桂敬一/日本ジャーナリスト会議会員/メディアウオッチ(21) 「軍の命令」「軍・官憲の関与」とはこういうものだ―マスコミはまた「軍・官憲」の側に立ちだしたか―07/07/05
「軍の命令」「軍・官憲の関与」とはこういうもの
―マスコミはまた「軍・官憲」の側に立ちだしたか―
日本ジャーナリスト会議会員 桂 敬 一
1977年秋、ある地方紙の社長をエスコートし、二人だけでルーマニア、ユーゴスラビア、ハンガリー、ポーランドの東欧4か国を歴訪した。仕事はモナコで開かれた国際新聞団体の会議に出席する彼の講演のお膳立てと、現地随行だったが、東大で西洋史専攻の彼が、ついでに黒海をみたいとのたまわったのだ。
もっけの幸いと、私は自分好みの旅程をつくった。当時はまだ東西対立、冷戦時代。勤め先の新聞協会は、安全を考えて相手国の公式招待の体裁を整えろ、といったが、社長さん我が儘で、嫌だ、1ツーリストとして彼の地を経巡りたい―裸の社会主義国をこの目でみたいと、またまたのたまわった。これまた大いにけっこう。
ただ、あらかじめ各国の日本大使館に現地訪問予定を連絡、到着しだい電話を入れるので、そこでなにかあったらお世話になるからよろしくと、挨拶だけはしておいた。
各国に着くたびにまず大使館への電話連絡となったが、あるところはホテルに書記官がきてくれた。別なところではこちらが大使館に大使を訪ね、懇談などした。地方紙ではあれ、新聞社の社長ともなると、わが国政府もそれなりに気を使うんだと、感じ入った。
ところでユーゴ大使は、外務省の情報文化局長だった人物。当方もその年の春まで日本記者クラブの総務部長だったから、お互いまんざら知らない仲でもない。そうだったんですか、昼食にご招待しますからおいでなさいよ、ということになり、大使館に二人して参上した。
開口一番、「こっちにいますと、なかなか日本人には会えませんでね。どうですか、最近の日本の民間の様子は。いろいろお話をうかがいたいですな」と、大使は気さくに会話のきっかけをつくってくれた。だが、この「ミンカン」という言葉に、なにか引っかかった。その記憶が今も残っている。枕が長くなったが、今回の「ウオッチ」は、この引っかかった感じとはなんなのか、という話だ。
◆忘れもしない「軍の命令とは、畏くも・・・」のフレーズ
このときの引っかかった感じが、最近蘇えり、だんだん強くなってきたのは、第2次大戦末期の悲劇、沖縄の地上戦で、混乱に巻き込まれた住民が軍の命令で集団自決に追い込まれたと、長年信じられてきたが、そんな軍の命令はなかったとする新しい説が出てきて、教科書の中の、軍の命令による集団自決という記述が検定によって消されることになる、などの騒ぎが起こってからだ。
また、戦時中の朝鮮人などの従軍慰安婦の存在について、安倍首相が「直接的な命令や強制連行など、軍や官憲による狭義の関与はなかった」と語ってアメリカの政府・議会方面の反発に出会い、慌てて謝罪したにもかかわらず、またワシントン・ポストにある種のお歴々が、「従軍慰安婦はいなかった」などの意見広告を出し、いないものに日本の軍・官憲が関われるはずもない、と開き直ってみせ、世界中の怒りと軽蔑を買うことになってからでもある。
思い出すのは、1943年ごろから45年、敗戦の直前までの、東京の隣組のおじさん、国防婦人会のおばさんたち、縁故疎開先の田舎の部落のおじさんたちの姿だ。
1942年4月、ドゥーリットルのB25による東京初空襲があってからというもの、警防団のおじさんたちは防空演習などで忙しくなり、44年ごろともなると、これら全部の人たちが建物の強制疎開とか焼夷弾の消火訓練とか、軍人の指導による作業や訓練にも追い立てられ、なにごとも軍隊式でやらなければすまない状況になっていった。
それは、軍需工場への勤労動員に狩り出されだした中学生・女学生たちを取り囲む状況も、同様だった。こうなってくると、まだ国民学校2年生(1943年)の私にも「軍の命令」とはどういうものかは、理屈でなく、体験的に否応もなくわかるなりゆきとなった。
1944年8月、集団疎開で静岡に向けて出発する私たち子どもたちの親たちとの別れは、東急・池上線の今はなき旗が岡駅(戦後、大井町線の東洗足駅と一緒にされ、旗の台駅となる)の駅頭だった。
その日も、駅の周りでは強制疎開の民家の取り壊し作業が進められていた。(写真上 小学生の軍事教練 写真下 東條英機、学童を謁見/戦災資料館展示より抜粋)
割ぽう着にタスキがけ、もんぺ姿の婦人会のおばさんたちと、安手の国民服を着たおじさんたちを指図するのが、隣組班長や町内会役員など、軍服に似たカーキ色の上等の国民服を着たおじさんたち。
彼ら全体を監督しているのが、黒い戦闘帽を被り、襟や袖口の黒い、緑色の国民服を着、やはり黒いゲートルを巻いている、ちょっとナチスの親衛隊を連想させる服装の警防団の面々。そして、その上に立って、指導・指揮に当たっているのが少数の軍装の兵隊。
せいぜい下士官だが、みんな兵隊さんには敵わない。なにしろ彼らは「軍の命令」を体現する存在だったからだ。
明治大学の学生だったいとこ、母の二人の弟、北海道にいる父のいとこが出征していた。東京の自宅に遊びにきた彼ら、軍旗祭のとき兵営にいって会った叔父などから、軍隊生活の厳しさを教わった。
「上官の命令は、気をつけ!
畏くも天皇陛下の命令である、直れ!そのことを忘れずに、軍務に励むように」式の命令が、軍隊内では日常的にいろいろな段階の上官から発せられていることを知った。
「畏くも」は「畏れ多くも」といわれることもある。「気をつけ」は省略され、いきなり「畏くも」あるいは「畏れ多くも」とくることもある。
そのどの言葉のときも、聞いたらただちにその場に直立、不動の姿勢を取って、そこにはいない天皇陛下に敬意を表し、「直れ」で、休めの姿勢や、最初坐っていたのなら、着席の姿勢に戻る。この一連の動作の順守は絶対的なものだ。
そして、このしきたりが戦争末期には民間にもいやというほど普及する事態となっていた。
警防団や町内会・隣組の幹部を集めたところに将校がきてなにか示達し、軍の計画に協力を命ずるとき、国民学校3年生ほどの私がその場に居合わせるわけはないが、彼が「軍の命令は、畏くも、天皇陛下の命令である、直れ、地方においては戦局の厳しさが十分には理解できないであろうが、このたびの命令の達成は、現下の銃後の防護に不可欠の課題である。そのことをよく弁え、遺漏なきよう対処せよ」などといったであろうことは、容易に想像できる。そして兵隊が日常的な作業の指揮・監督にくる。予定人数が集まっていない。
作業の取り組みに熱意がみられない。すると兵隊は、「貴様ら地方人はたるんどる。軍の命令は、気をつけーえ!
畏れ多くも天皇陛下の命令であるぞ、直れっ!この仕事の重大性がわかっとらん。そんなことで戦争に勝てるか」と、町の偉いおじさん方だって平気で叱り飛ばすようになっていったのだ。この「軍の命令は天皇陛下の命令である」とする「軍の命令」が乱発される光景は、やがて子どもたちにも馴染みのものとなった。
また、教室の中、教師と学童のあいだでも、「畏れ多くも、天皇陛下におかれては・・・であり、直れ、みんなもそのことをよく理解し、大御心に添うよう努力しなさい」式の訓話が、いやというほど氾濫するようになっていった。
◆「地方人」のうかがい知れないところから出てくる命令
上記の文章中で、軍人が「地方では」とか「地方人」などの言葉を使っていたことに、とくに注意してもらいたい。それらは、「その地域、地元」とか「そこに住んでいる人たち」というような意味ではけっしてない。「地方」とは「軍・政府」(「政府・軍」ではない)を除く他のすべての社会領域を意味する概念であり言葉なのだ。
同様に「地方人」は「軍・政府」に属するものを除く、他のすべての人間を指す概念、言葉だ。この文脈では、「地方」は、中央=「軍・政府」の指導・監督がなければ戦時の時局認識もまともにはできず、事柄の軽重を弁えることも不可能で、秩序も維持できない、責任能力のもてない人々の集まる世界として捉えられている。
これに対して「軍・政府」は、自分たちだけが戦争という非常時の中、なにが真実かを見抜き、価値ある情報を選び取ることができる存在であり、「地方」に対して守るべき秩序を示し得る存在である、と自認する選良たちの世界だ。
大きな責任感の下、「地方人」を保護、唯一の国家目的=戦争の勝利を達成するためなら、どんな犠牲も厭わないとするエリートたちの世界である。そして軍隊では一兵卒にいたるまで、「貴様はもう地方人ではない。地方人のようなみっともないことはするな」とする厳しい教育を、全員が受けていた。
(写真 戦時中の朝日新聞、「行政も作戦に同じ、首相、地方官吏に訓示、適切迅速に運営せよ」という見出しが見える)
このような戦時環境の下、兵隊たちが、「地方人」保護のために彼らといっしょに行う共同行動の中で、さまざまな内容の「軍の命令」を随時発するとき、「地方人」ひとりひとりは、それらのどれが正規の「軍の命令」で、どれがそうでないかを区別し、正規の命令には服し、そうでないものは拒否する、というようなことは、できるものではない。
強制疎開の建物取り壊しの際、警防団の白髪の責任者が、軍からきた若い曹長に、「そこはちょっと止めときましょう、残しましょう」などといったら、「貴様、軍の命令に逆らうのか」と即座に張り倒されただろうし、それでも命令に逆らいつづけたら、憲兵に捉えられ、抗命罪で軍法会議にかけられるのが落ちだっただろう。
そして沖縄だ。強制疎開ごとき話ではない。米軍の一方的な猛攻の下、やっと逃れてきた洞窟にもやがて火炎放射器の筒先が向けられるだろう状態の中でのことだ。
兵隊が、周りに集まる住民たちひとりひとりに手榴弾や青酸カリの小ビンを渡し、「最後はわかっているな。いいな」と力強くいったとき、それを受け取った住民がその言葉を、自決を促す「軍の命令」と理解するのは、ごく自然のなりゆきだ。そこに辿り着くまでの長い時日の間、同じ兵隊からなにかにつけて「軍の命令」を何度も聞かされてきたのだ。
2005年8月、岩波書店と作家の大江健三郎氏は、集団自決のあった沖縄・座間味島の元守備隊長と渡嘉敷島元守備隊長(故人)の弟とから、大江氏の著書、岩波新書『沖縄ノート』に、これらの島で自分たちが下命したこともない「軍命令」が、まるであったかのように記述してあり、そのことによって名誉を傷つけられたとする、名誉毀損の裁判を起こされた。
だが、これらの隊長は、両島駐屯中、部下に対して「上官の命令は・・・」とする訓示を垂れたことは、全くなかったのか。また、部下の兵たちが住民たちに「軍の命令は・・・」と前置きして下命したりすることは、一度たりともなかった(部下にそうさせなかった)と、断言できるのか。
命令書は書かなかったとか、命令書は発見されていないとかで、「軍命令」はなかったのだと主張するのは、当時の「地方人」に対する「軍の命令」なるものの発せられていた状況、それを「地方人」が「軍命令」として受け止めていたリアリティを、全く無視する話で、それこそが歴史の偽造である。当時のこのような現実、軍の影響力それ自体が「命令」の重みをもった状況を判断材料から排除するのでは、自決した多数の両島住民は、好き勝手に自分で死んだ、という奇妙な話になる。
教科書から「軍の命令による住民の集団自決」の記述削除を命じた文科省・教科書検定に当たった調査官、この措置は学術的検討の結果だと言い訳する伊吹文科相や安倍首相らは、元隊長の集団自決は下命しなかったとする証言や、命令書の存在が確認できないことなどを、削除の理由とするが、そのことは、そうした判断自体がいかに戦争というものの全体的な実像把握を怠るものであるかを、物語っている。現に多数住民の自決は存在した。
それがなぜ生じたのかの真の原因解明は避け、「地方」はそのような無知と混乱が渦巻くところであり、秩序ある中央=「軍・政府」はそのような領域には仔細には関知し得ず、まして責任は負いかねる、といわんばかりの姿勢だ。そして似たようなことが、戦時における朝鮮人など外国人女性の従軍慰安婦狩り出し・売春管理に対する「軍・官憲の関与」についてもいえる。
ワシントン・ポストの意見広告賛同者たちは、慰安婦提供の仕組みは、プロの売春業者による商業行為であり、慰安婦はおらず、いたのは「公娼」であり、「軍・官憲」の関与はあり得ない、と主張する。だが、女衒(ぜげん)が貧しい朝鮮の農村に入り、親たちに安いカネで娘を売るように迫って承知させたとき、娘が逃げたら、警察官が追いかけ、売られた娘を買った女衒のもとに連れ戻すなどのことは、ザラにあったのだ。
娘がこれを、「官憲」の手に落ちて連れて行かれたと理解するのは、当然ではないか。また、一般に「公娼」とは、政府機関(通常は警察)が許可する区域内の公認売春業者が抱える職業売春婦のことだ。
だが、戦時従軍慰安婦も、主に日本軍占領地の軍(これも政府機関)の管理区域内に設けられた、軍公認の売春業者施設内で、もっぱら軍人を相手に売春を強要されていた女性たちである。
「公娼」といえなくもない。だが、この場合の「公娼」の「公娼」たるゆえんは、軍が掛かりっきりだということではないか。
一方で「公娼」といい、もう一方で、だから軍は関係ないというのは、全くの論理矛盾だ。業者には独占的な営業許可が与えられ、おまけに女性たちの逃亡防止、顧客(兵隊たち)の提供、衛生管理(軍医の派遣)まで軍が面倒をみてくれたのだから、さぞかし関係業者には「軍の命令は、畏れ多くも」が乱発され、その分、女性たちに対しては無理難題のしわ寄せがいったはずだ。ここにも、そんな「地方」の話は知ったことか、お前らにはたっぷり儲けさせてやったではないかとする、中央の「地方」を見下した眼差しが感じられる。
◆また「地方」に「軍の命令」が下ってくる
世の中になるのか
戦争となれば「地方」はなんとでもなる。戦争になれば、勝つことが至上の目的となり、この目的の前では、すべてが二次的な意義しかもてないものとなる。
勝つことは軍の能力の最大限の発揮によってしか実現できず、「軍・政府」は、軍のそうした能力の維持に必要な体制整備に適う人材・資源・知識・情報の確保、収集・動員を行う権限を掌握する。自分たちがなんでも決め、決めたことは「地方」を思いどおりに動かして実行する。それによって初めて、「地方」=国民も守ってやれるとする、辻褄合わせの理屈の輪が完結する。なんとも独善的で身勝手な話だ。
だが、戦争になってもいないのに、中央=政府がそうした独善振りを発揮する傾向が、小泉内閣のときから出てきており、安倍政権が成立、首相官邸が強力な指導体制を整え、国民のため、民間のためという言葉を連発しながら、安部首相とその側近たちが、自分たちの思いつきで勝手な政治を強行、政府がそのような場面で権力を思いどおりに振るうのは当然だ、とみなす風潮が急激に強まっている。
勘ぐれば、安倍政権は、いつ戦争になってもいいように、いまから「地方」を馴らそうとしているようにみえる。九条改憲の明言、自衛隊と米軍の一体化再編推進、イラクの空自駐留の延期、防衛庁の防衛「省」昇格。
そして自衛隊の情報保全隊はすでに「地方」監視を強め、反自衛隊の動きに公然と目を光らせている。
そうか、ユーゴで日本の大使が発した「ミンカン」という言葉は、戦争中に軍の人間がしょっちゅう口にしていた「地方」という言葉と相通ずるものがあったんだ。
私としては、30年前にユーゴで引っかかった感覚の正体がようやくみつかったような気がした。戦前の「地方」の考え方は戦後、「民間」に変わったが、安倍政権下で「民間」がまた「地方」に、急速に戻りつつあるのだ。そういえば、アラビア語通訳・キャスターだった小池百合子が安全保障担当首相補佐官となり、今度は防衛大臣だ。
ジャーナリストを自称していた山谷ゆり子は教育再生担当、NTT広報部課長だった世耕弘成は広報担当で、これもそれぞれ首相補佐官。
みんな民間出身者で、二世、三世の政治家とは一味違うはずなのだが、かえってこういう人たちの方が、首相側近の権威を「地方」にひけらかす傾向が強く、そういう流れを加速する感じであるのも、興味深い。
ユーゴはじめ、ルーマニアでもハンガリー、ポーランドでも、地方紙社長の我が儘で、大使館の世話には全くならず、おかげで崩壊寸前の社会主義国の「地方」をたっぷり知ることができた。おそらく大使はベオグラードのオールドタウン、スカダリャをたった一人で歩くことなど、できなかっただろう。
そして今、日本のメディアのことを考える。しっかり「地方」に踏みとどまって、そこからの目線でニュースを追い、中央の動きをしっかり批判的に伝えているだろうか。
だんだん中央の動きばかり気にするようになり、知らず知らずのうちに中央の「地方」向けニュースを書かされるようになっているのではないか。
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