人だと思って。
13歳や14歳で、言葉も食べ物もぜんぜん違う国へやってきて、そして四国の高校に入って日本語を覚え、日本の食べ物に慣れようとしながら稽古をして、20何歳かで横綱になったわけです。それに対して品格をと言ってもちょっと無理ですよね。外国人ですし、何しろ裸で出てくるのですからね。あれはスポーツであり、日本の伝統芸能という二つの部分があります。国技となったのは明治以降です。
一人横綱でがんばっているとみんな感謝していたのに、もう一人横綱が出たらいきなり冷たくして、あることないこと書き立てる。それは巡業をさぼったのだけ罰すればいいのです。横綱のくせに巡業をさぼっちゃだめじゃないですか、と。でも、僕から見ると北半球でたった一つ、非核兵器地帯になった国から来た人が、裸で丸腰で戦っているというのは、これを支援せざるを得ないですよ。
日本国憲法というのは、私たちが知らない間に、実はそれは人間のさまざまな願いや智恵や獲得したものの塊なので、それはどんなに国柄は変わっても、これいいね、ということで、それを使いながら国際法が次々に出来て、国際法の網が南半球を覆い、これからは北半球です。
ヨーロッパ共同体の動きに注目
今討論しているのはヨーロッパ共同体です。EUにはフランスとイギリスの問題があります。これは核保有国ですから問題がありますけれども、ひょっとしたら・・・・。
つまりお札を発行する権利、国民国家というのはまずお札を発行する権利が国家主権です。自分の国といわれるところへ同じ通貨を流す、それから同じ言葉になる、標準語を定める、それから軍隊を持つ、これが近代国民国家の三大条件です。その国家の主権の三つのうちの一つをお互いに供託しあったわけですね。それは使わない。貨幣発行権というのは最高の国家主権ですけれども、つまり国民の権利ですけれども、それはあきらめると。お互いにそれは欧州共同体に預ける、というふうに、主権を預けるという実験を始めたわけです。
歴史も近いですし、言葉も二系統が分かれたという感じで近いですから、まとまる可能性は最初から高かったとはいいながらも、誰も信じてはいなかったのです。
戦後、ヨーロッパが立ち直るときに、フランスは鉄が欲しい、西ドイツは石炭が欲しい、その両方の気持ちをフランスの外務大臣ロベール・シューマンがまとめ、1952年に「ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体」を設立しました。フランスがどんどん石炭をドイツに供給する、ドイツはどんどん鉄鋼を作る。それでヨーロッパが復興していく。そういうところが始まりで、それから延々石炭と鉄だけの共同体だったものがさまざまなことを足しながら、揉めたり揺れたりしながら現在に至っています。大事なことはそういうことを実際にやり始めている国が今、同時代としてあるということです。
それから、今、南半球では核兵器は使わないことになっている。使いようもないということになっている。いつの間にかそうなったのではなくて、みんなが日本国憲法に盛られた精神を、日本国憲法を、特に前文を参考にしながら、いろいろな苦労をしてそこまでこぎ着けているわけです。
ですから私たちの道は二つではないですね。平和か戦争か、という二つではなくて別の道が見えているわけですよね。
第3回ハーグ平和会議の目標
いつも何か空しいんですよね。
「守る」「守る」といっているうちに、最初に言いましたように軍人密度世界一の国に、実は気がつくとなっている。何を守ったのだろう。これはなんとか考えなければだめだなと思っているうちに、私は、それを高校時代に見て感動したのですが、ロッセリーニの「無防備都市」という映画をDVDで、たまたま見たのです。5年くらい前です。そして、「無防備都市」ってなんだろうと思って調べ始めました。
当時、ハーグの陸戦協定というのがあります。ハーグというところはいつも平和会議をたくさんやっていました。1850年代から、つまり今から160年前ぐらいからハーグの熱心な活動家たちがいて、戦争はやはりむごいから、こういうことはやっちゃいけないとか、いろいろなことをいって、結局、退却するときに井戸に青酸カリを入れてはいけないとか生物兵器を使ってはいけないとか、毒ガスを作ってはいけないとか、それから職業軍人が殺しあうのはこれはしょうがないけれども、一般市民を軍隊は絶対に殺してはいけない、ということをハーグの人たちが一生懸命議論しているうちに、あそこに自然にハーグ平和会議というものが生まれたのです。
これは1899年が第1回です。ここで一気に退却する際、青酸カリを井戸に、つまり負けた方が退却するときに攻めてきた奴らをやっつけるために、井戸という井戸に全部毒を入れて退却するわけですよね。そういうことはいけない。それから毒ガスもいけないということを決めて、第2回が1907年、10年後です。ここでまたさまざまな規則が決まっていく、それが国際法になっていくんですね。
第3回は1997年ですか、今から10年前。だから1907年の第2回から、3回目まで90年も空いちゃったわけです。つまり20世紀は戦争の時代で、平和会議を開く暇が無かったのです。
それで、ソ連が崩壊してロシアになって、鉄のカーテンも解けて西ドイツと東ドイツが一つになったあたりで、それからヨーロッパ共同体の動きもあるのですが、もう一度考えようと、やっと3回目が開かれた。
そのときにこれは有名な話しですが、行動計画の一番トップに、21世紀の行動、つまりこのハーグ平和会議の目標は、世界各国の憲法が日本の第九条を取り込むという運動を21世紀にかけてやっていこうというのを、そのハーグの平和会議で決めた。ここは国際法を作る民間の機関です。非常に権威があって、そこで決めたことは次に全部国際法になっていきます.
もう退けない現実、一歩でも前へ進める実効ある運動を
つまり日本国憲法というのは一人歩きしながら、いろんなところを組織していっているわけです。
でも、本家本元の日本においては、実は自衛隊というような言葉でわれわれみんな知らん振りして、見て見ぬふりをしていますけれども、実はもう紛れもない軍隊である。兵器は全部アメリカのお下がりですけれども、それを普通の値段の2倍3倍で買っているわけですが、お金も世界では3番目ぐらいに多く使っているという軍隊が現にある。
この現実をどうするかっていうことを、実は突きつけられていると僕は考えています。「守れ」「守れ」といっているうちにこうなったということは、結局、負けて負けて、負け続けたのではないかと。
「守れ」から、運動は「する」の方へ切り替える
そこで、折角こういう九条の会が、今7000になんなんとしています。四国では自民党の町会議員がつくった「自民党町議九条の会」というのがあるそうです。これ、共産党やどことでも関係が無い。取り上げるのが「赤旗」ばっかりですのでいかにも共産党の組織みたいに見えていますが、このように自民党から公明党の人からも、とにかく九条を守りたいという人が党派を超えて、いろいろなところでいろいろな九条の会をやっているわけですね。それがもう7000ある。
われわれ小田実さん、大江さんを中心に、加藤周一さんたちと話し合ったときに、会則を作るのをよそう、会長も置くのをよそう、それからお金を取るのもよそうということにしました。今日、お金を取ったんですよね。いや、これは別です。本部といわれる呼びかけ人が、お金を扱うのはよそうと。これ、必ずやられるのですね。政府側がこういう組織が邪魔になったときに、必ず金から調べ始める。そこで僕がうっかり所沢へ来る運賃を、水増し請求なんかすると、そこから突っ込まれていって駄目になります。
会費を集めない、それから規則を作らない、会長を置かない、組織のない組織にしようということで、各地に出来る九条の会が全部世界の中心でいいという、だからこれはもう捕まえようがないんですよ。どんな悪いことをされても、へこたれるような数ではもうなくなってしまいましたからね。自民党の人たちも社民党の人たちもみんなあちこちで作っています。
そこで、守れ守れと言っている。これはこれで素晴らしいのですけれども、62年間言っている間に、ここまで来てしまったのはどういうことか。
もうちょっと整理してみますと、消極的だったんじゃないかと思うのです。
つまり戦争しない、戦力を持たない、交戦権を持たない、というふうに全部すべて何々しないという否定形なんですね。私たち日本人というのは否定形が好きですから。ここに入るべからず、と否定で言います。芝生に入らないでくださいと否定でお願いする。遊ぶときは公園の横の広場で遊びましょうというふうに、勧める形ではなかなか言えない。廊下を走るな、とすぐ否定形で命令をしますけれども、走るときは運動場を走りなさい、廊下は歩きなさいというふうに肯定形で言えない民族なんです。
というのは、常に否定形で、「反対!」といっているのは消極的なんですね。つまり何かが起きたら反対はするけれども自分で何かを作らないというきらいが、どうも僕自身にもあります。これは日本の運動のすべてに、「何とかを許すなー!」といっているうちに、「許すもんか」というふうにやはり押されてくる。
これは日本語の問題ですかね。一度、大野晋先生に相談したら、ウーン、ちょっと考えますといわれて、ものすごく真面目な先生ですからね。僕も忘れていたら、3ヶ月目ぐらいに、結論がでました、と返事をくださいました。確かに、するなするなというのは日本人の癖だけれども、万葉とかその前の古事記とか日本書紀を調べると、そんなに否定形は無いので、つまり日本人が国家というものを作ったときに、国家からこれするなあれするなというのがずっと積み重なってきた。これ詳しく大野先生のお手紙を紹介すればいいのですが、今日探したのですけれどもどっか行っちゃったんですよ。
ですからこれから積極的な平和主義というのは、「する」というほうへ切り替えなければだめですね。じゃあ、何ができるかと考えて、この「無防備都市」という映画を見て、そうか、無防備都市というのが昔あったんだと。そこでハーグをまず調べて、ハーグの陸戦協定とかハーグの条約を、これは、捕虜はこういうふうに扱わなくてはいけないとか、全部ハーグの条約にあります。ハーグの平和会議が中心になって作って国際法になったものです。そうしたら確かに規定がありました。
その都市が、われわれは戦わない、戦う意思が無い、それからここは文化財が非常にたくさんある、といったときには、すべて自国の兵隊さんを全部そこの町から出てもらって市民だけにする。大砲も何も隠していないということを中立国というのがありますから、中立国に査察してもらって認めてもらう。そうすればそこは無防備都市という、これを攻めたら国際犯罪になるわけですよね。
パリもそうでした。ナチス・ドイツが攻めて来るのですけれどもパリは無防備都市ですから、ナチス・ドイツはむなしく靴音高く入ってくるだけで、フランス人はわーっと迎えながらレジスタンスを始めるわけですよね。
それからローマもそうです。その無防備都市という映画の舞台になったローマも、たくさんのローマ時代からの遺跡がありますし、ここは無防備都市を宣言したのです。ですからナチス・ドイツも攻め込んだ連合軍も、あそこでは鉄砲を撃ったり出来ない。後半、ちょっと問題は起きましたけれども。
それから3番目がマニラですね。マニラも無防備都市をハーグの協定に基づいて宣言しました。
昭和になって国際法を学ばなくなった日本の軍隊
ところが日本は国際法を一時期から全然勉強しなくなってしまいました。明治時代は、日本は国際法の一番詳しい、一番勉強する、国際法を勉強するなら日本の勉強をしろというほど、明治の学者たち、政治家も国際法をうんと研究したのです。やはりちょっと奢りが入ってから、今のアメリカと同じです。俺が国際法だとなるのです。俺のやることに国際法といえども、文句をつけるな。だから支那事変、中国との戦争というのは、これは国際法では必ず宣戦布告をしなければならないのに、あれは事変でずっと処理しようとするわけでしょう。他の理由もありましたけれど。
ですから昭和になってから、まったく日本の軍隊は国際法を将校たちに教えていないのです。
だから捕虜になったときに困るのですよね。
ソ連に抑留された65万人の旧満州国にいた人たち、この間亡くなった瀬島龍三という人は関東軍の高級参謀でした。昭和20年8月19日に極東赤軍、つまりソ連軍と関東軍の司令官同士が会うわけです。日本は負けていますから、敗戦国として会う。山田乙三という関東軍の総司令官はソ連が攻め込んだとき大連で芸者を上げて大騒ぎをしていたのですけれど、あわてて帰ってきて、それで交渉に行く。僕は山田乙三さんには何の恨みもないのですけれどね、だいたいそういうものなんですね。守屋次官といい、偉い人ってみんななにかゴルフをやっているか当時は芸者遊びやっているかどっちかですので、なんの不思議もないのですが。
8月19日、こちら側の参謀と向こう側の参謀も同席します。そのとき日本側は、本当はソ連も悪いのですが、日本は“この兵隊たちは捕虜である、だから捕虜として待遇して欲しい”ということを実は極東赤軍側にはっきりと主張しないといけないんです。負けようが勝とうが、捕虜というのは一つの身分です。国際法で捕虜を扱う方法が全部書いてありますから、この捕虜をこういう待遇にしろと、ちゃんと要求しなければいけないのです。
でも、皆さんご存知のように実は関東軍は根こそぎ動員です。本当の関東軍は沖縄やフィリピンにもう出てしまっていて、ここにいる関東軍は実はその年の4月と7月に急遽満州から集められた、昨日までは事務員といった普通の人たちです。だから体も鍛えていないし寒さにも弱いしというので、たいへんな悲劇が起こりました。
もし日本軍が国際法を知っていて、つまり法務将校というのがいて、これが日本に昔はいたのですけれどもいなくなったのですね。必ず国際法を良く勉強している法務を司る将校が部隊についていて、あらゆる戦闘を国際法に基づいてやっていくわけです。ところが、日本にはそれが無かったわけですから、それは南京大事件も起こるかもしれません。このときにも法務将校がいませんので、参謀だけでした。それでも特に瀬島は主席参謀ですから“捕虜として待遇せよ”と要求しなければならなかったのです。それから将校には将校の待遇があります。将校を労働させてはいけないとか、全部決まっているのです。ですから、国際法を勉強していなかったというのは、日本軍の手落ちだったと思うのです。
その、国際法の知識のない日本軍は無防備都市のマニラを攻めたわけですね。
山下奉文さんがフィリピンで死刑になったのは、いろいろな罪状の中にそれがあるのです。つまり無防備都市宣言したマニラを攻撃した責任というのが、実は日本軍に生じていた。国際法を勉強していなかったからそれが判らない。その罪で裁かれて、他でも捕虜を虐待とかいろいろあります。捕虜虐待、これも国際法にあります。捕虜の扱い方が書いてあります。
第一次世界大戦のときに、ドイツ軍の捕虜が日本にやってきて徳島などにいました。捕虜になった兵隊さんが帰りたくなくて、それで神戸でお菓子屋さんをやったり、ローマイヤーになったりで、国際法を勉強して、捕虜を丁寧に扱っていた時代もあったのです。
でもやっぱり傲慢になったらいけないですよね。
人も国家も傲慢になると俺が国際法だというふうにどこかでそういう気持ちが働いて、相手がいるということを忘れてしまう。で、マニラは日本軍が攻撃してしまいまして、その罪で日本が裁かれた。