前田哲男氏(軍事ジャーナリスト・評論家)/「自衛隊の『旧軍隊』への回帰と九条の闘いの視点」—歯止めなく暴走する自衛隊をどう変えていけるのか—09/02/23
「自衛隊の『旧軍隊』への回帰と九条の闘いの視点」(2)
—歯止めなく暴走する自衛隊をどう変えていけるのか—
講師 前田哲男氏(軍事ジャーナリスト・評論家)
田母神さんの同期が20代の初めぐらいからこういう雰囲気の中で育ってきたということもまた知っておかなければならないだろうと思います。
防大15期の時代は大森 寛が校長です。その後、猪木正道校長になります。初代の防衛大学校校長は槙 智雄さんですが、槙校長の時代は「市民としての自衛官」が強調された時代だといわれています。
事実、防大1期生から10期生くらいまで、私はかなり綿密にインタビューしたことがあるのである程度知っていますが、そのあたりの世代はファナチックではない。
しかし、シングルナンバー(1〜9期)から戦後生まれのダブルナンバーに時代が移ってからはかなり違ってきたようで、「あいつらは怖いよ」、というようなことを防大の初期の人たちが言っていたのを思い出します。防大は田母神さんのころまで、理工系だけで文系はなかったのです。田母神さんは電気工学専攻です。エンジニアでありながらああいう粗雑な論理の論文というか、これは一体どういうものなのでしょうか。
74年か75年に人文学類ができて、いまは両方入っています。田母神さんが育った70年前後、三島事件前後の防衛大学校の雰囲気、彼らの思想傾向はこういうものであった。彼はそういう中で育って来たということを、フリューシュトゥックが書いている最近の自衛隊の中における制服の意識・思想の分析とともに、田母神問題の底流に迫る視点としてあげておきたい。
“戦前の教訓”から読み解く
第2の視点は、彼らが思いを馳せる戦前の軍隊と政治の関係です。フリューシュトゥック論文にも出てきますが、それが何をもたらしたか。その結末は私たちが良く知っていますし、そこに戻りたいと誰も思うはずがないわけでしょうけれども、やはり60年以上経つと、戦前日本の政・軍関係を知らない国民、有権者が圧倒的に多くなっているので、何度でも思い返しておく必要がある。そういう意味で田母神問題の一つに、戦前の教訓から読み解く視点、伝えていく視点も持っておかなければならない。
シビリアン・コントロールということが言われます。文民統制、軍事に対する政治の優越、と言い表されますが、一応ながら明治憲法にも「軍人勅諭」(1882年)に「政治に拘わらず」と政治不干与がうたわれていました。天皇がシビリアンであったかどうか、またシビリアン・コントロールとえるかどうか微妙なところがあります。大元帥であったのだから軍人ではないかという見方もできるし、でも軍籍はなかったから一応、文民統制という言い方をしてよいのではないかともなる。
ともかく「軍人の政治不干与」が軍隊の規律として、天皇の権威によって与えられ、服従させられていた。それが崩れるところから軍のファシズム、軍の独裁、議会制民主主義と政党政治の終焉が始まるのです。
1930年前後、28(昭3)年に中国で軍閥のボスを目標にした「張作霖爆殺事件」が起こります。現役陸軍軍人の謀略による一種の政治テロでした。事実を知りながら田中義一内閣は処罰できなかった。首謀者を「依願退職」(予備役編入)ですませます。そのあたりから始まるのかもしれませんが、軍人の政治的発言、政治干与がはっきり出てくるのは1930年代にはいってからです。1930年に「ロンドン海軍軍縮条約」という国際的な軍縮条約が結ばれて、日本はそれに加わり、批准しようとした。そこから軍部の政治干与が公然と出てくるようになります。
帝国憲法、旧日本国憲法は軍事に関して第11条で「天皇は陸海軍ヲ統帥ス」と定めました。統帥大権と言われます。陸海軍は天皇に直属し統帥権は独立している、内閣・国会はいっさい関与できないという憲法規定です。同時に第12条で、「天皇ハ陸海軍ノ編成及ビ常備兵額ヲ定ム」とあります。つまり軍の定員や予算に関する事項は天皇の大権だけれど、こちらは内閣の助言と責任に属し国会の承認を得なければならない。前者、つまり統帥権独立を「軍令」といい、後者、編成・常備兵額は「軍政」で、大権は天皇にあるけれども、内閣が天皇に対し責任を負い国会に示して承認が必要な領域である、と区分していました。
矛盾をはらみますが、一応1930年代まではこのように「軍令と軍政」は分かれていました。同時に政治に拘わらず、という軍人勅諭も実行されていました。
1930年にロンドン海軍軍縮条約が結ばれます。日本は巡洋艦など補助艦の比率で対米・英6割9分7厘5毛、69.75%、よく対米7割というふうに言われますが、7割を0.25%切るというところで政府は妥協するのです。時の浜口内閣は、確かに日本は米英に差をつけられたけれども、大きなところで軍縮は必要だし、日本は軍縮で得をするところがあると判断して、条約に調印し批准を求めるわけです。当時は国会じゃなく枢密院など別の機関ですが。
それに対し、「統帥権干犯」論争が巻き起こってくるわけです。
憲法11条の軍令事項を政府は踏みにじった、海軍の同意抜きの条約調印は天皇の統帥大権を犯すものであるという議論です。
そのときは、前の年、1929年のウォール街の証券破綻に始まる世界的な経済危機が、「昭和恐慌」という形で日本でも猛威を振るいつつあった時期に当たっていました。高まる社会不安の中で、軍部は、政府が「統帥権干犯」、つまり天皇の軍事大権を犯したというキャンペーンを張るのです。それはやがて政府の憲法解釈、憲法第12条の「定員と予算は内閣と国会に属する」という憲法解釈に軍が公然異をとなえる。
さらに、東大教授の美濃部達吉は憲法理論の著書で、天皇は国家の機関であると論じているが、畏れ多くも天皇を機関とは何事だ、国体に反する学説である、と「天皇機関説弾劾」というところに波及して、美濃部さんがテロに遭うような危険にもなり、政府は「国体明徴声明」といいますが、天皇機関説を取らない、天皇は犯すべからざる尊い存在、尊厳の対象であり、機関などとは呼ばないと譲歩せざるを得なくなる。
こういうふうにじわじわと憲法解釈が、また憲法の規定が、統帥権独立の側で拡大させられていく動きが起こるのです。
それに続く1931(昭6)年という年は、憲法解釈のレベルだけではなしに、「満州事変」という日本の中国侵略の大きな一歩が始まった時期です。
田母神さんは、満州事変は蒋介石がしかけた罠である、真相はコミンテルン、国際共産主義運動の挑発であったという言い方をしていますが、満州事変が、関東軍司令官・本庄 繁、高級参謀・板垣征四郎、主任参謀・石原莞爾らによって画策された、日本側の挑発、独断専行であったことは歴然とした事実です。
満州事変は1931年の9月18日に起きますが、その年の1月に、陸軍大臣の南次郎(敗戦後、A級戦犯として終身刑に処せられたが、1954(昭29)年病気のため仮出獄)が全国の師団長、団隊長に通牒を出して、
「軍人は世論に惑わされず、政治に関与してはならぬことは軍人勅諭に明示されている通りである。しかし一面、軍人は国家の国防を担任している。国防が全くなさざれば国家危うきは言うまでもない。しからば国防問題について議論することはいわゆる政治関与をもって論ずべきではない。国防は政治に先行するべきことを了承せられたい。」
という「政治発言容認」を通達するわけです。
これによって、軍人勅諭にいう政治不関与は全く形骸化してしまうのです。南の論理をもう少し紹介しますと、
「軍人は軍政という政治を担当するものであるから、元来政治に関与すべき本分を有するものであるともいえる。それゆえに軍人が軍務事項またはこれに関連する事項につき当然政治的意見を発表し、しかもそれが政治のいかなる部面に接触しても、その職務、軍人の職務の遂行であるから、罪となるべき事由はない。」
今の田母神論理をここに当てはめると、「自衛官の政治的発言は言論の自由」だと言っているのと同じです。
「また、軍人が軍縮論に反対して意見を公にしたとしても、これまた当然である。軍人は政治家の俗説や便宜論に媚びたり、惑乱させられて自己の信念を曲げてはならぬ。どこまでも毅然として世界に超脱して国防の安全を期すべきである。」
こういう内容の通達が全国に陸軍大臣の名前で出されたわけです。影響が小さいものであるとはとても言えない。その年後半に満州事変、関東軍の独断専行による軍事行動が始まるわけです。満州事変そのものは石原参謀らによって、これより前から計画が進行していますので、南通牒と満州事変の直接の因果関係はありませんけれども、大きな流れは通底していると思います。
こうして軍人勅諭の形骸化、と同時に軍事行動、侵略が軍隊のイニシアチブによって進行していくわけです。
政治は全く無力でした。当時の総理大臣若槻禮次郎が、『古風庵回顧録』という自伝を書いていますが、そこで満州事変についてこう書いています。
「内閣が、事件の」、これは満州事変ですね、「不拡大方針を定め、陸軍大臣」、南ですが、「陸軍大臣をしてこれを満州軍に通達せしめたのに、満州軍はなお前進を止めない。陸軍大臣にそれを責めると、そのままにしておくと居留民が被害をこうむる恐れがあるから止むを得ず進撃するのだと弁解する。それならば東支鉄道を越えてはならぬと言うと、陸軍大臣はその通り、越えさせませんというが、満州軍はチチハルに行き、さらに黒河まで行ってしまった。このように日本の軍隊が日本の政府の命令に従わないという奇怪な事態となった。」
こういうふうに進んで行くのですね。
明治憲法のもとでも軍人の政治不関与は一応規定されていたし、長い間守られても来た。しかし、箍(タガ)が一度外れるとガタガタッとなってしまう。そのタガの外れ方の背景には、経済不況も影響しています。当時はウォール街発の世界恐慌といわれました。いまも全くアメリカ発です。世界恐慌という経済的な要因も絡んでいます。同時に政治が毅然としなかった、出来なかった。メディアもまたそれをしなかった。
当時のメディア、また政治がどうであったか。
ちょうどいまのように政党政治が党利党略で動いたということがあります。軍人の主張を支持する政党があったわけです。美濃部博士の天皇機関説は天皇の権威を損なうものである、怪しからん、というようなことを軍人が言うだけでなく、政治家の中にそれを支持する声があった(犬養毅、鳩山一郎ら)。ロンドン条約を批准することに対し、海軍はそれでは国防が完整できないと言っている、それを無視するのは統帥権干犯、憲法違反だ、こういうような議論を最大野党の政友会などが国会でやるわけです。
今も田母神事件に産経新聞というメディア、また一部の学者、とりわけ自民党の議員が、あれは言論の自由の範囲以内である、むしろ村山談話の方を変えるべきではないか、と言っているのと似たような構図がある。
文民統制や軍隊を統御する国民の意思に関して、明治憲法下の日本に合意はありませんでした。現憲法でははっきりした制度的な規定もあるし国民的な合意もあるのですが、しかしそれをくつがえす動きがある。そこに当時の事を教訓として受け止めることが必要ではないかと思うのです。
“ドイツの場合”との対比で考える
三番目に、田母神発言とシビリアン・コントロールの根源を考える視点として、国際比較といいますかドイツの場合と比べてみますが、アメリカ、イギリスでも同じです。
イギリス慣習憲法の土台となったマグナカルタ(1215年)は、軍権、王の軍事権力を議会がコントロールすることから発しました。恣意的な課税を禁止し、戦争権限にも議会がコントロールする、シビリアン・コントロール、文民統制的のみなもとです。
アメリカでも、我々が知っているマッカーサー元帥が、朝鮮戦争のさい、原爆を使用して中国を攻撃すべきである、と進言したとたん、トルーマン大統領から解任されてしまいました。それは軍人の分ではない。政治が決めることである。地位にふさわしくない。2次大戦の英雄が電報一本でクビです。
逆の場合ですが、イラク戦争に反対する軍人もアメリカにいます。この人たちは懲戒されます。ベトナム戦争のときはもっとたくさんいました。不義・不正な戦いである、これに私は参加しない。そういう言論の自由はあるが、軍籍に身を置く以上、規律違反である。その責めは問われねばならない。言論の自由は制服を脱いでから言え、ということです。
日本と同じ敗戦国であるドイツは、もっと徹底しています。というより、ナチスの犯罪、ナチスの犯した大きな罪に対するけじめがつけられなければ、ドイツは国際社会に復帰することもできませんでしたし、今のようにEUの中心的な国家になることも出来なかった。ドイツはそれを克服し、その信頼を周辺諸国に確認したからこそ、今EUの中で有力な一員になっているわけです。
ドイツでは「アウシュビッツはなかった」、もしくは「あったとしても600万人というのは大きすぎて、嘘である」、と言うと犯罪になります。「国民扇動の罪」という罪が刑法の中にある。最高刑五年。「アウシュビッツの嘘」規定と言われています。つまり、アウシュビッツは嘘であったという言論の自由は、ドイツにはないということです。
たとえて言えば、「南京虐殺はなかった」とドイツでは言えない。日本では、『南京大虐殺の幻』なんていう本が延々と売られつづけていますが、それはないわけです。歴史的事実としてアウシュビッツの罪を引き受けるということから、戦後のドイツの歴史認識は始まったと言っていいでしょう。
有名な写真があります。
1970年にヴィリー・ブラント(1969〜74年、西ドイツの首相、ノーベル平和賞受賞)がポーランド、ワルシャワのユダヤ人の居住地に設けられた記念碑に初めて行ったときに彼が行った行為です。ブラントはひざまづいたのです。日本流にいうと土下座をしました。予定にもなかったし、ブラントの回顧によっても、「私はその日の朝まで、自分がそういうようなことをしようなどとは思ってもいなかった」と書いています。「しかし、あそこに行ったときに、もう、そうするしかない。で、そうしてしまったのだ。」この姿勢を45秒取り続けた。ポーランドの政府関係者もびっくりしたそうです。そんなことは要求もしていないし、予定にも全くなかった。それをブラントがやった。
ブラントのこの行動に対する当時のドイツの国民の反応は、やり過ぎだ、というのが48%。やってよかったというのが41%。否定の方がやや多い。ということはブラントが国民受けのパーフォーマンスでやったということではない。決して国民が望んでいたことでもない。けれども彼はそれをやって、その結果ポーランドとの関係は劇的によくなった。ドイツの過去の克服はいろいろな形で、ブラントの前からあり、また、ブラントの後にも続きますが、この象徴的な行動がいちばん有名であることは間違いないだろうと思います。
当時は48対41ぐらいで否定的な意見が多かったのだけれども、しかしその後、ブラントの行為は次第に評価され、定着し、今ではドイツの中では受け入れられています。
71年のノーベル平和賞はブラントに贈られました。世界的にもこの歴史認識の評価は認められたと言えます。以上は『戦後五十年決定的瞬間』という本の中にあることですが、その「ひざまづいた首相」という記事の最後は、「たとえポーランドとの条約は忘れられようとも、ブラントのこの行為は語り草になるだろう。実際にそういうことになった」と結ばれています。
1995年の本ですが、ドイツは冷戦の後、ヨーロッパ共同体というEUの中に不動の地位を占め、今に至るわけです。
アジアに対し、日本の指導者がそのような態度を示したことはありませんでした。。中国と韓国と日本がこういう形で向きあうシーンもなかった。ブラントの行為は、私たちがあの戦争をどういうふうに捉え、政治に生かし、外交関係の中に反映させ、かつ、語り伝えていくか、教訓にしていくかを考える大きなポイントになるだろうと思います。
以上が、田母神問題の根源ということで、三つの視点から、これは決して一過性のものではなく、組織病理のようなルーツを持つものであり、かつ歴史とも交わっているということをお話しました。(つづく)