桂敬一/元東大教授・日本ジャーナリスト会議会員/メディアウォッチ(24) メディアはいまこそ安倍首相自滅の意味を問え  ―福田vs麻生の後継争い報道にうつつを抜かすな―07/09/21

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 メディアはいまこそ安倍首相自滅の意味を問え

―福田vs麻生の後継争い報道にうつつを抜かすな―

 

日本ジャーナリスト会議会員 桂  敬 一

 

 9月12日午後、安倍晋三首相が突然、辞意を表明した。多くのメディアにとっては、晴天の霹靂だった。首相は前々日、国会初日の所信表明演説をすませていた。ところが、これを受けた各党代表質問の予定時間にぶつけるかたちで、首相みずからがその職を投げ出す意思を公にしたのだ。戦前も含め、日本の憲政史上、初めてのことではないか。

さすがにその日は、新聞の夕刊もテレビの夜のニュースも、この右往左往をめぐる話題で持ちきりとなった。なんでこのような無責任で非常識な行動を、国の最高責任者がとるのか。その原因や、このことによって生じる問題―こんなことが起こる日本の政治の欠陥と、その克服に必要となる問題について、メディアは徹底的に検討を加え、明らかになったことを粘り強く国民に報じつづけるとともに、重要な論点を整理、提起して、広く各界に大きな議論を興すべきであろう。

ところが、もう翌13日になると、メディアのうえでの話題は、後継総裁はだれかに絞られ、二、三日もすると、麻生太郎が一番手だと思っていたら福田康夫が意外にもトップにきた―どっちが勝つか、というようなニュース・論評ばかりが跋扈するありさまだ。安倍退陣のもつ深刻な意味は忘れ去られた感じだ。私には、メディアのこのような忘れっぽさと新手の話題ばかりに飛びつく浮気性も、日本の国民と政治両方の劣化を加速しているのではないか、と思えてならない。

 

◆9月12日、言葉ではなにも伝えられなかった安倍首相

 

 安倍政治の本質的な欠陥は、首相本人の言語コミュニケーションの貧困、拙劣さによく示されていた。確かにメディアも、口癖の「しっかり」をつかまえて、“しっかり晋ちゃん”とからかったりしてきた。だが、メディアにとっても言葉は武器だ。そのメディアが、首相の言説に対する批判を、水準の低い相手の土俵に降り、この程度の戯れ口ですましているのでは、彼の言語表出が示す、複雑な現実に対する内在的な理解の貧しさや、抽象的な美辞麗句を発話するだけでそれが実現に向かうべきだと決めつけてかかる思考過程の単純さなどを、国民の前に浮き彫りにすることはできない。

 

 だが、皮肉なことに、12日のあわただしい辞任記者会見に臨んだ、生中継のテレビ画面のなかの安倍首相は、その存在自体をもって、いやというほど自分の言語的なコミュニケーションの空疎さをさらしつづけた。

この異常な状況で辞めざるを得ない心情を表現していたのは言葉よりも、テレビ・カメラが大写しにした、終始涙目の彼の顔だった。辞任の理由、責任の自覚などについて記者から質問が相次いだが、小沢一郎民主党代表が会ってくれないからとか、「国際公約」のテロ特措法の実現には自分がいないほうがいいからとかの言い訳が、答えとして何度も繰り返されていたのが印象に残ったが、これらも含め、ほとんどの回答・説明が論理を失っており、納得のいくものではなかった。

主観的な物思いを客体化し、それを理解可能な言語表現で他人に伝える彼の力はもともと乏しかったが、そうしようとする努力さえ、もう諦めた惨めな姿がそこにあった。

 

 テレビのなかの首相の姿を眺めながら、この時点、状況において絶対にあり得べからざる政府最高責任者の職務放棄が生じたのは、要するに、彼が切れた、ということではないかと思った。自分を機関の人間、役割を担った存在と受け止める自己認識が、ほとんどないか、そうした意識は、あってもきわめて希薄だったのではないか。

その代わり、安倍家に生まれ、晋三と名付けられて育った、ひとりの自然人としての自己意識だけは強烈にあり、その意識に十分に浸され、依拠できているときは、自信がもて、上機嫌に振る舞えていたのだ。総理大臣であるという意識も、その部分の自信をふくらませてくれる要因だったのだろう。

だが、公的な役割としての首相という職が、自信の源泉どころか、苦役の原因、嫌悪の対象だけとなってしまった途端、彼は耐えきれずに切れ、だれにもじゃまされない自分だけの穴ぼこ、ひとりの自然人の存在意識のなかに、引きこもったのだ。

 

◆首相の言い換え・言い間違えから読み取るべき重要な意味

 

 突如切れ、身勝手な引きこもりに逃避するような政治家に貧しい言語コミュニケーション能力しかないのは、当たり前の話だ。だが、安倍首相の場合、言語表現能力が劣っているだけに、真正面からの大きな議論は避ける一方、言い抜けや小さな言い回しの変更で自分に有利な局面をつくろうとする、油断のならない小狡さがあった。

そして、しばしば誤った語法を用いたが、そうした誤用例から、彼の隠された本心や揺れ動く本音がこぼれ落ちてくることが多かった。そのどちらの場合からも、被統治者としての国民は、自分たちのリーダーの、酷薄で無能、自分のことしか考えていない実像を、うか がい知ることができる。実例を考察してみよう。

 

 毎日新聞夕刊のコラム「早い話が」は金子秀敏専門編集委員が執筆するものだが、その8月23日付の回、「『心ならずも』外し」と題された一文から、大いに啓発された。

8月15日、武道館で催される全国戦没者追悼式における代々の首相の式辞には、「今日の平和と繁栄は、戦争によって心ならずも命を落とした方々の尊い犠牲と、戦後の国民のたゆまぬ努力の上に築かれています」とする一節が、挿入されてきた。昨年、小泉首相の式辞もそうだった。

だが、今年の安倍首相は、秘書が用意した原稿のこの部分のなかの「心ならずも命を落とした方々」を、「かけがえのない命を落とした方々」に書き換えたというのだ。金子記者は、同月16日付の産経新聞がいち早くそのことを報じており、あわせて同紙が、「心ならずも」では、保守系文化人・議員が「自ら命を捧げた戦死者に失礼だ」と批判したのを受け、安倍首相がこのように変更を加えたという経緯を伝えたことも、紹介している。

金子記者は、こうした詐術的な言い換えで、「戦没者」に対する追悼式であるべきものが、いつの間にか「戦死者」に礼を捧げる式にすり変えられてしまうことの問題の重大性に、注意を喚起してくれたのだ。

 

 9月9日、NHK総合テレビの夜7時のニュースのトップは、APECの開かれたシドニーでの安倍首相の記者会見だった。ブッシュ・ハワード米豪両首脳との会談を終えた後の首相は、えらく入れ込んで、ひとりで興奮している感じだった。テロ特措法の延長は、米豪両首脳に約束したから「国際公約だ」。

これを「職を賭してでも実現する」。「職責にしがみつくことはしない」。「自衛隊に給油を続けさせなければならない」というのが、テレビ・ニュースから聞こえてくる首相の力説部分だった。おかしな言い方だ。

米豪両首脳に対する約束が「国際公約」なのか。その成否に関して「職を賭す」というのも頷けない。職を賭すべきは、国民の審判を受ける参院選に臨んだときの覚悟だったはずだ。だが首相は、そこで大敗を喫しても職を辞さなかった。

それでも続投するからには、国民が緊急に必要とする政策課題に責任を負うつもりがあったからではないのか。その取り組みに関してはなにもいわず、テロ特措法延長にのみ言及、これができなかったら首相を辞めるとする意味で「職を賭ける」というのは、国民をバカにしており、独りよがりだ。

 

 「職責にしがみつくことはしない」というのもヘンだ。しがみつくのは「職位=ポスト」「地位」「権力の座」などであろう。「職責」はあくまでも、果たすべきもの、全うすべきものであり、安易にそれから離脱することは、職責を「顧みない」「軽んじる」など、批判的に表現されるべきもので、潔い行動どころの話ではない。

「給油を続けさせなければならない」も酷い。実際の作業は自衛隊員がするのだから「させる」と使役形を使ったのだろうが、公的には首相は、自衛隊作戦行動の最高指揮官だ。対外的には、あるいは国民に向かっては、作戦行動を「続ける」「続けなければならない」と、主格はあくまでも自分であるとする語法を用いるのが筋だ。

しかし、安倍首相は日常感覚で、給油作業のようなことはひとにさせるものと、自然に思っており、そういう感覚が正直に露呈したわけだ。自衛隊員も情けない最高指揮官をいただいたものだ。

 

◆新聞は「首相辞任」をどのように受け止め、なにを問題としたか

 

 我らが宰相のかくも情けない姿、言動は、テレビがシドニーの会見、とくに首相のそこでの発話を、そのまま中継、放送してくれ、また偶然、私がそれを見聞きすることができたために知ることができた。

新聞記事からは、こういうところまではなかなかわからない。テレビとは異なり、語られたことの意味を論理的に要旨として整理、文章として示すだけの伝え方しかできないからだ。だが、基本的に文章の力だけに依拠する新聞は、テレビにはできない理性的で論理的な批評力の発揮が、可能なはずだ。

だが、今回の安倍首相自壊に立ち会った新聞は、出来事の受け止め方に惑いがあり、このような政権の成立と崩壊が国民にどんな問題をもたらすか、十分には語れないままだ。辞任会見のあった翌日、13日の各紙の社説は、それぞれの問題意識の違いを端的に示している。

 

 突然の安倍退陣にショックを受けつつも、既得の状況をできるだけ維持しようとする姿勢をみせるのが、産経、読売、日経だ。産経は、他紙の社説に当たる「主張」(「国際公約果たす態勢を 稚拙な政権運営をただせ」)で、与党現勢のもと、テロ特措法の実質延長を、新法案の衆院議決・参院否決・衆院再議決の方法によってでも実現せよと説き、自民党の迅速な次期総裁・新首相選出を促す。

読売(「安定した政治体制を構築せよ 大連立も視野に入れては」)も、同様の主張に力点を置くが、さらに民主党との関係に触れ、「衆参ねじれ」の克服を目指し、自民・民主を中心とした与野党の「大連立」を提唱する。

日経(「突然の首相退陣、政局の混迷を憂慮する」)は海自の給油継続問題にも憂慮を示すが、混乱の収拾には次期首相と民主党党首との協議により、主要重要法案の成立を許容するかたちでの衆院解散ということで妥協を図り、その枠内での早期解散を提言する。また、次期衆院選では「大連立」という選択肢もありうるのではないか、と述べる。

 

 これに対して、明確に早期解散を主張するのが、毎日、朝日だ。毎日(「国民不在の政権放り投げだ 早期解散で混乱の収拾を」)は、首相辞任による混乱は自民党にも責任があり、参院選敗北後に首相続投を勧めた麻生幹事長にも責任がある、と指摘、この混乱の収拾は、国政に民意を反映させて行う必要があり、早期の解散・総選挙を行うべきだ、と主張する。

ほぼ朝日(「あきれた政権放り出し 解散で政権選択を問え」)も、同様の論旨を展開するが、今回の次期総裁・新首相は有権者の支持が得られなかった安倍首相の後継者なのだから、自政権を「選挙管理内閣」と位置づけ、解散・総選挙を急げ、と説く。

地方新聞では、北海道(「民意を見ない政権の末路 安倍首相、突然の退陣」)が、参院選の結果判明直後にも、民意を失ったとして安倍内閣の退陣を求めたが、続投後の突然の退陣は二重に民意を裏切るものだと厳しく批判、連立を組む公明党の責任も追及し、国民が直接、自分たちの手で指導者を選び直す機会が早急に必要だ、と論じている。

「けじめが要る。このまま後継の総理総裁を選んでは、安倍氏同様、政権選択の審判を受けない自公政権が続いてしまう。(筆者注=自民党は)潔く下野するか、衆院解散・総選挙で出直す。選択すべき道は二つに一つである」とするのが東京新聞だ(「下野か衆院解散か、だ 安倍首相、退陣へ」)。

 

◆メディアは首相が「切れる」政治の貧困の深刻な意味を考えよ

 

 早急な解散・総選挙をあまり強く求めない新聞も、それを求めて積極的に主張する新聞も、ともに解散・総選挙のことは強烈に意識している。また、目指す方向に違いはあるにせよ、現在の政治空白ときたるべき局面転換に対する危機意識も、それぞれ深いものがある。だから不思議なのだ。

そうならば、いまこそ新聞は、国民生活に関わるさまざまな政治課題について多面的な報道を行い、そこで明らかにした問題を、政権争奪を目指す政党・政治家にぶつけていくべきではないか。ところが現実には、各紙はいま横並びで、自民党総裁選の候補二人の追っかけ報道ばかりをやっている。

テレビも同じだ。むしろ新聞より酷い。年金問題はさすがにかなりフォローされているが、小はネットカフェ難民から大は日米軍事一体化まで、事実を追究し、そのことの是非や解決を政治的に論ずべき問題は、ほかにもまだまだ多い。それらすべてを国家財政や国民生活全体を覆う問題枠組みのもとで眺めるとき、古典的な喩えではあるが、「大砲かバターか」の政策選択スローガンが新しい意味をもって迫ってくる。メディアはいま、このような大きな情勢認識、問題意識のうえに立って取材・報道活動に勤しむべきではないのか。

 

 最後にこだわりたいのが、安倍首相が切れた、ということだ。この出来事は、現代日本における政治と国民がともに劣化していく相互作用のなかで、必然的に生じたものではないだろうか。

あるいは、現代日本では、国の最高指導者が切れてしまうような社会なのだから、国民がいたるところで切れてしまうのも当たり前なのではないか、と言い換えてもいい。国民は本当に連日、日夜を分かたず、いろいろな切れ方をしている。親が子を殺す。子が親を殺す。夫婦の一方が配偶者を殺す。きょうだい殺しが起こる。

友達殺しがある。学生が先生を襲う。先生が学生に暴行を加える。乗り物のなかで若者が自分に注意した年寄りに危害を加える。年寄りがケータイを使っている若者に殴りかかる。知らぬもの同士のちょっとした言い争いが大喧嘩になる。通り魔的な犯罪者が女性を傷つける。だれでもいいから殺してみたかったという殺人者が出現する。一方、自殺者の数は毎年3万人以上に達する。これらの事例には新聞・テレビで、毎日いやというほどお目にかかれる。

 

 その多くは経済的な貧しさ背景とする犯罪だろう。あるいは怨恨など、その犯罪固有の犯行動機があるものも少なからず含んでいよう。だが、動機不明の事件、あるいは些細な原因で、犯行者も最後には呆然とするほどの大きな被害が生じることとなる事件が、近年は多発するようになっていないだろうか。

そこにはコミュニケーションの貧しさ、むしろそれがしばしば途絶している状況が認められる。富裕で社会的には上流層に属し、文化的にはエリートである安倍首相は、いざというときには温かな、恵まれた自己確認の世界に引きこもれるが、コミュニケーションの途絶した世界に漂流をつづけ、他者を共存の相手として見出すことができない格差社会の負け組は、アイデンティティの危機に遭遇したとき、しばしば自傷行為によって辛くも自己を確かめることになる場合がある。

さらに、自傷には向かわず、自分のなかに溢れそうになる怒りやある種の衝動を、目前の他者にぶつけて自己の安定化を無意識のうちに図る悲劇も生じる。このような人々が放置されたまま、いや、増えるがままに任せてきたなかで、安倍首相のような言語コミュニケーション能力を欠いた政治家が国の最高指導者に選ばれてきたというところに、今回の辞任事件のもっとも深刻な問題点があるのではないだろうか。この問題をどう考えるべきであろうか。

社会的コミュニケーションの発展に責任を負うべきメディアとしては、避けて通るわけにはいかない問題であろう。このページのあたまにもど