桂敬一/元東大教授・日本ジャーナリスト会議会員/メディアウォッチ(36)本当の危機は国民を愚弄する政局のショー化だ―福田首相の政権投げ出しに甘いメディアの態度―08/09/04
日本ジャーナリスト会議会員 桂 敬 一
9月1日夜9時過ぎ、ぼんやりテレビをみていたら、突然、ニュース速報の告知が出現、画面が、アナウンサーの構えるスタジオと、福田首相が辞任会見する首相官邸とを結ぶ生中継に、切り替わった。会見終了後もテレビは、通常番組を飛ばし、あの手この手で首相辞任をめぐる話題を追いかけた。どの局も似たような内容だ。もちろん翌日の各紙朝刊も、この話題でもちきり。突然の辞任に驚いた、意外だ、国民に対する裏切りだ、無責任だなどと、騒然とした空気を煽り立てた。
テレビは2日になっても、JR新橋駅前などでの新聞の号外配布の光景や、街角の通行人の感想場面を競って映し出し、「えっ、本当っすか」「驚いた」と語る人たちの表情を大きく映してみせた。しかし、そのような新聞やテレビをみるにつけ、みんな本気で驚いたのだろうか、本当はそうでもなかったんじゃないか、と疑わしく、白けた気分になった。
そもそも文字だけのニュース速報で「首相辞任」のタイトルがテレビ画面に浮かんだときから、辞任そのものにはとくに驚きを感じなかった。「えっ、今かよ」とやや意外に思った程度が、正直なところで、画面が官邸生中継に切り替えられるまでみていた、途中でうち切られた映画の先のほうが、どうなったのかなと、むしろ気になった。安倍首相辞任の先例もあったではないか。農水大臣の事務所経費問題だって、安部内閣時代にすでにあった。
いつ福田首相が政権を投げ出しても、おかしくはない。それがまさか内閣改造の1ヵ月後、臨時国会の9月12日招集を8月29日に決めたわずか3日後に、現実のものになるとはと、いささかのサプライズはある。だが、驚愕するほどのことではない。ああやっぱり、あるいは、またか、と思う程度だ。みんなだって、本心はそう思っているんじゃないの、とする疑問が今も残る。
「ヘーゲルはどこかで、すべて世界史上の大事件と大人物はいわば二度現れる、と言っている。ただ彼は、一度は悲劇として、二度目は茶番として、と付け加えるのを忘れた。ダントンの代わりにコシディエール、・・・伯父[ナポレオン一世]の代わりに甥[ルイ・ボナパルト]。そして、ブリューメル一八日の第二版が演じられた事情も、これと同じ戯画である!」(マルクス『ルイ・ボナパルトのブリューメル18日』から)。
この筆法を真似れば、「安倍晋三の代わりに福田康夫。そして、安倍辞任後の自民党総裁選の第二版が演じられる事情も、これと同じ戯画である!」なのではないか。悲劇と茶番の順序が逆だとか、安倍前首相も福田首相も、ナポレオンやその甥・ルイに喩えられるのは過大評価だぜと、突っ込みが入りそうだが、いずれにせよヘンな既視感がつきまとう点では、通じるものがある。
また、マルクスが引き合いに出した悲劇・茶番の組み合わせ例も、安倍・福田のケースも、悲劇・茶番をワンセットとしてみれば、結局それは、対応する個々の時代や、そこに属する国民に、一つの大きな悲劇をもたらすものとなる点において、変わりはない。テレビで官邸記者クラブの会見を生中継で観ながら、あるいは聞きながら、この時点の首相の突然の辞任が本当に驚くべきものであるとしたら、もっと激しく迫る質問が出てもよさそうなものを、とする思いに何度となく駆られた。
首相の辞めるべき事情がわかってしまうものだから、意気込んで追及する気もしない、というような醒めた雰囲気が伝わってくるばかりだった。最後に、中国新聞(広島)の記者が、「まるでひとごとのように聞こえるが・・・」と踏み込んだら、「私は自分自身を客観的にみることができるのだ。あなたとは違う」と、首相がにわかに気色ばんでやり返したのには呆れた。痛いところを衝かれ、ついに疳の虫が抑えきれなくなった様子が、ありありだった。
2回目の同じ悲劇は茶番だ、とする見方は、メディアについても検証する必要がある。「美しい国」の安倍晋三坊ちゃんの、終始涙目の辞任会見は、報じるメディアも心底呆れ、その意味では本当に驚いているところがあった。
だが、「大連立」の失敗以来、「安全安心」だの、「国民目線」だの唱えてはきたものの、やる気をなくす一方だった福田首相が、小さな自尊心と体面を傷つけられないうちにいずれ辞めるだろう、と踏むメディア関係者は、少なくなかったはずだ。だが、現実に辞任に直面してみると、やっぱり、とだけで落ち着いていたら、なんのかんばせあっての言論機関かと、怒られる。
そこで無理にも「驚いた」「無責任だ」と大声を上げ、世間の関心を引き、日本の政治をどうすると、議論を盛り上げなければならない。それも、本気だったら、日本にも「Change !」の声のうねりを生み出せるかもしれない。だが、与党の茶番に平仄を合わせ、政局ネタ競争で与党に食い込もうとする程度のものなら、メディアもまた茶番の片棒担ぎに終わるだけだ。
そもそも安倍首相辞任、福田首相辞任も、騒ぎの源はそれぞれの自民党総裁選にあった。その際、自民党の大騒ぎにメディアも同調、天下の衆目を集めて政治的実績のない二人の人気を高め、両人はともに政権スタート時、世論調査において異例の高支持率を獲得した。だが、それはみるみる凋落、二人とも1年を経ずに辞任のやむなきに至った。
このような総裁選のショーアップ、異例の高支持率での政権発足といえば、2001年の小泉政権実現、さらに05年・「郵政改革」総選挙における小泉首相の圧勝を、思い出さないわけにはいかない。意図の有無は別として、メディアは二度の「小泉劇場」の大成功に不可欠の役割を果たしてきた。そして、小泉人気をだれが引き継ぐかの自民党総裁選では安倍人気をつくり、安倍首相がコケたら、あとはだれかで福田人気までつくってきたのが、大方のメディアのやってきたことではないか。
総裁選を俎上に乗せてみれば、メディアの茶番は2回目の悲劇だけで終わらず、3回あるいは4回も繰り返さえれており、まだ懲りずに今度、麻生人気づくりで5回目の茶番を演じようとしているかにもみえるが、ひが目であろうか。
9月2日の各紙紙面をみてみよう。朝日は1面に「野党に譲って民意を問え」と編集委員の特別論説を掲載、社説も「早期解散で政治の無理正せ」と、与党タライ回しの政権委譲に反対する。だが、よく読むと、「野党」は民主党を想定するだけで、かねてからの2大政党制論の域をほとんど出ない。その背景には、同日発表の福田内閣支持率続落の世論調査の結果がある。
約1ヵ月前の前回より1ポイント減った25%が支持率だ(不支持は55%。前回と同じ)。しかし、自公連立に代わり、民主単独で政権奪取が可能かといえば、その見込みは薄い。結局、旧来の2大政党制論をいかにして脱却するかが朝日の課題になっていることを、はしなくもさらけ出した。
これに対して、読売は、1面「政治の責任を自覚せよ」(政治部長の特別論説)、社説「政策遂行へ強力な体制を作れ」で、一つは民主党に、臨時国会における即座の解散・総選挙戦術を戒め、政策論議をやれと促し、加えて与党に「自公連携の再構築」を勧め、とくに「テロとの戦い」を重視し、テロ特措法再延長・インド洋給油継続の法的手続きを早急に取れと強調する。これは朝日の2大政党制論、政権の野党委譲論に真っ向から対立する。
小泉内閣以来の両紙の対立構図は、ひとつも変わっていないことが歴然とする。福田政権投げ出しに本当に驚き、それが招くであろう政治的危機からの脱出を目指し、なにか新しい方策、新しい重要政策の提案でも行うのかと思ったら、両紙ともその点は、なにもいってないに等しい。
不思議なのが読売。福田首相は、辞意につながるいくつかの大きな挫折の一つとして、例の「大連合」に自ら言及した。読売は、自社会長・主筆がそれに直接関わっていた。だが、それについてウンもスンもない。本当に反省し、もう二度とそのようなことはしないのなら許せる。
しかし、小沢・民主党に与党との「政策論議」を勧め、自公には連携与党体制を維持、民主党に当たれと促す論法は、時きたらば「大連合」で政界再編を、とするロジックを包摂する。両紙は、過去の茶番だけでは懲りず、もっと薄まった新しい茶番に、またしがみつく感じだ。
毎日の9月2日朝刊で興味深かったのは、記事よりも週刊誌『サンデー毎日』9月14日号の全5段広告。自社もの広告だ。その目玉記事は「『太田』スキャンダルは崩壊のプロローグ 『福田』が10月下旬 政権を放り出す重大理由」。同じ紙面に、前夜の首相辞任会見のニュースが載っているのに、「10月下旬 政権を放り出す」のキャッチコピーではいささか間が抜けた感じだが、太田農水相の事務所経費問題が、福田政権の命取りになりつつある事情は窺わせる。
毎日がこの件ではなにか掴んでいるのは確かだ。8月26日朝刊でスクープ、太田農水相の福岡事務所の問題も、後日フォローしている。だったら、月並みな辞任会見の記事をたくさん載せるより、週刊誌だけでなく本紙のほうにも、太田問題のもっと詳しい報道が欲しかった。
この点、東京新聞は、2日付朝刊の2ページにわたる企画報道欄「こちら特報部」に、太田農水相の東京事務所とされた農相秘書が住む同じテラスハウスに、壁一つだけ隔てて住む隣人、経済学者の池田信夫・上武大学大学院教授の証言を掲載、事務所経費の怪しさを克明に追及したのが、注目される。池田教授は、「事務所はダミーだ」と、隣人としての詳細な知見をもとに証言している。
福田首相は、安倍内閣から引き継いだ負の遺産が自分の行動に制約を及ぼした、と会見で語っていたではないか。その一つに、安部内閣の二人の農水相の事務所経費問題があった。ならばそもそも自分の内閣の閣僚に同じ問題を起こすような人物を選ぶべきではなかった。しかも、太田農水相の母と福田首相の妻の母は姉妹で、二人は姻戚関係にある。こういうことは、官邸の記者クラブに属する記者はみんな知っているはずだ。
しかし、国民はずっとあとになって、ヨタ記事の多い週刊誌のゴシップでしか、知らされない。首相の突如の辞任は、国政トップの資質について国民に疑問を抱かせた。記者たちは本当は、首相会見の席でこの問題についても、もっと遠慮なく問いただすべきではなかったか。
そして3日となると、いよいよ自民党総裁選の行方が各紙で、またテレビでも、関心の的になる。あっという間に福田政権と、そのような政権を擁立した与党の責任問題など、霞んでしまう感じだ。しかも、メディアにうんと働いてもらう仕掛けがたっぷり設えられる。自民総裁選候補は麻生氏一本か。「反麻生」候補擁立にどの勢力が結集するか。総裁選の地方党員投票の動向はどうなるか。臨時国会の招集日はいつになるか。臨時国会冒頭解散か、補正予算後の年内解散か。テロ特措法延長・給油続行可決はできるか否か。自民・公明の食い違いはどのように露呈する。
民主党の矢野絢也元公明党委員長国会証人喚問実現の可否(矢野元委員長は、執筆活動妨害で創価学会を告発、妨害の停止・損害賠償などで東京地裁に裁判を提起。執筆物のなかで学会が宗教施設を政治活動に利用している事実を摘示、この点は求めがあれば証言すると述べている)。民主党脱党の4国会議員(参院)を中心とした新党結成運動の行方など、政局がらみの話題に事欠かないからだ。
とりわけ、アメリカ大統領選挙・共和党候補指名運動のなかで、候補の1人、マケイン上院議員が自分の副大統領候補に、まだ若い女性のペイリン・アラスカ州知事を指名、話題をさらったせいか、自民党は麻生候補に対抗する候補として、小池百合子元防衛大臣を推す気配なのが注目される。彼女が候補に出馬するのか否か、どんな集団が彼女を推すのか、候補になったとして現実に当選するか否かなどは、候補が出揃うまでの下馬評からメディアを賑わせ、たった1党の党内選挙でありながら、天下の視線を集めるに違いない。
メディアは、ウチはそんなバカ騒ぎはしない、と約束できるだろうか。ほかがやったら嫌でもやらなければならなくなるのが、オチではないか。そうなったら、またもや茶番の繰り返しだ。与党は、メディアの茶番がつくってくれるにぎやかな「劇場」のなかで総裁人気を高め、その余韻が残っているうちに解散・総選挙を断行、新総裁=新首相の人気にあやかって臨時国会・明年の通常国会を乗り切ろう、という寸法だ。
もちろん新聞、テレビのあるものは、そうなることを警戒、各政党・政治集団に対し、とにかく政策だ、政策比べが必要だ、国民の前にマニフェストを提示せよ、とも叫んではいる。しかし、与党=自民・公明、民主の両陣営はこれまで、批判合戦で、あんたのところは政権担当能力がない、とする悪罵の投げ合いはしてきたが、そうだこれだ―こっちのほうがいい、と国民がわかるように、国民生活に密接に結びついた問題をめぐって具体的な政策を、比較できるように提示したことなど、ほとんどない。
メディアが今やるべきは、そういうことを政党・政治集団が自発的にやらないのなら、進んで重要政策課題を掲げ、さらにそれら個々の課題ごとに適切と思う政策内容を提案、すべての政党・政治集団・候補者個人に対して賛否の回答、あるいは異なる考え方を徴し、紙面に公開することではないか。与党の「積極財政出動派」か、「構造改革派」か、「上げ潮派」かなどの政策的差違は、ほとんど理解できない。いっている当人たちすらわかってないのではないか。
そんな話でわかったつもりにさせられ、投票に駆り立てられる国民こそ、いい迷惑だ。どの新聞も、「拉致問題」と「消費者庁」については、福田首相の無責任さをなじる、同じような紙面だったのも気になった。拉致問題では、不信を募らせた被害者家族が、北朝鮮にはいっそう強硬な姿勢を取れ、と声を荒げていた。メディア全部がこれでは、政府の外交的な政策選択の幅は狭められてしまう。
消費者庁に対する幻想を肥大させるのも問題だ。60年代半ばから70年代にかけて、消費者運動や反公害の市民運動が盛んになり、そうした民間の声に支えられて国民生活センターができ、自治体の消費者窓口とも連携、活動を発展させてきた歴史を思い返す必要がある。その組織・機関の構成・運営には多様な消費者・生活者団体の代表も参加しており、従来からの官僚組織とはひと味もふた味も違っていた。今必要なものも、官僚による権威主義的な消費者保護機関でなく、市民参加、消費者の自主性を尊重した、このような機関ではないのか。
非正規労働の若者をなくすために労働者派遣法を根本的に見直す。高齢者医療制度・後期高齢者医療制度も健康保険制度全体の見直しのなかで抜本的な再検討を加える。公的年金制度の民営化を規制、公的年金の枠組みを大きくし、世代間対立を抑制、負担力の小さいものの排除を防ぎ、本来の年金制度を再確立していく。
社会保障財源を名目とする安易な消費税引き上げを許さず、公的な健保・年金制度の抜本改革のなかで保険料制度・直接税制度も見直しながら、消費税問題を解決していく。食糧・エネルギー価格の高騰抑制。金融市場から溢れ出る投機マネーの抑制。農業・漁業・道路運送業などの緊急な救済対策と長期的な改革施策の確立。防衛費・在日米軍経費負担を圧縮し、浮いた費用を社会保障費・教育費に配当する。
教育基本法を元に戻す。憲法改正国民投票法を廃止する。その他、小泉構造改革と安倍「美しい国」政策が、日本の政治を行き詰まらせ、もたざるものからますます奪い、弱いものをますます弱い立場に追いやってきた流れをここで完全に食い止めるために、急いでやるべきこと、やれることがあれば、まずそれを政策としてまとめ、それらを総選挙に臨むすべての政党・政治集団・候補者に提示、回答を求めていくことが求められている。
だれがそれをやるか。国民はそれをメディアに求めている。その先には、アジアの問題、世界の平和に関する問題など、21世紀の世界における日本の針路をどのような方向に求めるかに関わる、長期の、ずっと大きい問題もある。それらについても、緊急な問題の解決、応急措置のあとで、メディアにしっかりした見識を示してもらいたいものだ。
「人間は、自分で自分の歴史をつくる。しかし、人間は自由自在に、自分でかってに選んだ事情のもとで歴史をつくるのではなくて、あるがままの、与えられた、過去から受けついだ事情のもとでつくるのである。あらゆる死んだ世代の伝統が、生きている人間の頭のうえに夢魔のようにのしかかっている」。
与えられた現実を変革し、新しい歴史をつくり出さなければならない状況に置かれた人間の直面する危機を、前掲の本のなかでマルクスはこのように描くとともに、そのとき、安易に過去の例に倣ったり、インチキな真似をしたら、それはまさに茶番に堕すだろう、と警告する。それを避けるには、一見過去のものと同じようにみえる現在の歴史的事件のなかに潜む差違、その独自の新しい意味を見出し、それにふさわしい対応を行うことだ、という。
福田首相の辞め方がどうであれ、今度の総選挙の意味は、過去のそれらとどう違うかを、メディアは真剣に考え、混沌と迷妄をつくり出す手伝いをする愚を避け、市民に新しい歴史の行方について、明瞭な展望を示していかなければならない。
(終わり)