総務省『通信・放送の総合的な法体系に関する研究会 中間とりまとめ』

に対するメディア総合研究所のパブリック・コメント /07/07/24

 


総務省『通信・放送の総合的な法体系に関する研究会 中間とりまとめ』

に対するメディア総合研究所のパブリック・コメント

 

2007年7月20日

メディア総合研究所

所長 須藤 春夫

 

[1]「情報通信法(仮称)」案の基本構造に同意できない

 

 メディアを縦割り型(メディアの種別を垂直に個々に区分)の構造としてとらえてきた現在の通信・放送法制体系を、レイヤー型(各種のメディアの形成に関わる基幹事業領域を、横割りの三つの層に区分)の構造としてとらえる法体系に転換するという「情報通信法(仮称)」案は、『中間とりまとめ』に述べられる限りでは、これまでの制度の弊害や矛盾を改善するどころか、反対にそれらを増幅、拡大するおそれを伴っている。

 そうした問題点を放置して、早く成案を得ようと、ことを性急に運ぶべきではない。さらに研究体制を拡大、広く衆知を集め、現行法制によって形成・維持されてきた通信・放送の特徴・長所の発展と、あわせてデジタル・IP(インターネット・プロトコル)による新メディアの創成、普及とが、同時に可能となる方策をいっそう慎重に検討し、新しい法・制度の策定に努めるべきである。このままの法体系の基本構造保持に固執することには、同意できない。

 総論的にみても、すぐ以下のような問題点にぶつかる。

 

(1)レイヤー構造理論は現実のメディア産業の行動を適切に規律できない

 

  デジタル統合のもとでのICT(情報通信技術)革命は、異なるメディア間の事業領域をボーダレスに融合させるが、もう一方では、それらを構成する伝送インフラ、プラットフォーム、コンテンツの三つの事業的レイヤーの区別を、しだいにはっきりさせていく。そのことは、技術の作用のなりゆきとして生ずることに過ぎない。だからといって、そのなりゆきを制度原理として受容するだけでは、異なるメディアそれぞれが別個に必要とする適切な規律を獲得することにはならず、むしろそこからの逸脱を招きかねない。

 現実に伝送インフラ、プラットフォーム、コンテンツの各事業領域には、出自はそのいずれか一のレイヤーに発するが、すでに他の一、あるいは二のレイヤーにも進出、事実上異なる複数のレイヤーを縦に貫く兼営体制を実現するにいたった複合型情報通信・メディア事業者が存在するようになっている。また、電機、自動車、総合商社、金融など異業種を出自とする事業者が、いずれかのレイヤーに関係し、さらにそこから他のレイヤーに関わることとなっている事例さえ出現している。加えて外国の多角的情報通信事業者も、日本現地法人や日本企業との合資・提携などを通じて、各レイヤーに事業的関わりをもつようになっている。

 こうした複数のレイヤーを縦に貫く、『中間とりまとめ』が「従来の業種を超えた統合・連携」という体制を実現した複合的で独占的な情報通信企業は、もっぱら横割りのレイヤー軸の自由な動きの活発化を促す法体系の下で、上下に向かう産業活動に関してはますます制約を受けずに行動できることになる。その結果、彼らは、現行法体系において公益性・公共性の確保の観点から、ある種の通信・放送事業をアナーキーな市場競争の埒外に置いたり、逆にそれらの事業における独占・集中を禁止してきたりした産業秩序を容易に崩し、これら通信・放送事業の領域にも進出することになる可能性がある。このような事態の出来は、通信・放送事業のこれまでの歴史的発展過程を否定することにつながりかねず、そうした危険性を除去する方策を確実に講じる制度的措置が必要である。だが、今回提示された法体系にはそうした措置をうかがわせるところがない。

 

(2)みえてこない通信の許可制度と放送の免許制度の妥当な変化

 

 現行法体系下において、通信・放送をめぐる各種事業は、総務省による許可、免許交付、認可、登録・届出受理など、さまざまな制度的手続きを経て実現可能なものとされている。そこには実に多様な事業と事業者が想定されるわけだが、縦割りの事業区分では、事業、事業者、制度的手続きの対応関係が、比較的判然と捉えることができる。だが、横割りレイヤー区分による事業の種別や、それをどのような事業者がやれるのか、やるに際してどのような制度的手続きを取ることになるのかが、実にわかりにくく、想定しがたい。

 たとえば、プラットフォーム事業に携わるものは、その制度的手続きを経るだけで、伝送インフラ、コンテンツの事業も自由にやれるのか、あるいは異なる事業ごとに別な制度的手続きを取る必要があるのか、そうした手続きは同一法人のままで取れるのか、別法人を設ける必要があるのかなどなど、 事業の区分、事業者のあり方、それらに対応すべき制度的手続きの種類などが、横にも縦にも入り乱れ、錯綜して考えられ、捉えがたい。

 とくに問題なのが、たとえば電気通信事業法における第一種電気通信事業の許可、電波法・同法に基づく省令「放送局の開設の根本的基準」による放送の免許が、どのように変わるのか、不明確な点である。公益性・公共性の体現が必須要件であるとみなされた基幹的な通信・放送は、これらの制度によって、いわば市場競争を超越する制度的独占を許され、代わりに公平・公正の励行に関する規律を受けるものとされてきた。ところが『中間とりまとめ』は、これらの許可・免許が、無線局免許の方式に基づいて成り立っている部分に言及、これは廃絶、規制緩和を目指す、とする考え方を示唆するのだ。だが、それによって公平性・公共性が担保され得るのか否かの見通しは、曖昧なままだ。

 むしろ放送に関する限り、無線局免許(制)による「適合性審査」は止め、横割りの「コンテンツ配信法制」のなかで放送(事業・事業者)の社会的機能・影響力を勘案、適合性の可否を考えていくべきだ、と読める見解を明らかにしているのだが(『中間とりまとめ』9ページ)、これは大問題だ。放送免許が無線施設の適正さに応じて交付される施設免許制の下に置かれてきたのは、その交付が事業者や事業内容に対する政府の判断によって決まるのでは、国家権力が、言論報道機関の存立の可否を、直接決定することになり、憲法21条に違反する、と考えられてきたからである。このような放送の原理的ポジションを根本的に覆すような変更には、到底同意できない。

 

(3)「独立行政委員会」を設け、そこに通信・放送行政を委ねよ

 

 政府は早くから首相官邸に直属の「IT戦略本部」を設置、その内部に設けた「IT戦略会議(議長は出井伸之ソニー会長・CEO=当時。メンバーは主要情報通信関連企業首脳)」と連携、政府の強力な主導の下で、日本における高度情報通信社会の迅速な実現を目指す政策展開を図ってきたが、それは著しく経済・産業志向に偏したものであり、言論・表現、文化に対する観点は希薄なものだった。『中間とりまとめ』の情報通信三レイヤーにおける自由な産業・事業活動を奨励する制度構想も、そうした流れに属するものであり、同じ問題点も引き継いでいるといわざるを得ない。

 そしてまた、規制緩和・撤廃というものの、実態は政府が強力なイニシアティブをいたるところで発揮、各レイヤーにおける事業の種別と事業者の位置付け、これらに対応するエントリーのための制度的手続き、業種を超えた統合・連携の認め方、公益性・公共性の担保、規律・規制の必要性の判定とそれらの実行などは、結局政府が検討、対応しなければならないことになる状況が、あまりにも多く残されているとしかいいようのないのが、『中間とりまとめ』の内実だ。これでは、規制緩和どころか、政府に独裁的な規制権限を与える法的根拠になってしまうのではないか、と危惧される。

 いまや国際社会では、情報通信・コミュニケーションの問題に対する政策的取り組みは、情報公開・個人情報保護制度とセットで、市民的自由に対してはいかに政府に干渉させないようにするかが、制度設計上の重点課題となっているといっても過言ではない。ネットの活用においても、政府については、言論報道活動を含む市民的自由の確保が必要と考えられる活動領域に対しては、どこからどこまでは接続不可とする―入ってはならないと、そこは覗けないようにシステム設計するのが当たり前になっている。このような考え方に立てば、政府=国家権力が、その放送局の事業内容・事業者について「適合性審査」を行い、その結果によって免許交付の可否を決定するなどのことが、いかに時代に逆行するものであるかが歴然とする。

 議会に責任を負うか、政府に責任を負うか、あるいは社会各層の代表からなるラウンドテーブルに責任を負うか、その国の政治文化の歴史・伝統によって違いはあるものの、いまや世界主要国では、政府から独立した行政委員会を設け、これに通信・放送行政を委ねるのが通例と化しつつある。これが明確なルールに則って、またケースバイケースの問題は徹底して民主的な話し合いによって、なにごとも決めていくのだ。許可、免許、認可などの管理業務も当然扱う。倫理問題をめぐる規律・規制にも関わる。サミット参加八ヵ国中、この種の独立行政委員会をもたないのはいまや、日本とロシアだけである。

 

 

[2] 放送の公共性を担保し、放送の独立と表現の自由を保障せよ

 

(1)放送メディアの独自性を「コンテンツ配信法制」のなかで消失させるな

 

 コンテンツを制作・製造し、かつ配信する放送的「メディアサービス」を大きく二つに分け、地上波テレビ放送によるものは「特別メディアサービス」と称し、現行の規律(電波法・放送法など)を維持する一方、多チャンネルのCS放送における委託放送やインターネットのブロードバンドによる放送類似の各種番組配信などは「一般メディアサービス」と呼び、こちらには現行放送法3条の2における規律のようなものは課さず、全般的に規制は緩和する、というのが、新法体系における「コンテンツ配信法制」の一つの特徴である。

 そして上記のほか、もう一つ、主にインターネットで配信されるコンテンツに関しては、オープンなホームページのようなかたちで一般のアクセスと利用を待つものを「公然通信」と称し、これについては、私人同士のあいだの通信などのコンテンツ流通とは区別、「関係者全員」(おそらくコンテンツ提供者だけでなく、アクセスする利用者も含む)を律する共通ルールを策定、適用するという。「有害コンテンツ」のアクセス制限のためには、ゾーニング(レイティングともいう)規制の導入もあり得るとする。

 このようなコンテンツ・レイヤーとそこにおける事業分類の捉え方のなかに、独自の特徴を明確に示した放送の姿を発見できるだろうか。

 放送は、放送スタジオ、無線設備、各種カメラ・音声装置・画像加工機、中継車・可搬型通信衛星装置など固有のハードを備え、それらをみずから使用しながら、送り手としての自分が発信者となり、いま写している映像と、発話しているメッセージを即時、リニアーに、不特定多数の受け手に送り届けることを基本として成り立つメディアである。確かに応用的にデジタル・モードのビデオ・パッケージと自動送出装置を使い、放送を行うこともできるが、いま現に生起しつつあることをそのまま伝えることが、放送の原点である事情は、今後とも変わらない。

 こうした放送の成立は、自前のインフラ、プラットフォーム、コンテンツ制作設備の一体的保持を前提としており、これを「コンテンツ配信法制」の規律を受けるメディアサービスの単なる一類型として取り扱うことは、著しく妥当性を欠くといわざるを得ない。三つのレイヤーを貫く存在条件を放送の成立要件として、法のなかでも認めるべきであろう。また、このような放送の内容的なあり方は、現行放送法において、教養・教育・報道・娯楽の各番組を適度に交え、これら相互間の調和を保たねばならない、と要請されているが(3条の2の2項)、そうした番組編成における全体性・総合性の保持と発現は、放送を除くその他のコンテンツ配信サービスがますます増え、多様化・断片化していく状況のなかでも、いや、そのような傾向が募れば募るほど、とくに放送に強く求められることになる公共的な役割であろう。このような放送を、「特別メディアサービス」と命名することは無用であり、新法もまた「放送」の呼称を維持すべきであろう。

 

(2)放送と通信の伝統的区分を保持し、両者のメディア原理を継承せよ

 

 憲法第21条において、マス・メディアとしての放送と、私人のあいだのコミュニケーション手段としての通信は、その自由の保障において、対照的なポジションを与えられている。すなわち、放送は新聞、出版と同じように、検閲など権力の抑圧・介入を受けることなく、十全の独立を享受し、公共の福祉に反しない限り、なにごとも自由に表現し、伝える権利が保障されている。メディアに対するこの自由と権利の保障は、結果的に市民の知る権利の保障につながっている。これに対して通信は、市民一人ひとりが個人的なコミュニケーション空間としてこれを利用するとき、当事者以外のだれかがその対話を妨害したり、その秘密をさぐったりすることを防止・排除し、通信の秘密を守ることを義務付けられる。こちらは、このようなかたちで市民一人ひとりの言説・コミュニケーションの自由、プライバシーの権利を保障しているのだ。

 ところが、レイヤー理論がもたらす新しい制度環境は、放送と通信それぞれの、相互に異なったメディア原理を混乱させ、その結果、両者をしてともに自己の果たしてきた固有の役割を見失わせるおそれがあり、その点の問題の重大性を看過することができない。

 具体的には、公共性の保持を求められるがゆえに、免許事業という制度的独占に守られ、その代わりに法の下で番組編集の公平・公正に関する規律などを受ける放送は、営利を目的とする事業行動においてはおのずから制約を被る制度環境のなかに止まってきた。しかし、新しい規制緩和の下で、一般のコンテンツ・サービス事業や通信事業なども手がけられるとなれば、新しいビジネス・チャンスに恵まれる可能性はあるものの、反面、競争の世界に身を投じることとなり、やがて制度的独占を専有する特典を失うことになりかねない。一方、元来経済的には自由度の高かった通信も、放送および放送類似のサービス事業に進出すると、そのコンテンツが法的な規制を被る結果となり、通信の秘密の厳守を強く主張できた固有の立脚点を、失うことにもなりかねない。

 放送・通信どちらの場合も、自由と規制の境界はしだいに溶融、混沌としたものになっていくおそれがあるが、その場合、なにごとも行政に判断を仰がねばならなくなり、ビジネスを多様に展開、事業領域を拡大すればするだけ、事業行動の全過程に対する行政の監督権限が増大する、という好ましくない状態に陥る心配がある。こうした事態を回避し、それぞれが憲法第21条に基づく役割発揮を堅持していくためにも、両者の伝統的な業域区分、事業者規律などを定めた制度・慣習の良き部分は、保全していくべきである。

 なお、放送に関しては、電波法とその付属省令で、放送局の地域免許制、一事業者による複数局所有・支配の禁止、新聞・ラジオ・テレビ三業種支配の禁止など、メディアの多元性を確保して言論報道の多様性を維持していくための制度的方策が講じられてきたが、これらの原理もまた継承、発展させていくべきであろう。その意味では、改正放送法案の関連事項についても、あわせて慎重な検討を加えていかねばならない。

 

(3)なにが放送かを再定義し、放送を新たな発展的形態のなかで再獲得せよ

 

 ICT革命の下、多メディア化・多チャンネル化のなかでも、伝統的な放送のあり方を揺るがぬものとしていく必要があるが、一方で、デジタル技術の発展に伴う電波資源の豊富化という条件を生かし、新しいタイプの放送の実現を促していくことが、今後重要な課題となるのも事実である。それらが多元的かつ多様な言論状況、自由な文化状況を生み出し、日本の政治文化をいっそう民主的に成熟させていくことは、実に望ましいことである。いったいなにがこのような新しい放送といえるだろうか。

 『中間とりまとめ』は、「一般メディアサービス」とは、「特別メディアサービス」から排除される、その他の放送と放送類似のコンテンツ配信、と想定しているが、実際にはその内部は大きく、商品として販売されるコンテンツ配信(ペイテレビ、有料映像サイトなど)と、営利が目的でなく、政治的、あるいは社会的・文化的意図の下、言論表現活動の実践自体を目的とするものとの二種類に分かれるはずである。後者の大半は、市場の自由競争のなかに放置されたら、存続がむずかしいものが多いと考えられる。これらに電波使用料の割引や、インフラ・プラットフォーム利用上のなんらかの公的助成措置などを制度的に与えてやれば、大きな支えとなるに違いない。

 たとえば、NGO・NPOなど各種の市民団体・地域団体や民間の教育・学術研究・文化・芸術団体などによる専門放送、公選法・政党助成関連法規で政治団体と認められたものや、宗教法人・各種の公益性が明確な団体などの放送事業、各級行政機関による教育・医療・福祉・住民広報・その他の行政サービス周知を目的とする放送(政治広報は禁止)などを、新しい放送と認定、助成制度によってその誕生や成長を促してやれば、これらの放送は、マス・メディア型の放送によるのとはまた異なる、新しい公共的なコミュニケーションの世界を生み出していく可能性がある。

 『中間とりまとめ』において「特別メディアサービス」に擬せられた放送を、たとえば「第一種放送事業」(免許制)とし、その他の新しい放送を何種類かの放送事業に類別、これらの種類に応じて許可・認可、届出・受理などのエントリー方式を適用することにすれば(いずれも独立行政委員会の下で実施)、電波資源の豊富化のなかで無意味化しつつある無線局免許制(施設免許制)を合理的に脱し、公共性を担った放送に、非市場的で競争制限的な制度環境を与え、独立性と活動の自由を保障してやることができる。

 このような放送の再定義を法制的に行い、放送とされたものが全体として公共的な役割を拡大していくのを促すことこそ、ICT革命のなかで求められるものではないか。

 なお、ここで放送から除外されるもの、いわば「非放送」とされるものは、『中間とりまとめ』のなかで「一般メディアサービス」とされたものから、上記の新しい放送を除いた残余の部分と、「公然通信」とされたものとになる。これらは基本的に、市場的自由をフルに享受し、競争を通じて自力で成功を追求すべき存在である。これらに対して「情報通信法」はできる限り自由の保障の根拠となるべきであって、規制・取締りの根拠となるべきではない。それらの社会規範からの逸脱や不法行為は基本的に、事実が明らかになったのち、関係一般法によって問題の処理が図られるべきである。

 

 

[3]ICTネットワークを社会情報媒体の発展促進に役立てる法体系とせよ

 

 『中間とりまとめ』の最大の欠陥は、ICT革命の行方を、いわば唯技術論的に過大視し、またその成果の刈り取りを、産業志向に偏して行おうとするのみで、言論報道活動、情報文化、市民的なコミュニケーションなどの発展に結び付けて論ずることがあまりにも少ない点である。「ユビキタスネット社会」の成立を目指す、とする趣旨の主張・提案が『まとめ』に散見されるが、IP方式によるネットメディアの普及に伴って、それが社会のあらゆるところ、個人生活の隅々にまで浸透、ユビキタスに存在するものとなっていくのは、もはや自明のことであって、「ユビキタスネット社会」とはそうした状況が全面的に実現した社会、ということを表現するだけの言葉であり、それ以下でも以上でもない。この言葉を、人文・社会科学的な学問においてすでに研究し尽くされ、特別に進化した、固有の歴史的価値を有する社会と判定され、通説化された社会概念でもあるかのように安易に取り扱うのは、広告のキャッチフレーズを学問的タームとするがごときもので、笑止である。

 いわゆる「ユビキタスネット社会」には、新しい技術文明がかつてなかったタイプの社会の分解、人間の孤立を生み出す弊害も出現するようになっており、このような社会を本当に歴史の発展段階において、以前より真に進歩したといい得る社会にしていけるのか否かは、今後の課題となっているのが現状である。このような問題を考えるとき、『まとめ』はまた、「情報権」という権利概念を提起するが、文脈的に技術的利便の使用権を指すに近いこのような考え方より、かつてJ・ダルシーらが提唱した市民の「コミュニケートする権利」という権利概念に即してものごとを検討していくことの有効性をこそ、いま再確認すべきであろう。当初提唱されたこの権利概念は、理念的な色彩が強いものだったが、現在の急速なデジタル放送の発展、IP方式によるネットメディアの出現・普及といった状況は、この権利が現実に具体化可能なものであることを、示唆している。

 以上のような問題意識と視点に立つとき、デジタル放送、IP技術などの成果は、次のような領域や諸課題に対しても、大いに生かされるべきであり、新しい法案はその保障を盛り込むものとされるべきである、と考える。

 

(1)新聞、出版、映画など、既存マス・メディアの再活性化を重視せよ

 

 認知的行為や知的作業における迅速・簡便なネットメディアのみへの依存は、人の関心を検索の対象となるポイントだけに絞り込み、それに馴れた人間は、そのポイントを包含する歴史的空間や多様な関連領域に連なる、複雑で大きなコンテキストへの関心や読解能力を、無意識のうちに失いつつある。他人の関心には興味がもてない若者、他人の話は聴けない若者たちが多くなっている。このような文化的危機を回避し、メディア・コミュニケーションの世界を豊かに維持していくためには、既存のマス・メディアの諸活動や各種のリアルな芸術・文化表現の活動をも、十分にデジタル放送やIPネット空間に取り込んでいく政策的配慮が必要となる。

 『中間とりまとめ』は、ネット系コンテンツ配信の多くを「公然通信」と称するメディ・サービスとして捉えるが、それは、ネット通信系コンテンツ配信事業として生まれたものを中心に、その領域が拡大していくとする発想で考えられたもののように受け取れる。だが実際には、新聞、各種出版など、マス・メディア系のコンテンツも、いまやネットにシフトする勢いを加速しており、これらをも含めて新たな政策的対応を考えるとき、通信概念は捨て、もっと広く、それらのすべてを「電子出版(エレクトロニック・パブリッシング)」として捉えるほうが妥当であろう。そこには映画、演劇・舞踊・音楽などの実演芸術、スポーツ・ゲーム(バーチャル空間におけるものでなくリアルに行われるもの)も包含することが望まれる。

 これらの言論・表現系メディアには、コンテンツ構成要素ごとの断片化された著作権だけでなく、編集権・版権・上演権・開催権など、ホーリスティックなかたちの広義の著作権も認めていくことが必要であろう。また、関連業界ごとの各種の制度慣行も維持されるべきであり、とくに出版の自由は最大限、尊重されなければならない。

 

(2)多様な市民メディアのネットワークに大きな自由を保障すべきだ

 

 『中間とりまとめ』は、「私信など特定人間の通信」については、なんら規制を加えず、かつ「通信」としての秘密を保護する、と定めることを約束するが、IPネットの可能性を斟酌するとき、いきなり私信だけの世界に降りるのでなく、私人がネットで社会的交信範囲を拡大、社会的な諸活動を発展させつつ、社会的発言を活発に行っていくのをいかに促していくか、とする観点から、政策的措置を講ずべきであろう。具体的には各種の非営利型のSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)の生成を促し、その発展とともに、ネット空間のなかに新しい市民メディアが生まれていくことにも、大きな可能性を与えるべきである。

 その際一番必要なことは、なんらかの助成措置を与えるより、完全な自由を保障することである。政府は、自発的な市民活動の発生をとかく警戒し、無用に監視を強める性癖をもっている。たとえば、年金問題の発生とともに、年金カードの発行という話が出ると、それはまたたくまに納税者カード、総合的な社会保障カードの構想までにいき、遂には国民カードなる話にまで発展した。住民基本カード問題が出現したとき、国民総背番号制は取らない、住民情報の範囲は限定し、これを納税、医療などの情報につなげることはしないと、あれほど約束したのに、いつのまにかそんなことは忘れ去られている。

 現在到達した技術水準でも、政府は、その気になれば、ネットを活用、国民ひとりひとりを、各人別に丸裸にできるだけの情報収集ができるはずだ。今後の衛星技術、センサー技術、通信傍受技術を活用すれば、特定個人を24時間、リアルタイムで追跡、監視し、情報収集することが可能となるだろう。

 市民の「コミュニケートする権利」を最大限尊重、完全に実現するには、なんらかの手段的便益を供与するか否かだけでなく、市民の自主的なコミュニケーション過程に政府がいっさい介入しないことを約束、その保障措置を市民に与えることが必要だ。そのためには、一定の範囲のコミュニケーション・プロセスには政府は立ち入らない、とする約束をし、実際にそのための技術的措置を取り(現行のものとは異なる個人情報保護法の制定)、さらにそれが実行されているかどうかを、市民が自己情報の開示請求を通じて確認できるようにすべきなのだ(情報公開法の改正)。

 新法体系においては、同時並行的にこれらについても検討を行わねばならない。

 

(3)悪しきグローバリズムから脱却し、良きグローバリズムを目指す

 

 『中間とりまとめ』には、EU(ヨーロッパ連合)の「国境なきテレビ指令」を引き合いに、EUとしても横割りレイヤー構造区分型の域内制度を策定、コンテンツ流通の流動性を高めようとしている、と主張するかにも取れる記述があるが、何度読んでもこの部分は難解で、EUにおいてもレイヤー型法体系が最善の解決策になった、とは理解できず、なぜこれがここで紹介されているのか、そのこと自体が理解できない。

 むしろよく読めば、他国の放送がそのまま大量に入ってくれば、社会的影響の考え方が国によって異なるので、その点の規制をどうするかがむずかしい問題になってくる―とくにインターネットの普及、高機能化は、スルーでの他国映像コンテンツの多元的な流入を許すので、そのことはますます解決困難な問題になってくる、という状況が浮かび上がるばかりであるような印象を受ける。

 EUが、真のグローバルな環境ではないが、域内だけにせよ、国境を越えて加盟国が自由に番組交流できるようにしようと、上記「指令」を制定、その実現に努力しているのは事実である。だが、IIC(International Institute of Communication.世界放送通信機構)における、EU加盟国のこの問題に関する長年の議論を振り返ってみると、放送はまず、それぞれの国において自国文化の伝統や民主的な政治の主体性に基づく公共的世界を反映するものとして発展が追求されていなければならず、そのうえでそれら多様な放送が国境を越えて、相互に平等に、また自由に交流され得るようなものでなければならない、とする各国共通の認識が、現実には存在することが確認できるのだ。だからこそ、マードック流のグローバリズムに対しては、EUにおいても厳しい批判が加えられる。

 新法体系が学ぶべきは、このようなEUの問題の認識の仕方ではないか。いま、安易にレイヤー理論に従って規制緩和、自由化に突き進んだら、マードック流の悪しきグローバリズムに日本のコンテンツはおろか、伝送インフラも、プラットフォームも、席巻されてしまうのが落ちではないか。まず必要なのは、日本のコンテンツと基幹的伝送インフラについて、しっかりした主体的な公共的仕組みを構築することではないか。そのうえで、技術中立的で自由なコンテンツ流通の国際的交流の場を、関係国と協力し、アジアにつくっていくのが、日本に求められている検討課題ではないのか。

                                  以 上