視角/ 丸山重威 (関東学院大学教授) (JCJジャーナリストより転載)12/10/15
政治とジャーナリズム
尖閣諸島の問題もなぜか、とりあえず静かになり、自民党、民主党の党首選が終わって、内閣改造も行われた。国交回復40年を祝うはずの中国の国慶節も、日中は「冷たい関係」のまま。全国に広がる反対の声の中、オスプレイは岩国から普天間に到着、その隙を突くように大間原発の建設が再開…。どれもこれも重大な問題ばかりだが、権力者の強権に流されるまま、ただ時が過ぎていく▼民主、自民の対決の中で、自民党はタカ派の代表、安倍新総裁を選んだ。財界は国家主義的な主張や「原発ゼロは無責任」などの発言に大喜びしたが、中国との関係悪化には「経済界に影響を及ぼしている」と懸念を表明、財界も表面に出て露骨にもの申すようになった。庶民の「官邸前行動」は続いているが、テレビからも新聞からも無視され始めた。だが、原発とその被災者たちの問題は全く片付いていない▼政治とは、一般的には国家の安定的な支配を維持するための「統治術」として理解される。簡単に言うと、「民」をどうコントロールし、「国」を維持するか、ということだろう。だから、「動く」のも政治だが、「動かない」のも政治だ。そこで、政治と「民」をつなぐジャーナリズムが重要になる。だが、権力者は、見て見ないふりをする。「暖簾に腕押し」「糠にクギ」―▼だが、ものを書いたり、話したり、映像で伝えるということは、自分らしく生きることだし闘いだ。必ずしも「効果」ではなく、読者や視聴者のために伝え、歴史のために伝える。それがジャーナリストだ。