日本ジャーナリスト会議会員 桂 敬 一
このところの大きいニュースは、伝えるメディアが本当に重要な問題点を的確に把握できていないのではないかと、疑問を抱かせるものが多い。いったいこれはどうしたことか。あるいは、そう思うこちらがピント呆けなのか。
第一は、全国の高校に広がる「世界史」未履修問題。学校・教師が、大学入試で問題の多く出る日本史・地理に授業科目を絞り、必修の世界史を未履修のままに放置したため、今年は、全国いたるところで高校3年生の卒業が危なくなる、というニュースだ。その一番大事なポイントはなんだろうか。卒業のための救済をどうするか、いやルールどおり履修を課すべきだ、というようなことか。受験偏重の競争主義の弊害が問題なのか。文部科学省主導の解決が正しいのか、自治体主導の教育委員会運営に切り替えていくべきなのか、といったことが問題か。
もちろんそういった問題も重要であろう。いずれ妥当な改善策が講じられなければならない。しかし、私にはもっと重要な問題があるように思えてならない。報道によれば、もうこのような事態は数年以上つづいてきたことで、私立校では当たり前、公立校でも圧倒的多数の高校、しかも受験校と目される優秀な高校ほど、すでに長年月にわたって若者は世界史を教えられてこなかった、というのだ。こちらのほうがよほど重大な問題なのではないかと、私には思える。
歴史認識、教科書問題、歴史教育のあり方が議論になるとき、若者たちが高校で日本史を、近代は明治維新までは習うが、現代史を十分には習わず、とくに第2次大戦以降はほとんど教わらない、ということがつねに問題とされてきた。これに加えて今度は、日本の若者が学校でまともに世界史を習ってこなかったし、そういう状況を大人たちが率先つくり出してきたという実態が、はしなくも暴露されたのだ。これほど由々しい問題はないというべきではないか。しかし、これでようやく腑に落ちることもある。最近の若者がどうして世界の出来事に関心を向けなくなり、日本のなかのこと、身の回りのことにしか興味を示さないようになってきたかのわけが、情けないが、わかるような気がするのだ。
話は変わる。小泉前首相が発案、創始した首相個人のメールマガジンが、安倍内閣でも引き継がれている。今度は「内閣メール」という色合いだが、冒頭が首相の個人メッセージ、「こんにちは、安倍晋三です」で始まる形式は、前首相のときと同様だ。その第3号、10月26日付のこのトップ・テーマは「教育」だが、それは、「明日10月27日は、私の郷里が生んだ偉人、尊敬する吉田松陰先生の命日です」に始まり、彼が刑死の前日に詠んだ辞世の句を掲げ、「ここに込められた気概には圧倒されます」とつなぎ、高杉晋作など明治維新の志士を生んだ松陰の教育者としての事績に触れ、「ちなみに、私の名前『晋三』は、高杉晋作に由来しています」と結ぶ文章を枕に、首相が教育再生会議の課題など、当面の教育政策の抱負を披瀝するものだった。
こういうアナクロな感覚で教育再生を主導しようとするこの首相こそ、学校で世界史を習わず、日本史も明治維新までしか習わなかった若者のはしりではないか。しかも彼は、その無知を恥じるどころか、厚かましくも自分の無知に悪乗りし、戦後政治の大筋を正統的な歴史と理解することを否定、「満州国」建国の功労者の一人に数えられ、60年日米安保条約締結の強引な推進者ともなったおじいちゃん、岸信介元首相の政治理念や政治手法に深く傾倒、そちらにつながる方向に、戦後この方の政治の流れを転換させていきたいとする考え方を、隠さない。
1954年に生まれ、93年、弱冠39歳で衆院議員になった首相は、新しい世界史的枠組みのなかで日本の戦後政治が生まれた意義についての無知を、恥じる風もない。それどころか、占領時代のことなど知らない世代として生まれ、事実知らないのだから、自分の知らない時代については責任は負えないし、知らない分だけ自由に振舞える資格が生じる、といって憚らないお坊ちゃんだ。さしづめ「無知は自由なり」といった感じだ。だれもが教わらなければならないとされる歴史は知らなくても、その代わり彼には、故郷の先輩、松陰先生とか、自慢のおじいちゃん、親父から受け継いだ事務所や支持者がある。そこに含まれている自分に役に立つ歴史的エッセンスだけあれば、ほかのことは用はない。日本の現代史や世界史を知らなくたって、気後れが生じるわけがないのだ。
しかし、一般の若者―故郷の先輩、松陰先生とか、自慢のおじいちゃんとかいったものをもっていない普通の高校生たちは、どうやってこのような国家指導者に太刀打ちできる存在となれるのだろうか。世界史をしっかり習い、国民を日本だけに閉じ込めようとする、無知がもたらす暗黒と恐怖の政治を打破できる力を身に付けることによってはじめて、それは可能となるのではないか。だが、世界史が教えられていない。そのことこそ、なににもまして大問題なのではないか。
二つ目のニュースとしては、福岡の中学2年生、男子生徒のいじめ自殺事件が挙げられる。これについても、問題点はこれだあれだとする議論が、新聞・テレビ・週刊誌を大いににぎわせた。だが、死んだ生徒の自宅に弔問にきた担任教師を父親が問い詰めていったところ、その教師が「(自殺した生徒が)からかいやすいということはあった」と述べたところに、一番重要な問題点があるように、私には思える。この発言に対して父親は激昂、「なんだ。からかいやすいから、からかったというのか。それじゃ子どものレベルと同じじゃないか」と叫んだ。教師はなぜこのように子どものレベルにまで、自他の区別もできずに降りていってしまったのだろうか。こうした教育力の劣化が生じる原因の根は、実は深い地層のなかに埋もれているのではないかと、私は考える。メディアはもっとその辺りを追及していくべきではないのか。
旧帝国日本陸軍内務班では、将校が下士官をいじめると、下士官は古兵をいじめ、古兵は新兵をいじめ、新兵同士は、仲間のなかのいじめやすいものをみつけて標的にし、いじめにかかる、とよくいわれたものだ。ところが、学校という世界も、勤務評定、教育委員会の任命制、教頭の管理職化、学校評価制、日の丸・君が代強制などの流れのなかで、教員が上位の管理権限者にはものがいいにくくなり、階層化された陰湿な支配が下に向かって波及・再生されていく、旧陸軍内務班のなかと似たような状況になってきた感じがする。学校では最後にいじめられるのが学童・生徒で、子どもたちのあいだでさらにいじめられやすい標的がつくられていく。
先生たちが生徒をいじめたい、あるいは彼らのあいだにいじめのタネを撒きたいなどと、意識して思うわけはない。むしろ逆であり、多くは生徒の人気を博してクラス運営に成功し、教師としてポイントを稼ぎたいと考えている。本来ならそのためのエネルギーは、同僚との語らい、自主的な研修、自発的な授業の改善に振り向けられ、上に向かっても必要に応じて自由に意見を述べる、という努力に振り向けられるべきものであろう。そうした努力によってこそ、生徒やその親たちの信頼をかち得ることができ、生徒たちから本当の人気も獲得できることになるはずだからだ。
ところが、そうした方向で意見がいいにくくなっている環境のなかでは、教師は別の方法で、手っ取り早く生徒の人気を取ろうとする。子どもの世界のはやりのギャグ、省略語法を覚え、タメ口で話ができるように努め、いかにも話のわかる先生であるかのように振る舞おうとする。生徒からダチ仲間の兄貴分のように接してもらえればしめたものだ。
しかし、クラスで教師が権力者であることにはなんの変わりもない。ところが、そうしたやり方が、話のわかる先生の磊落さとして生徒の喝采を浴びているうちに、それが権力者に対する生徒の迎合でもあることに気づけなくなり、いつのまにか本当の人気をかち得たかのような錯覚に陥り、教師としての役割を見失い、子どものレベルまで降りていってしまう。先生が生徒のだれかに向けた不用意な冗談がクラスで受け、それが結果的にその生徒にとっていじめとして作用するものになっても、その重大性に気づけないということは、大いにあり得るものなのだ。
そして、このニュースにはもう一つ、大きな問題がある。どのメディアも、重要な事実を正確に伝えていなかったという問題だ。私は毎日、新聞6紙、毎週、週刊誌2誌に目を通している。テレビのニュース、情報番組も、毎日そこそこみている。ところが、どのメディアも、男子生徒を自殺に追いやることになった最初のきっかけは、級友が彼に付けたアダ名だ、とまで報じたのに、そのアダ名がなんというものなのかは、ついに報じなかったのだ。それはずっと疑問のまま残されている。
あるとき、自殺した生徒の母親は、友達付き合いが少なくなった息子が部屋でインターネットに長時間向かうなど、独りでいることが多くなったのを心配し、そうした状況を担任のところにいって話し、学校での様子もたずねて、どうしたものかと相談したことがあった。ところがその後、担任教師はこの相談のことをクラスのなかで、息子がアダルト・サイトをみていたと親が心配していた、という風にばらしたため、それをネタに問題のアダ名が級友によって彼につけられることになった―これが彼を一番苦しめる原因になった、というのが、どのメディアも共通して報じたことだった。またこの担任は、直接彼を「偽善者」と呼ぶことがあったとも、どのメディアも報じていた。
これらの報道は、メディアによっては、まるで死んだ生徒がアダルト・サイトをみていたかのように誤解させる伝え方になっているものもあった。だが、母親は単に息子がインターネットに長時間向かっていることを一つの心配として相談したに過ぎないのであって、その範囲を超え、この生徒がアダルト・サイトに耽溺しているかのようにクラスに話したのは、故意か過失かは不明だが、相談を受けた担任の仕業だった、という事実関係が、いくつものメディアの報道を比べた結果から、判明している。ところが、どうにもはっきりしないのがアダ名だった。「偽善者」というアダ名は、アダルト・サイト浸りという悪口、あるいは嘲弄からは出てくるものではない。私はある記者に直接この点をただし、そのアダ名が「エロ」というものだったことを、ようやく教えてもらった。
中学2年の生徒に付けられたアダ名が「エロ」とは気の毒で伝えるのが憚られたというのが、大方のメディアの考え方、姿勢のようだったが、そういう中途半端なおもんばかりのほうこそ、しばしば悪い結果を招くことが多い。幼さを残した生徒たちが、無邪気であるがゆえに、かえって無自覚に残酷な仕打ちに及ぶこととなる現実は、世間にありのまま知らせなければならない。そのためにも、このアダ名の事実は報じられるべきものではなかったか。そこを曖昧にしたためにかえって一部メディアは、死んだ少年がアダルト・サイトを利用していたかのような誤解を招いてしまった。それらのことをすべて具体的に、また正確を期して明らかにし、そのうえで亡くなった少年の汚名をそそぎ、名誉回復を図るべきではなかったか。
また、生徒たちが陥っているこのような全体的な混沌とした状況、教師もそこにはまり込んでしまっている問題は、もう学校任せ、学校だけで解決できるものではなくなっているのではないだろうか。子どもがアダルト・ビデオ、アダルト・サイトに接するような問題についても、常識を備えた健全な大人なら、それは自分たちが過去、思春期に経験したことと同じような性格の問題であり、ある時期の通過儀礼に過ぎないものであって、人生の大きな瑕疵になるような出来事ではないと、学校に世間の風を吹き込んでやることができるはずだ。さらには、いじめから自殺への、あまりにも短絡した子どもたちの死の繰り返しに対しても、いじめは死に値するほどのものではないこと―文字どおり「死んだ気になれば」、人生なんでもやれることを、子どもたちにメッセージとして伝えていけるはずである。そういう役割を果たすことが、いまメディアに求められているのではないか。
いずれにせよ、上からの管理を強め、教育現場を世間の風から隔離し、教員も生徒もうちだけに閉じ込めていくような安倍内閣流のやり方では、事態と問題をいっそうこじらせるだけであることは明白だ。
三つ目は、代理出産のニュース。タレント向井亜紀・プロレスラー高田延彦夫妻が他人に代理母を求めたケースではない。実の娘の受精卵を高齢の実母が自分の腹に預かり、出産したニュースだ。この話題を伝えるメディアの目配りも、なにかが足りない。
父が孫を得るのに、自分の妻と実の娘夫婦との三者の肉体を借りたのがこのケース。同時にそれは、夫が子どもを得るのに、自分の妻とその母親=義母との肉体を借りることにもなったというところに、このニュースの大きな特徴がある。実に気持ちが悪い。だがそう思うほうが、生命倫理、遺伝学、優生学からいって、健全なはずだ。
また、自分という存在、自分の子・孫、自分の家族はすべて自分の所有に帰するもの、自分、自分たちで全部取り扱って当然とするような考え方には、人間存在の社会的な世代交代という意識がおよそ欠落している。子どものないカップルとして生きていく。養子、里子を考える。そういう行動がなぜ生じなかったのか。ここにも世界史を習わないことに由来する日本人固有の人間観、精神風土の弱点が、顔をのぞかせているように思える。
最後に、核実験に対する国連安保理の満場一致による制裁決議を背に、独り胸を張って退席する、北朝鮮の国連代表の姿をみているうちに襲われた既視感に、触れておきたい。1933年、満州国への干渉を止め、その主権を中国に返還するよう日本に命じた勧告を42対1で採択した国際連盟に対して、その受理を拒否、総会会場から退席する松岡洋右首席代表の姿を思い出したのだ。ついに日本が日中戦争・太平洋戦争に突き進む道が決まった。これに先立つ32年12月19日には、日本中の新聞・通信社132社が、日本の満州国独立支援政策を支持、これを妨げる国際連盟の解決策はいかなるものもこれを「日本言論機関の名に於て」拒否する、とする連名の「共同声明」をそれぞれ紙上に発表した。北朝鮮のテレビで核実験成功のニュースを誇り高く伝える、民族服姿の女性アナウンサーがみせた大げさな身振りや言い回しは、つい70年ほど前、日本にもあったわけだ。
メディアも世界史を学び、その展望のもとで、いまの自分のあり方、役割を見直す必要がありはしないか。世界史も現代史も学ばない日本はどんどん自閉に向かっていく。安倍首相はその象徴、そっちに向かう牽引役としてはうってつけの存在だ。しかし、それではもうどうしようもないのが、現在の日本ではないか。
(終わり)