桂敬一/メディアウオッチ(14)/ みんなが望む「戦争への道」ができていくのか―メディアの責任を問う2006年12月15日― /07/01/01

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 みんなが望む「戦争への道」ができていくのか
―メディアの責任を問う2006年12月15日―

日本ジャーナリスト会議会員 /桂  敬 一

 ◆やればできることをやらなかったメディア
 

 本間正明政府税制調査会長(大阪大学教授)が、妻との同居名義で東京都心のデラックス公務員宿舎の貸与を受け、実は愛人と同棲していたというスキャンダルは、『週刊ポスト』(12月22日号)の暴露報道のあと、新聞・テレビもこれを政界ゴシップに仕立て上げ、彼の会長辞任まで続報をにぎやかに展開した。本間会長は税調の初回会合から、明年度税制は企業減税と庶民増税の2本柱でいくとする基本方針をうち出した人物なので、メディアはもっとこっちを本格的に批判すべきだったといえるのだが、とにもかくにも今回は、本間氏を辞任に追い込むうえでメディアが有効な役割を演じたとはいえる。やる気になればなにかはできるという証拠を、メディアは一応残したわけだ。
 だから腹立たしいのだ。与党が11月15日、衆院教育基本法特別委員会で改正教育基本法案の単独可決を強行、その後も世間の反対や疑問の声を無視、ついに12月15日、参院本会議において同法案の採決に踏み切るまで、メディアは、賛否いずれの態度を取るかにかかわらず、この問題をどれだけ報じたり論じたりしてきただろうか。国会ではまともな討論がまったく行われていなかった。この間、そういう状況に切り込む鋭い報道や論評を、大きな新聞やテレビが縦横に行ってきたかといえば、そうしたメディアの働きがほとんど感じられないのが実情だった。だから参院の与党採決も、やすやすと許してしまったのではないか。与党はメディアの抵抗のもろさを見透かし、かさにかかって防衛省昇格法案まで成立させた。

 ◆教育における「不当な支配」の意味が逆転された
 

 教育基本法「改正」・防衛省実現と比べれば、本間スキャンダルなどハナクソに等しい。本間氏が税調会長を辞めても、代わりはいくらでもいる。その程度の問題だ。一方、教育基本法が消滅させられ、代わりに似て非なるものがつくられたら、また防衛「庁」が「省」に変わったら、戦後民主政治はそこで断ち切られるおそれがある。そこから先は、国民たるもの、国のやることを一義的に尊重させられ、国が戦争を必要とすれば、その方針に服するしかないことになっていく。政治のあり方が完全に変わるのだ。重大な問題点を具体的に検討してみよう。
 まず教育基本法だが、新法は、旧法にはなかった「我が国と郷土を愛する・・・態度を養うこと」を、新たに目標として定め、事実上、愛国心教育を学校に義務として課し、さらにこの目標を家庭における教育にまで広げ得る立法的な措置を講じた(第10条「家庭教育」を新設)。メディアは、いわゆる愛国心教育の是非については比較的よく報じてきたが、今回のこのなりゆきが、すでに日の丸・君が代問題で深刻な動揺を経験させられてきた学校の教育現場に、今後さらにどんな影響を及ぼすことになりそうか、もっと真剣な考察を加え、議論を尽くすべきではなかったか。 
  見逃せないのが、行政と「不当な支配」の問題だ。旧法第10条(教育行政)は、「国民全体」は行政による教育に対する「不当な支配」があった場合、その排除を正当に求めていくことができる、と読める法文の書き方になっていた。だから今年9月、東京地裁はこれを根拠に、都教委が国の学習指導要領を楯に日の丸掲揚・君が代斉唱を強要したこと、違背者を処分したことを、「不当な支配」に当たるとし、処分の禁止を命じたのだ。ところが新法第16条(教育行政)では、これが完全に逆転する。すなわち法文が、行政は責任をもって「不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより」教育が行われるように努め、必要な権限を行使する、と読むべき書き方に変わったからだ。参院教育基本法特別委員会(11月22日)で伊吹文明文部科学相は、新法第16条の「不当な支配」とは、たとえば日の丸・君が代に反対してきた日教組などがこれに該当し得るとする意味のことを、示唆した。
 これほど露骨な民主主義のベクトルの逆転を企むとは、呆れるばかりだ。さすがに朝日や毎日はこの点に触れ、批判や疑問を紙面で明らかにした。だが、それはまだわかりにくいものに留まっていた。他の新聞・テレビでは、報じも論じもしなかったところが多い。これでは読者・視聴者の大半は、いまなにが起こり、日本がどう変わろうとしているのか、わかるわけがない。

 ◆防衛「省」のカゲに隠れた自衛隊法「改正」の重大性
 

 もっと深刻なのが防衛省昇格法の実現だ。「庁」を「省」にした外見上の変化の裏で、自衛隊法をさりげなく「改正」した点が見落とせない。改正前の同法3条(自衛隊の任務)は、専守防衛を建前とする枠組みのもと、「我が国の防衛」=本土防衛のみが本来任務とされていたが、改正法3条では新たに第2項が付け加えられ、そのなかで「周辺事態への協力」「国際平和協力活動」も、本来任務と法的に定められたからだ。
 これによって、1991年の湾岸戦争以降のPKO(国連平和維持活動)に始まり、2001年のアフガニスタン戦争への協力(テロ特措法による米欧軍への兵站支援)、2003年のイラク戦争協力(イラク特措法による米軍支援のための現地活動)にまで広がったこれまでのすべての自衛隊の海外活動が、本来任務とされることになった。またそれだけに留まらず、今後の在日米軍再編に伴う自衛隊の協力体制の拡大が、日米相互防衛の軍事的負担をますます大きく日本に課すことになるので、その部分の自衛隊の軍事的役割も、本来任務とされることになる可能性が大きい。太平洋地域における米軍戦略司令の機能がグァムに統合されつつある。またアメリカは、自国に向かうミサイルまで日本上空で迎撃できるミサイル防衛(MD)の体制整備を、同盟国・日本に求めている。
 このような体制の実現とその恒久的な維持、それに伴う自衛隊戦力の増強や兵員の危険負担の増大は、到底現行憲法の許容する限度には収まりきれない。たしかに「戦力の保持」「交戦権の行使」を禁じた憲法9条2項も、狭義の自衛権の保持と発動は認めているといえるかもしれない。だが、改正自衛隊法が新たに自衛隊の本来任務と定めた内容は、その範囲・程度をはるかに大きく逸脱するものとなっていかざるを得ない性格のものだ。
 こういうことこそ、「郵政民営化」是か非かの1点だけで「9・11総選挙」をやった小泉前首相のひそみに倣い、最初にわかりやすく憲法9条2項を変えるか否かだけで総選挙をやって国民の意向を確かめ、その後にやるべきものではないか。そういう手順を踏まず、こっそり国民をだまして憲法的体制を先に空洞化させておき、ついで現実に合わなくなったから憲法を変えるという話にもっていくのは、実に卑劣なやり方だ。憲法が現実に合わなくなったのではない。先に現実を憲法と合わないものにしてしまうのが、政府・与党のやり方ではないか。メディアはそのことにまず大いに怒るべきなのに、読売・産経のような改憲派メディアは、なにごとも先に改憲ありきだから、怒るわけがない。そして護憲派だったメディアが、だんだん怒る気力を失っている。

 ◆12月15日の「歴史的意味」は明確にされたか
 

 教育基本法・防衛省問題の参院審議が大詰めに向かった段階で、「教育基本法の改悪をとめよう!全国連絡会」(呼びかけ人:大内裕和、小森陽一、高橋哲哉、三宅晶子の各氏)や日教組や全労連などの団体が国会周辺で熱心に悪法阻止のための集会やデモなどの運動を続けていたが、なかなか参加することができなかった。在京の大きなメディアの報道では、これらの反対運動のニュースはまったくといっていいほど知ることができなかった。ネット・サイトやしんぶん赤旗が有力な情報源だった。あとは都心に出て霞が関・日比谷公園に出たとき、集会やデモに出会わせることがあった。全国紙と比べれば地方紙は、地元の反対運動をよく報じていた。
 12月15日午後2時半ごろ、新橋―日比谷野外音楽堂前―霞ヶ関界隈を経て、国会周辺の反対運動のようすを見に出かけた。参院議員会館前には座り込みなどの人たちがいてやや活気があったが、全体としては、大きな盛り上がりがあったとはいいがたい雰囲気だった。各地からの教員職組の人たちとその交流労組の人たち、各種の学生団体、日本山妙法寺の僧侶の方たちなどが目立った。「全国連絡会」は午後6時からの集会を呼びかけていた。この日の夕方、参院本会議で改正教育基本法案が成立した。一部の新聞は国会周辺での抗議集会の模様を、翌朝報道した。
 翌16日の各新聞は、さすがに教育・防衛2法案の成立を歴史的出来事として報じ、ここから戦後の新しい歴史的変化が始まる、とする観点をそろってうち出した。社説の見出しを瞥見してみよう。
 朝日「教育と防衛 『戦後』がまた変わった」、毎日「新教育基本法 これで『幕』にしてはいけない」、読売「教育基本法改正 さらなる国民的論議の契機に」、日経「改正教育基本法をどう受け止めるか」「『防衛省』の中身が重要だ」、産経「教育基本法改正 『脱戦後』へ大きな一歩だ」、東京「行く先は未来か過去か 教育基本法59年ぶり改定」、北海道「隅へ押しやられる『自由』 改正教育基本法が成立」。
 これら各紙の論調全体を顧みるとき、読売・産経については、戦後からの絶縁と改憲を早くから目指してきた自分たちの姿勢について先見性を誇る色合いが濃く表れていた。これに対して朝日・毎日は、戦後民主主義の行方を危惧するものの、あくまでも護憲によってそれを守っていこうとする決意が不明確であり、これでは反対運動に結集する市民を激励する迫力は持てない、といわざるを得ない感じだ。東京、北海道のほうがよほど強い危機意識を現していた。残念ながら新聞がこれでは、参院採決の日の国会周辺が寂しくても、それはやむを得ないことだったのだ、と思うほかない。

 ◆みんなが求めれば「戦争への道」ができていく
 

 構造化した格差社会がこのまま「平和な社会」としてつづいていくのなら、自分は一生その底辺から脱出することはできない。しかし、このような社会が、戦争で崩壊し、流動化してくれれば、自分にも流れのうえに浮かび上がるチャンスが訪れてくるかもしれない。もう希望は戦争に求めるしかない―31歳のフリーターが月刊誌にこう書いているのを読んで、ショックだった(赤木智弘「『丸山眞男』をひっぱたきたい」、朝日新聞社『論座』07年1月号)。一方、格差社会でエリートとしてのステータスにありつけた若者は、財界が主導するグローバリズムや自由主義に異を唱えるはずがなく、企業減税・庶民負担増大の経済政策を選択する安倍内閣を、当然支持するはずだ。この政権は9条改廃を眼目とする改憲を公然と標榜しており、そうなると、エリートを自認する若者だって、戦争への道を厭わないことになる。
 次代を担う若者みんながそろって戦争を求めるようになると、彼らの希望に沿って、世間の流れ全体もやがてそちらへと、自然に向かい、進んでいくことになるのだろうか。それはもうしょうがないことなのだろうか。今度の臨時国会で、平和憲法と両輪の関係で戦後民主主義の軌道をかたちづくってきた元の教育基本法が廃絶され、同時に戦争省というべき防衛省がにわかに出現するのを目の当たりにすると、実際に戦争への道は着々と敷かれだしているではないかと、驚かざるを得ない。
 メディアもこの流れは、もうどうすることもできないのだろうか。あとはこの流れを大きく、早くすることを考え、その方向で読者や視聴者、観客を多数獲得し、いかに部数や視聴率、興行成績を伸ばしていくかを、メディア同士競い合うしかないのだろうか。だが、およそ70年前、同じように戦争への道ができていくのをつい見逃し、やがてその道の建設を心ならずも手伝い、さらにはその仕事にのめり込み、最後にはがんじがらめにされ、挙句に国民を塗炭の苦しみに追い込んだのは、メディアではなかったか。
 いまやメディア自身がこの窮境から率先脱することを、問われている。メディアとその営みに携わるものは、なにを考え、いかに行動すべきであろうか。
(終わり)

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