桂 敬一/JCJ会員
12月6日、政府の規制改革・民間開放推進会議、宮内義彦議長(オリックス会長)は、首相官邸で開かれた経済財政諮問会議で、今後の規制緩和政策などを報告、そのなかでNHKの分割民営化が内容となるNHK改革の検討を提起した。すると、竹中平蔵総務相も同日、これにつづいて、NHKの経営形態見直し、通信・放送の融合を踏まえた放送産業界の改革をテーマに、年内に有識者懇談会(私的懇談会)をつくると記者会見で発表、実際に12月26日、松原聡東洋大教授を座長とする「通信と放送の在り方に関する懇談会」を設置した。
この動きについて警戒しなければならないのは、一つは、政府・自民党が掌握を狙うNHKの機能・組織の部分は事実上の国営放送とし、残りの部分は民営化、それを広大なデジタル通信・放送市場に放出する、という事態が立ち現れる可能性が出てきた点だ。
そしてもう一つは、竹中総務相の、電波法、電気通信事業法、放送法、いわゆる電波3法を管掌する立場からいえば、その職務は、アメリカのタイムワーナーのようなメディア・コングロマリットの出現を、とくに放送事業の領域では絶対に許さない―放送事業を特定の資本の独占支配や特定事業者の集中支配
(多数局の所有や経営参加)に委ねることは禁止する(いわゆる放送の独占・集中排除原則を維持する)というものであるべきなのに、このような制度原理も完全に壊されるおそれが出てきた点だ。
上記の記者会見で竹中氏は、あろうことか、「日本の放送界全体の売上より大きな売上を1社で実現しているアメリカのタイムワーナーのような巨大企業が、なぜ日本にはないのか。国民が疑問に思っている」と述べ、アメリカの放送界のようになるべきだ、ということを示唆したからだ。完全な職務規律違反ではないか。
タイムワーナーは、出版、映画、CATV、衛星放送、ニュース専門放送、ネット通信・情報サービスなど、マスコミ、娯楽、通信を網羅した、巨大な複合型メディア企業であり、日本の法制上は、出現するはずがない事業形態、経営形態を備えている。(写真 HNK)
これにはさすがに日本の放送界も、それに新聞界も、ホリエモンや楽天の騒ぎのときとは違い、ある種本気で、危機感を強めることとなった。NHK、日本民間放送連盟はそろって、政府のこうした政策の追求に対して、拙速には反対するとの意向を表明した。また新聞界では、毎日(12月8日「NHK改革公共放送の原点に戻ろう」)、朝日(同23日「NHK改革 『私たちの公共放送に』」)、日経(同24日「公共放送の役割の見極めを」)が、それぞれ社説で、政府に慎重な検討を求めた。だが、これらの意思表示は、まだ危機の本質をしっかりとらえたものとはなっていないように、私には思えてならない。
竹中・宮内氏らの考え方は、小泉内閣の構造改革の本性に添ったもので、いってみれば、「官から民へ」「民でできるものは民で」を地でいくものにほかならない。要するに、公共サービスといわれる仕事も、これからはできるだけ市場に任せて、商品として売れるようなものにしていく、というわけだ。 小泉内閣の残された任期で「市場化テスト」の拡大が目玉の政策とされているゆえんでもある。
放送企業も、その後ろにいる新聞、出版企業も、自分の関係している放送事業が、通信=ネット事業にうまく結びつき、これまでになかったビジネスが開拓できて、大儲けできるといいが、というような思いを捨てきれないどころか、ますますそうした野望に焦がれるようになっている。
だが、放送事業は、そのような事業領域に自由に進出しようと思えば、代償として、これまで自分の公共性を担保してきてくれた制度条件を諦めなければならないことになる。そして、同じことがほかのメディアにも及ぶのだ。新聞・出版だって、その公共性が担保される必要があるという原理から、これまで独禁法の特例措置である法定再販の特典を受けてくることができた。しかし、例外なき完全市場化が進めば、このような非市場的で競争制限的な制度は、すべて廃絶されなければならないものとなるはずだ。新聞の場合、独禁法で不公正な競争を指定し、禁じてきた特殊指定も、株主の権利を制限してきた社内株制度も、低送第3種郵便料金制度(公選法上の選挙報道の自由が得られる資格要件指定)なども、みな廃絶されるべきだということになる公算が大きい。
マスコミ界は、小泉・竹中・宮内氏らが投じようとしているボールの大きさ、重さに、本当に気がついているのだろうか。マスコミ界は一体となって、これに反対していくべきなのではないだろうか。それも、業界エゴと取られる
ようなやり方で運動を進めるのでは逆効果だ。メディアの公共性の維持は、市民の知る権利の確保、表現の自由の拡大に不可欠な要件であり、いまそれが奪われようとしている―この危機の克服に協力を仰ぎたいと、真摯に読者・視聴者、市民に訴えていくことが急務になっているのではないか、と私は感じている。(終わり)