桂敬一/メディアウオッチ(10)/ この夏、新聞は「戦争責任」を論じ尽くしたか/ 06/08/26
桂 敬一
8月19日付の朝日・社説「戦争とメディア 競って責任を問うた夏」は、メディアの戦争責任にも言及した社説として注目される。それはまず、小泉首相在任5年間の靖国参拝が混乱を助長するばかりだった日本の戦争責任問題を、この夏多数のメディアが真正面から受け止め、競い合って独自に検証する動きをみせたことを、高く評価した。
そして、この社説は、多くの点で社論を異にする朝日と読売が、東京裁判の意義、A級戦犯の責任認識に関しては、かなり一致できる見解を共有するまでになったことを特筆、「読売新聞は検証の総括で、『軍の力がそれほど強くなかった満州事変の時点で、メディアが結束して批判していれば、その後の暴走を押しとどめる可能性はあった』と書いた。まったく同感だ」と述べ、「メディアが権力を監視し批判する使命を放棄したらどうなるか。この重い教訓を忘れないようにしたい」と言葉を結んだ。
上記引用内の読売記事部分は、同紙が昨年8月にスタートした企画「検証・戦争責任」の最終回、今年8月15日付朝刊掲載の「『昭和戦争』本紙検証最終報告」中の「総括」からの抜粋で、とくに世論形成における「新聞、報道の使命放棄」に触れた記述の一部である。この読売の悔悟と反省の弁は、朝日の満州事変勃発当時の東京・編集局長で、戦時の主要期間を通じて全社総括の主筆だった緒方竹虎が第二次大戦敗戦後に洩らした述懐と、まったく同じ感懐を示すものだ(緒方の発言は電通刊『五十人の新聞人』所収)。
朝日自身も今年は、大型企画「歴史と向き合う」を連載(4月30日「第1部」開始)、7月14日にはその「第2部 戦争責任:3」となる特集、「反省を『いま』につなぐ 見失った新聞の使命」のなかで、自紙の過誤を具体的に摘示するとともに、これを鏡にして教訓を「今」に生かすことにより責任を果たしていかねばならない、とする自覚をあらかじめ言明していた。朝日も読売も、読者の前で公然と自分の非を認め、そこから生じる責任の取り方を議論するというのは、かつてなかったことであり、両紙の関連検証特集も、そして朝日の8月19日社説も、意義あるものだったということはできるだろう。
だが、その間に、またこれ以降きょうまで、新たに生じることとなった政治的混迷や、それらに対する現実のメディアの姿勢をみるにつけ、上記の検証特集や社説は、いいことはいったが、所詮過去の過ちについて距離を置いて反省するだけのものに終わっているのではないかと、失望も感じさせる。なぜならば、現に生じつつある危機や難問に対して「メディアが結束して批判」する状況がいまだに現出しているとはいい難く、メディアの「権力を監視し批判する使命」も、あまり発揮されていない現実ばかりが目につくからだ。
8月22日水曜日、テレビ朝日の朝の情報番組「スーパーモーニング」のホスト・コメンテーター、鳥越俊太郎氏は、新聞なら自分のコラムに当たるコーナー「ちょっと待った!」で、「8月15日、小泉靖国参拝が人目を集めている最中、自民党・加藤紘一衆院議員の山形の事務所と実家が、右翼団体に属するとみられる男による放火で全焼したが、時間が悪ければ加藤議員の老母が焼き殺される危険さえあった。客観情勢からみてその背景には、首相の靖国参拝を批判したり、日中関係の修復を提唱したりする加藤議員の日ごろの言動に対する反発があったとみなすのが妥当であり、いってみればこれはもう『政治テロ』だ。このような行為には、政治家自身が率先声をあげ、政治的自由を守っていかなければならないが、おかしなことにそうした声が政界からあがってこないところに、問題がある。とくに小泉首相は日ごろから『テロには屈しない』と繰り返し、ブッシュ大統領の対テロ戦争に協力してきた。安部官房長官も同じだ。しかし、足元で『政治テロ』が起こったというのに、これに対してはなにもいっていない。こういうときこそ、メディアが政治家の沈黙を批判し、テロの暴挙を許さない状況をつくり出していくべきではないか」とする趣旨のコメントを述べた。同感だ。
これに付け加えるとしたら、そうした批判を全メディアが結束してやれるかどうかも、重要な問題になっていると、私は考えたい。ことは単に言論・表現の封殺を企図する次元を超え、「政治テロ」、特定の政治家やその行動を直接的な暴力で圧殺しようとするテロへと進んでしまっているのだ。「政治テロ」は当然、言論・表現の自由など一顧だにしない。全メディアの一致した結束が求められるゆえんだ。
具体的に手元の新聞各紙に即して、加藤邸放火事件に関する社説をチェックしてみよう。8月17日には朝日(加藤氏宅放火 政治テロを許さない)、産経(許されない言論へのテロ)、東京新聞(許されない「言論封じ」)が、18日には毎日(言論封じる風潮を憂う)、日経(政治・言論活動の封殺狙うテロを許すな)が、それぞれ社説を掲げた。もちろん北海道新聞(18日。許されぬ言論への暴力)にみるように、多くの地方紙も18日までには暴力、テロを許さないとする社説を掲げた。ところが、そのなかで読売だけがこの事件に触れた社説を掲載していないのだ(8月24日現在)。戦争責任検証特集の総括で「メディアが結束して批判していれば」とした反省は、やはり過去についてだけのことだったのか。そして読売は、「アフガン支援 テロ特措法は延長が必要だ」(8月20日社説)と、同法の恒久化まで含めたアメリカの対テロ戦への協力を、強く主張するのだ。
読売を除く、ほかのメディア全部の足並みはそろったのだろうか。いや、これもそうとはいえないようだ。放火犯と目される、右翼団体に属するとされた男についての情報は、できるだけ早く、また正確かつ詳細に、私たちに広く報じられる必要がある。犯罪に手を染めるような団体は、はっきり世間の批判にさらして、これに対する警戒心を社会に喚起し、それによって彼らの盲動を未然に封じ込めていく必要があるからだ。そのためには当の右翼団体とみなされた組織の名称、放火犯の氏名、彼らの具体的な政治的および社会的行動の実態や特徴などを、躊躇せず報じていく必要がある。ところが、8月19日に読売、日経(どちらも朝刊)が、その団体を「大日本同胞社」と報じたのを例外とし、ほかはどの新聞もこの団体名を紙面に出していない(8月24日現在)。警察は18日、この団体の事務所2個所の家宅捜査を行っている。その警察発表の記事はほかの新聞も載せた。当然これらは団体名を知っているはずだ。なぜそれを報じないのだろうか。
こうした足並みの乱れ―ほかからの同調がないために少数のメディアの行動が突出してみえてしまう状況は、暴力的な威圧にものをいわせようとする輩に、介入と分断を許す隙を与えてしまうおそれがある。メディアの報道にあいまいなところがあり、その結果、薄暗がりのなかに隠れていられるものは、そこから生じる不気味さや恐怖を威嚇の武器とし、孤立したまま自分に敵対するもの、不用意に振る舞うものをターゲットと定め、見せしめのために攻撃を加える。そのようなことを許さないためにも、この場合は一致結束したメディア・スクラムが必要だというべきだろう。だが実際には、そうした協力体制を機敏に築きあげ、維持していく力も経験も、残念ながら日本の報道界は大きく欠いているのが実情だ。7月20日、日経の富田元宮内庁長官メモのスクープは、昭和天皇のA級戦犯靖国合祀に対する強烈な反発を伝えて衝撃的だった。翌21日、日経社屋入口に火炎瓶が投じられた。これに対して社説で批判の声をあげたのは朝日1紙だけだった(22日社説。日経に火炎瓶 言論への暴力を許すな)。注目されるのは、国際的なジャーナリストNGO、「国境なき記者団」(本部パリ)が21日、「われわれは捜査を注視していく」「靖国神社に関する昭和天皇の見解についてのスクープと関連している可能性がある。政府には犯人を特定する責務がある」という声明を内外に発したことだ。本来なら、日本の報道界こそ、そうした大きな動きをつくり出す主導的な役割を果たすべきなのではないか。
国際社会のなかで戦争責任を日本人が自ら解明するために力を尽くし、さらにその作業を通じて新たな課題が浮上、それらが引きつづき戦後責任を日本に問うものとなる場合は、その解決をも主体的に引き受けることによってはじめて、日本は堂々と国際社会に名誉ある地位を求めていける存在となるはずだ。メディアの言論・表現の自由を求める主張の正当性は、そのような方向を目指す活動をたゆまずつづけていくことを源泉とし、そこから生まれてくるものである。その意味では、メディアによる戦争責任の検証作業は、実に大きな意義を担うものだということができる。
8月13日、読売は、過去1年間の「戦争責任検証委員会」(社内組織)の検討作業の結果、満州事変から終戦までの14年にわたった戦争を、これからは「昭和戦争」と呼びならわすことが適当であると判断、その呼称を同日の特集紙面(「検証・戦争責任」の総括。その第1回をこの日、第2回を15日に掲載)から用いる、とする社告を発表した。「大東亜戦争」「太平洋戦争」「十五年戦争」「アジア・太平洋戦争」「第二次世界大戦」などの呼称は、特定のイデオロギーを感じさせたり、戦争の期間や地域を考えるとそぐわないものもある。「あの戦争」「先の大戦」と呼ぶのはあいまいすぎる。昭和の初期から全体のおよそ4分の1を占める、もはや歴史となりつつある時代の戦争、昭和時代に起きた戦争という意味で、元号の「昭和」を冠した呼称だ、というのが命名理由だ。
読売のその狙いがどこにあるのかはよくわからない。読売の紙面における用語の変更というだけのことなのか、学界に提言し、歴史研究書・教科書のなかでの記述変更も求めていこうというものなのか、あるいは政府・議会など公用文書におけるこの呼称の採択を促そうとするものなのか、まったくわからない。だが、1000万という巨大部数を擁する新聞が「昭和戦争」なる呼称を用いつづければ、やがて多くの日本人が「あの戦争」を「昭和戦争」と自然に呼ぶようになり、それに伴い、その名が惹起する独自のイメージや理解を思い浮かべるようになる可能性があることは、間違いない。その点を私たちはどう考えたらいいのだろうか。
私個人の意見を結論的にいえば、「昭和戦争」の呼称の採用には抵抗がある。むしろ反対しなければならないと考える。第1に、この呼称は、日本人の「あの戦争」に対する愛憎、感傷、歴史的心象に密着し過ぎており、「あの戦争」をめぐる多くの問題を、すべてドメスチックな世界、日本人が日本の歴史を考える関心のなかに回収していってしまうおそれがある、と考えられるからだ。「あの戦争」は、当時敵となった国々および日本による侵略などの被害を蒙った国や地域に住む人たちを疎外するような名称で呼ばれるべきではない―彼らとともに呼べる名称をこそつけるべきだ、とするのが私の意見だ。第2として、敗戦までの20年と、敗戦から昭和天皇病没までの43年とを比べれば、前者だけで昭和全部を名乗ってしまうのは、小さい魚が自分よりずっとでかい魚を呑み込もうとするようなもので、とても無理があるといわざるをえない。後者の43年間は、明らかに戦後日本の期間であり、それは、戦争と訣別した画期をなす時代、新憲法下、平和と民主主義の時代と称すべきものである。この部分の時代はなきがごとくに扱い、昭和の時代を「昭和戦争」でイメージさせて平成における改憲を成就、アメリカとともにたたかう「平成戦争」の時代につなげていくとしたら、日本の近代史における平和と国民主権の憲法時代の国民的記憶は、跡形もなく抹殺されてしまいかねない。そんなことはとても許せるものではない。
昭和の戦争の諸要因は、それ以前の戦争の遺伝子をも受け継いでおり、また平和と民主主義の時代となっても、そのマイナスが克服しきれず、改憲への動きや、アメリカに対する従属を深めながらの日本自前の再武装強化などの政治・軍事プロセスに潜入、その行き着く先で新しい戦争体制を招来する危険な要素として、今日においてもしぶとく命脈を保っている。その連続性を一方的に断ち切れるかにみせる「昭和戦争」の戦争観には、絶対に同意できない。メディアの戦争責任の検証は、戦争のもつこうした矛盾した連続性、過去から現在を経、未来に向かってつづいていくその全体を視野に入れ、行われるものでなければならない。「メディアが結束して批判して」いくべき戦争、メディアの「権力を監視し批判する使命」がその矛先を向けるべき戦争は、そういうものであるはずなのだ。そして、そのような検証を行うためのメディアの自由な議論に対するテロの妨害は、絶対に許してはならない。そのためにもメディアの結束がいま、きわめて重要になっているといわなければならない。報道界が大きな自由な議論の発展を追求していこうとするとき、もし読売が「昭和戦争」の考え方に固執するなら、それはメディアの結束を動揺させる危険な要因となるおそれがある。今後はこの点をめぐる状況の推移も、注意深く眺めていく必要がある。
(終わり)