桂敬一/元東大教授・日本ジャーナリスト会議会員/メディアウォッチ(48)鳩山首相の「東アジア共同体」をどう考えるか ―日本は独創的な地域統合のモデルをつくれ―09/11/15
鳩山首相の 「東アジア共同体」 をどう考えるか
―日本は独創的な地域統合のモデルをつくれ―
日本ジャーナリスト会議会員 桂 敬 一
◆戦前の南洋諸島にいたたくさんの沖縄出身者
最近、 世間に生じる問題について引っかかると、 どういうわけか、 昔の出来事を思い出し、 そこからいろいろ連想することが多くなっている。 年のせいだろう。 新政権、 鳩山首相が 「東アジア共同体」 という構想を提唱した。
その言やよし、 と考えるのに伴い、 2004年の7月から翌年の9月まで、 1年2か月かけて沖縄の琉球新報が毎月1回、 計14号発行した 『沖縄戦新聞』 を思い出した。 ちなみにこれは、 05年のJCJ (日本ジャーナリスト会議) 賞と日本新聞協会賞とを、 ダブル受賞した。
沖縄戦60年を記念する企画だが、 毎号、 新聞4ページを使い (05年6月分のみ、 沖縄地上戦を扱い、 8ページ)、 60年前のちょうど同じ日、 沖縄はどのようなかたちで戦争に巻き込まれたか、 報道のスタイルでその状況を再現してみせたのだ。 60年前は厳しい報道管制の下、 圧し隠されたままだったその日の真実を、 今あらためて全面的に暴露、 読むものの怒りと哀切の情を思いきり解放する、 迫力ある紙面だった。
1945年8月15日、 新聞記者として戦争に加担した己が罪を責め、 即日勤務先の朝日を辞したむのたけじ記者 (故郷 ・ 横手市で週刊新聞 『たいまつ』 を発行する) は、 60年後、 この 『沖縄戦新聞』 をみて、 「あっ、 これだ」、 こういうやり方があったのだ―あのとき朝日を辞めるべきではなかった、 と後悔する (むのたけじ 『戦争絶滅へ、 人間復活へ』 岩波新書)。
しかし、 私が 『沖縄戦新聞』 を思い出したのは、 戦争の無残な実相を伝えるその着想の卓抜さを知らせたい、 と考えたためではない。 04年7月7日付発行の 『沖縄戦新聞』 第1号は、 60年前=1944年の同日の 「サイパン陥落」 の実情を詳しく伝えるかたちをとっているが、 米軍の総攻撃を受ける前のサイパン島に日本人住民が約4万3,000人おり、 その60%を超す約2万6,000人が沖縄出身者だった (1937年現在)、 という事実を初めて知り、 強い印象を受けたことが記憶に残っていたのだ。 サイパンだけではない。
「南洋群島の歴史」 と題したその記事部分には、 米西戦争でアメリカがスペインから奪って領土としたグアムを除く、 それ以北のミクロネシアの島々、 マリアナ、 マーシャル、 カロリンの3諸島にはすでに35年ごろ、 全体で約5万2,000人の日本人が住んでおり、 うち約2万9,000人 (55.9%) が沖縄出身者であり、 それは39年には4万6,000人にも膨れあがっていた、 というのだ。
もちろんミクロネシアの諸島には、 チャモロ、 カナカなどの先住民がいる。 39年の統計ではそれは5万2,000人弱程度だから、 そのころになると、 日本人のほうが彼らより数が多くなっていたに違いない。 だが、 被支配層となる先住民と日本人とのあいだに深刻な対立が生じた、 といったようすがなかったらしいので、 その点にもなにか不思議な感じを受けたことも、 覚えている。
◆沖縄の移住者は先住民に対する支配者ではなかった
私の好きな作家、 狷介な性格の男がやがて虎と化してしまう小説、 『山月記』 を書いた中島敦には、 『光と風と夢』 という作品がある。 名作 『宝島』 を書いたロバート ・ L ・ スティーヴンソンの、 ポリネシアの島、 サモア移住後の生活を描いた伝記小説だが、 つねにどこかに暗い感傷、 孤独な影を潜ませている中島の作風が、 そこでは一変しており、 南海の光と風が空気を揺すり、 波と戯れるような趣に満ち溢れており、 救いのような安らかさを感じさせてくれる。
32歳の彼は1941年6月、 持病の喘息のためにもよいのではと考え、 横浜の女学校教師を辞め、 妻子を横浜に残し、 単身パラオの南洋庁に教科書編纂係として赴任した。 このミクロネシアでの経験が、 いっときの明るさを彼にもたらしたのではないか、 と想像される。 もし現地の支配 ・ 被支配の関係を、 侵略戦争の暴力、 植民地経営の苛斂誅求が覆い尽くしていたら、 彼のような繊細な男は、 とても耐えきれず、 明るさなど感じるどころではなかっただろう。
かつてドイツが領有していた3諸島は、 第1次大戦で連合国側に立った日本が1914年に占拠、 戦後は国際連盟の決議により、 日本が委任統治することとなっていた。 そうした経緯は、 先住者の土地を軍事力で植民地として強奪した、 というものではないため、 中島も安心して、 現地がもたらしてくれる解放感に、 身を委ねることができたのではないか。
そして、 これらの島々に住み着いた多くの沖縄の人々が、 先住民とのあいだにうち解けた関係をつくるうえで、 大きな役割を果たしたのではないか、 と想像できるのだ。 『沖縄戦新聞』 第1号は、 1921年に設立された国策会社、 「南洋興発」 のことを紹介している。
同社は、 本土からきた日本人が経営に当たり、 南洋諸島全域で水産業、 リン鉱開発、 酒造業などのほか、 製糖業にも大々的に手を染めていたが、 サトウキビ耕作や、 熱帯の島嶼に適した農業 ・ 漁業に経験のある沖縄県民を募集、 従業員、 小作として使うことを積極的に進めた。
こうしてたくさんの沖縄県民が全島において基幹的な労働力となり、 町場では商工自営者としても、 沖縄の同胞がその一角に安定した地位を占めていった、 と推測できる。 南の島の暮らしに対する親和性は、 断然大きかったのだ。 本土からの日本人は支配層のトップを占め、 いわば一級市民だ。
これに対して沖縄出身者は、 二級市民的地位に置かれたが、 一級市民にへつらうより、 三級市民としての朝鮮半島出身者や四級市民としての先住民との交流を、 ともに過ごす日ごろの暮らしや仕事を通じて、 大事にしたようだ。 「故郷の貧困から逃れ、 南洋諸島に渡った (沖縄) 県出身者と、 日本に統治される先住民との間に生まれた親近感」 が、 両者におおむね良好な関係をもたらすことになった、 と 『沖縄戦新聞』 第1号の記事が述べている。
◆南洋がけっして遠い未開の異国ではなかった時代
こうした沖縄人の存在や、 そこから連想できる気風を考えるとき、 またもう一つ、 別の思い出が蘇る。 1941年、 太平洋戦争開戦前後、 私の国民学校入学の前後、 東急大井町線が多摩川の道路橋に単線のレールを敷き、 二子玉川から川を渡り、 ようやく溝の口まで運転をするようになってすぐ、 私の母の妹=叔母が、 二子新地に新居を構えたので、 よく遊びに行った。
年下の従兄弟との川遊び、 蝉取りなどが楽しみの定番だったが、 叔母の家の裏手に住む 「南洋のおばさん」 に会うのが、 楽しかった。 多分パラオから帰国した人の奥さんだった。 実に開放的で、 子どもがそう感じるのもおかしな話だが、 人懐こい女性だった。 叔母の家にきて、 珍しい南洋の話をしてくれ、 民芸品を見せてくれたりもした。 どういうわけか、 ずいぶん可愛がられた。 浅黒い丸顔にくりくりしたドングリ眼の持ち主だった。
子どもの私は、 本当に南洋の人かと思い、 当人に向かって 「南洋のおばさん」 と呼び、 笑われた。 だが、 今にして思えば、 沖縄の出身者だったのではないか、 と想像することができる。 テレビで女性ゴルファー、 宮里藍の顔を見たり、 沖縄出身のお笑いタレントの、 独特の抑揚があるしゃべり方を耳にしたりすると、 「南洋のおばさん」 とそっくりじゃないか、 と思う。 こうした心優しい人たちがたくさん、 南洋の島々に住んでいたのだろうと、 あらためて想像をめぐらせている。
そのころまでは、 東京の町中でも、 ひと目で南方帰りとわかる、 独特の格好をした男の大人たちがけっこうたくさん闊歩していたことも、 思い出す。 真っ白な開襟シャツの襟を外に出し、 半袖の麻の上着をきちんと身につけ、 同じ生地の半ズボンを穿いている。 麻の生地の色はややクリームがかった白だ。 足には長い厚手のニットのソックスを、 ガーターで吊って穿いている。 これも目の覚めるような白だ。 おまけに靴も白いエナメルや白なめしのメッシュの編み上げだ。
ひときわ目立つのが、 頭の白いヘルメット。 軽量の固い成型素材を真っ白な布地が覆っており、 防暑効果に優れている。 あっ、 本で見たアフリカ探検のリビングストンみたいだ、 と思ったものだ。 太平洋戦争が始まる1941年12月8日前まで、 大東亜共栄圏というスローガンが声高に叫ばれるようになる前は、 そのような夏の光景は、 町のなか、 電車のなかで、 ありふれたものだった。 庶民の暮らしのなかで、 南方はそんなに遠い存在ではなかった。
しかし、 戦争が始まると、 途端にそれらは姿を消した。 代わってみんなが着るようになったのが、 陸軍の軍服とほとんど同色のカーキの国民服だ。 そして、 南洋諸島には兵隊が続々と送り込まれるようになった。 作家の中島敦は、 パラオにいって半年後、 同年の12月に現地で太平洋戦争開戦に逢い、 病が重くなったため、 年明けて間もなく帰国、 開戦1年の1週間前、 33歳の若さで没する。
◆戦後になって沖縄の人たちに訪れる困難と不幸
戦争が終わったあと、 南方と沖縄の人のつながりということで忘れられないのが、 アナタハン島事件だ。 アナタハン島は、 北マリアナ諸島の中心となるサイパン島の北、 かなり遠方に位置する小島だ。 そこに敗戦後、 戦争終結を信じようとしない日本人、 男性30人と女性ひとりが7年も暮らしていた。
女性、 比嘉和子は、 止める仲間を振り切って米軍の船に接近、 一足早く1950年にアナタハン島を脱出した。 そして残った20人の男性も、 翌51年に脱出、 その全容が日本で大きく報じられると、 女性ひとりが多数の男性に囲まれていた孤島の暮らしや、 彼女をめぐって男同士の争いが生じ、 そのなかで死んだものもいた事実に好奇の眼差しが注がれ、 ひとしきりマスコミを賑わすなりゆきとなった。
53年には、 ディートリッヒ主演の映画、 『嘆きの天使』 を監督したフォン ・ スタンバーグが、 根岸明美を比嘉和子役として起用、 映画 『アナタハン』 を製作したりもした。 マスコミがアナタハンで大騒ぎしているころ、 私は新制中学の3年か高校の1年生だった。
確かに、 後の横井庄一さんのグアムからの帰国 (72年)、 小野田寛郎さんのルバング島からの生還 (73年) と比べてみても、 アナタハン島事件は猟奇的な興味を唆るニュースだった。 しかし、 大半の男どもが、 米軍のサイパン攻撃の最中、 アナタハンに逃げ込んだ兵隊や軍属だったのに対して、 比嘉和子は、 現地に根付く南洋興発の出張所で働く、 同じ沖縄出身の夫とともに、 地道に暮らしてきた住民だったのだ。
1956年、 東京外語大に入ったら、 フランス語科のクラスに、 比嘉さんという小柄な男子学生がいた。 苗字からして、 当然沖縄出身者だ。 1972年の沖縄返還まで、 まだ16年もある時代である。 聞いてみると、 沖縄出身者が多い大阪や川崎など、 国内の生地からではなく、 正真正銘沖縄本島から 「留学」 しにきたというのだから、 珍しかった。
米軍政府発給のパスポートを持ち、 日本政府からビザをもらい、 ドルを円に替えてやってきたのだ。 年齢はわれわれより三つ四つ上だった。 激しかった地上戦の記憶は当然身に沁みている。 穏やかで静かな人だった。 酒は好きで、 新宿御苑の脇にある、 沖縄出身の詩人、 山之口貘がよく訪れるという飲み屋に、 連れていってもらったことがある。 エグザイル、 今風にはディアスポラといった趣を宿す山之口貘と彼の詩を、 比嘉さんは愛していた。
卒業後、 沖縄に帰ってテレビ会社に入った比嘉さんとは、 しばらくは文通があったが、 会うことはなかった。 数年前亡くなったという話を、 最近風の便りで聞いた。 沖縄に多い比嘉という姓を見たり聞いたりすると、 比嘉和子と比嘉さんを思い出す。 そして、 あの戦争がなかったら、 沖縄や沖縄の人たちの運命は、 ずいぶん変わったものとなっていたのではないか、 と思わざるを得ないのだ。
◆戦争が潰した沖縄の可能性の大きさを今思う
比嘉和子の夫は、 戦火の接近を心配し、 アナタハン島から少し離れたパガン島に住む妹を連れてこようと、 迎えに出かけた。 だが、 サイパン攻撃が早く始まり、 戻れなかった。 和子が夫の生存を知ったのは、 帰国後だった。 夫は、 和子が死んだものと思い、 別の女性と再婚していた。
アナタハン島の南洋興発出張所には、 本土からきたと思われる独身の農園技師ひとりと比嘉夫妻、 3人だけが日本人で、 あとは40人ほどのカナカ族の島民がいるだけだった。 比嘉夫妻は技師の指導の下、 島民と一緒になって、 コブラ採集などのため、 ヤシの栽培 ・ 管理に当たっていた。
だが、 サイパンで日本軍が敗退、 敗残の軍属などが逃れてくれば、 アナタハンのカナカ島民がそこから脱出、 米軍が占領した島に移ってしまうのは当然だった。 このようななりゆきは比嘉夫妻だけの悲劇でなく、 ミクロネシア全域に広がる島々の多くの沖縄出身者が遭遇しなければならい悲劇だったのだ。
そのなかには、 国際連盟委任統治以後、 30年近くもどこかの島に住み、 2代以上も現地に馴染み、 そこを本当の故郷とするようになっていた人々もいたに相違ない。 だが、 「大東亜戦争」 という愚行が、 すべてを台無しにしてしまった。
この戦争さえなければ、 たくさんの沖縄出身者が、 独自の生活文化を保ちつつ、 さらに親和力を発揮して先住民文化とも融和、 大きな役割を果たして、 今ごろは広大なミクロネシアに、 国境を超えた独特の経済 ・ 文化圏が実現することになっていたのではないかと、 私は想像したくなる。
そう思えば思うほど、 われわれが失ったものの大きさと、 代わって生じた運命の残酷さを考えないわけにはいかない。 戦後、 子どものころから、 「真相はこうだ」 式のアメリカの実写フィルムで、 日本軍惨敗の実情を突き付けられてきた。 米軍に追い詰められたサイパンの日本人島民、 民間人がつぎつぎにバンザイ ・ クリフから投身自殺する光景は、 いやというほど見せられた。
しかし、 『沖縄戦新聞』 によれば、 日本人島民の自死は、 前にいる米軍の攻撃によってだけでなく、 後方の、 玉砕覚悟の日本軍が民間人にも退却や降伏を許さなかったことによって、 いっそう多くなった―後の沖縄地上戦における軍命による自決強制の構造がいち早く実現していた、 という。
そして、 サイパン陥落の8ヵ月後、 米軍が慶良間に上陸、 沖縄県民は 「鉄の暴風」 といわれた攻撃にさらされ、 日本軍敗退のなかで日本兵による食糧強奪 ・ 壕追い出し、 住民殺害の被害に遭い、 強制された自決の悲劇にも出逢うこととなった。
そのうえ、 敗戦の後も唯一、 米軍政府直轄の占領地とされ、 1972年まで独立を許されなかった。 また、 日本復帰が決まっても、 沖縄の巨大な米軍基地はそのまま居座り、 ベトナム戦時には、 北ベトナム爆撃基地 (B52出撃基地) としての嘉手納など、 基地のいっそうの強化が図られさえした。
普天間基地の危険の放置、 これを名護 ・ 辺野古に移し、 総合的には在沖縄の基地の再強化が推進されようとしている事態は、 戦後の沖縄の悲劇の基本構造が、 依然として変わっていないことを示している。
◆西欧モデルではない 「東アジア共同体」 を目指す
鳩山首相の構想する 「東アジア共同体」 は、 いったいどのようなものなのだろうか。 現実には、 参考にできるほどの成功した国際的な地域統合の事例としては、 欧州共同体として発足した、 今日のEU=欧州連合しかない。 アフリカ連合 (AU)、 メルコスール (南米南部共同市場) など、 その行方に興味を抱かせる事例もあるが、 現状ではまだまだ参考とはなり得ない。
しかしEUは、 加盟のどの国も、 宗教的にはユダヤ ・ キリスト教を、 文化的にはギリシャ文明に由来するヘレニズム、 ローマ帝国支配の下で発展したラテン文明、 さらにはルネッサンスの人文主義を共有、 政治的には市民革命の後に、 国民主権と民主主義に基づく国民国家をいち早く形成しており、 政治文化的な同質性が大きく、 また経済システムも似通った資本主義を実現しており、 国家連合としての統合がやりやすかった、 ということができる。
このような西欧型の近代国家の連合による地域統合方式が、 「東アジア共同体」 にすぐ応用できるかといえば、 それはなかなかむずかしい。 アジアははるかに複雑だ。 宗教、 文化、 国民統合、 統治方式、 経済体制、 これらすべてにわたって同質性が満たされ、 それらの実現水準も一定程度以上になった国にのみ加盟を許す、 というようなことになったら、 「東アジア共同体」 はいつまで経ってもできないだろう。
なかには国民や国家を形成しないまま、 異なる民族あるいは部族が単一で、 あるいは複数入り交じって生活を営んでいく地域も、 東アジアには残るかもしれない。 だが、 そうした差違を伴った多様性、 多元性を、 そのまま包摂できるものとしてつくられるべきが 「東アジア共同体」 ではないのか。 西欧モデルを超えてしまうのだ。
その際、 参考にすべきは、 国家による苛烈な侵略、 戦争の暴虐が襲う前、 南方の島々に移住した沖縄出身者が現地で異なる文化に出逢ったときにみせた、 親和姓、 柔らかい交じり合う力の発揮だ。 本土の日本人支配者は、 同化を強制しがちだった。
1930年代末になると、 それが露骨になり、 太平洋戦争が始まると、 絶対的なものとなってしまった。 沖縄の人たちの、 異なるものと進んで交じり合い、 相互に影響し合うなかから、 新しい独自な文化を創っていく力に学ぶことが、 いまこそ必要なのではないか、 と思わせられる。
琉球の人々は元来、 そのような開放性と柔軟性を持ち、 古くから朝鮮、 中国の福建 ・ 広東、 台湾、 ルソン (フィリピン)、 安南 (ベトナム)、 シャム (タイ)、 インドネシアの諸島、 そして日本との間でも、 交易で往き来する海洋民族だった。 朝日の外岡秀俊編集委員が 「沖縄400年 琉球王国がわからん!」 (10月15日朝刊 ・ 「ザ ・ コラム」) で、 沖縄県立博物館が開いた 「薩摩の琉球侵攻400年」 記念特別展を見た感想を書いていたのが、 面白かった。
そこに認められるのは、 「過酷な支配にあえいだ沖縄」 というお定まりの図ではない。 中国に臣下として朝貢する琉球王国のあり方を日本=江戸幕府も薩摩も黙認し、 琉球が中国の情報や文物を安定的に導入するのを歓迎、 琉球の帰属の二重性が沖縄文化の国際性を培ってきた、 というのだ。 外岡記者の取材はさらにつづく。
「こうした歴史が教えるのは、 沖縄が平和であるためにも、 東アジアの安定が必要だということです」 (上里賢一琉球大法文学部長)、 「みんなは今の問題として400年前を考えている。 基地問題など今の閉塞状況を破るには、 沖縄を対日、 対米との関係で考えるだけでなく、 アジア全体の文脈に置き直し、 アジアの中で沖縄の将来を考えるしかない」 (仲里効氏 ・ 映像批評家)。
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「アジアの中で沖縄の将来」 の発展が可能となる方向を追求、 その延長線上で 「東アジア共同体」 の創設と成長が現実のものとなっていくならば、 日本は、 西欧モデルによらない国際的な地域統合のモデルを生み出すうえで主導的な役割を演じ、 アフリカ連合、 メルコスール、 そのほか世界の多くの地域 ・ 国々に、 それぞれ特徴をもった共同体を平和的につくっていく希望を、 示せるのではないか、 と思う。
鳩山首相は、 ケニア人の父とアメリカ人の母を持ち、 ハワイに生まれ、 少年期をインドネシアで過ごし、 アメリカで教育を受けて社会人となり、 アメリカ初の黒人大統領となったオバマ氏に対して、 そのような 「東アジア共同体」 像を示し、 理解を求めるべきだ。 軍事力の巨大さ、 工業生産の成長力や金融支配力の大きさを軸とはせず、 そうした力の維持を目的とはしない地域統合の行き方を、 これからは目指すべきだと提唱していくのだ。 (終わり)