桂敬一/元東大教授・日本ジャーナリスト会議会員/メディアウォッチ(42)朝日『広告月報』休刊に感じる時代の変化―マス・メディアはもはや「昔を今になすよしもがな」か―09/03/22


 

マスコミ九条の会 メディアウォッチ(42)

 

朝日『広告月報』休刊に感じる時代の変化

―マス・メディアはもはや「昔を今になすよしもがな」か―

 

 

 この4、5日のうちに溜まった郵便物を整理していたら、朝日新聞から送ってくる広告局の広報誌、『広告月報』の封筒があり、開けたら3月号が入っていた。ところが、表紙裏と目次のあいだに、ペラ1枚の紙が入っており、「今号をもって休刊。今後は、6月からウェッブサイトと予約申し込み者宛のメールマガジンにて情報発信を再開」という挨拶が記載されていたので、なんともいえない複雑な気分になった。

 

 天野祐吉・島森路子が編集長として名を馳せた、『広告批評』のこの4月での「休刊」というのと、同じぐらいのショックだ。おそらく一般の人には、馴染みのない刊行物で、不景気や経費節減のせいで、企業宣伝のためのサービスPR誌がここでも消えたか、ぐらいに受け止められるだけだろう。

 

 だが、大企業宣伝部の企画・調査関係者や、マスコミ界では広告会社の人たちには、よく知られた広報誌だった。また、出版界でも数年前ぐらいまでは、『広告月報』は、出版動向の情報提供に重きを置いていたせいもあり、またその年末号は決まってその年の出版界回顧を特集、版元や著者、主要な刊行物について値踏みを試みたりしたもので、気になる広報誌だった。

 

 さらに、今やテレビ会社の対外向け広報誌のほうがはるかにりっぱになっているが、これらも、媒体は異なるものの、新しいメディア広報誌のスタイルを追求するうえで、『広告月報』は大いに参考になるものだった。なぜ、それほどまでの評価を得ることができたのだろうか。

 

 同誌は1960年、まさに高度経済成長政策の開始とともに、創刊された。すなわち、岸信介内閣・日米安保条約改定強行の「政治の季節」が終焉、池田勇人後継内閣が「所得倍増計画」を掲げ、日本初のケインズ的内需拡大政策を展開、「経済の季節」が始まったときだ。

 

 それまで無駄遣いを戒めてきた経済観を一掃し、「消費は美徳」とするスローガンを、政府が率先して唱導しだした時代に、『広告月報』は広告を切り口に、アメリカ流のマーケティング、PRの思想を輸入し、企業の成長は近代的なマーケティングの理論と手法を生かすことによって達成される、と説いた。

 

 もちろん、そこでは広告をどのように活用するかが訴えられていったわけだが、それは一方で、広告会社と新聞・雑誌など媒体双方の、前近代的な広告営業の刷新も、精力的に呼びかけた。当時、ちょっとしたビルの入り口には「獅子舞い・広告取りお断り」などの貼り紙がよくみかけられたものだが、いってみれば賎業と見られかねなかった広告業務を、近代ビジネスに不可欠なパートナーとしての地位に引き上げていく必要にも、関係者は時代の変化の中で迫られていたのだ。

 

 50年代末、東京の産経新聞(当時は産業経済新聞)が『サンケイ・アドマンスリー』という広告広報誌を発行していた。大阪から東京に進出してきた、まだ若かった東京の産経新聞には、若くて英語に強いスタッフがそろっていた。

 

 古い習慣を顧慮する必要のない彼らが手がけた『サンケイ・アドマンスリー』は、広告先進国、アメリカのマジソン・アベニューの話題を次から次に紹介、現代メディアが広告とは切っても切れないものとして存在する実情を伝え、日本でも生まれたばかりのテレビを含め、メディア界がこれから先、急激に変貌することを、告げていた。

 

 だが同誌は、60年代に入り、社業不振のため経営者が創業者・前田久吉から財界の大物、水野成夫に変わるのに伴い、廃刊され、そのあとを埋めるものとして『広告月報』が脚光を浴びることとなった。

 

 広告界にも、電通の発行する週刊紙『電通報』・月刊誌『アドバタイジング』、博報堂の季刊誌『広告』、月刊専門誌『宣伝会議』などがある。その中で『広告月報』がなぜ、注目されたのだろうか。のちにそのクリエイティブ(広告表現)に関する情報や議論の部分は『広告批評』などに引き継がれていくが、広告という経済活動と表現活動を、現代マスコミュニケーションを特色付ける不可欠な要素として位置づけ、さらに広告は、それを含むメディアのジャーナリズムの重要な要因ともなる、とする見方を示したことが、第1の理由となるだろう。

 

 上記の広告会社の諸誌や広告専門誌は、ある意味で広告業界誌的世界を脱することがむずかしい性格のものだが、これに対して『広告月報』は、新聞読者に対して向かい合う立場かを生かし、社会的コミュニケーション全体、あるいは自分たちの営為であるジャーナリズムとしての立ち位置、さらには望ましい経済社会のあり方などとの関連で広告の問題を押さえ、いわば広範な広告ジャーナリズムというべき言説の世界を切り拓いていったところに、『広告月報』独自の面目があったといえるだろう。

 

 第2としては、自社経営改革の一環としての広告業務の改善、それを通じての媒体ビジネスの近代化・広告界の近代化に朝日新聞の広告部門が熱心に取り組み、その際、『広告月報』が理論的な啓蒙・主張、諸調査の実施経過・獲得データの報告、広範な関係者による討論などの場として活用されてきたことが、特筆される。例えば、50年代までの新聞の広告取引は、媒体の広告部長と個別の広告主を担当する外交員だけが知っている「持ち単価」が、媒体の代理人である広告代理店の担当者に委ねられ、それを元に広告主の宣伝担当者との間で秘かに交渉が行われ、値段が決まるという、極めて不透明なものだった。

 

 広告会社にも、どの広告主企業にも、ガラス張りの料金表と共通の取引ルールを公平に適用するのでなければ、大量の広告を集めることはできない。そこで朝日は、広告の契約期間が長ければ長いほど、またその間の月間出稿量が多ければ多いほど、単位当たりの広告料金割引率を大きくする料金逓減方式の料金表を作成、60年代初めには名実ともにその運用体制を確立したが、『広告月報』は、その推進に大きな役割を果たした。

 

 また、新聞の広告媒体の価値は部数で決まる。だが、激しい販売競争に明け暮れる販売部門は自称部数を誇大に示し、実売部数は隠す傾向があった。これでは広告主の信用は得られない。

 

 そこで広告部門が熱心に働きかけ、販売側の抵抗を押し切り、第3者による販売部数の認証機関をつくった。日本ABC(Audit Bureau of Circulations)協会の設立だ。その実現にも朝日の広告局が先頭に立って推進、『広告月報』も役に立つ情報の提供や意見の紹介に努めたのだ。

 

 さらには、配られた新聞が読まれているのかどうか、そこに掲載された広告が見られているのかどうかも、問題にすべきだ。そこで新聞の閲読調査・広告注目率調査(readership survey)が開発され、データの蓄積と利用が促されていく。ここでも朝日新聞と『広告月報』が果たした役割は、たいへん大きい。

 

 同誌の広告ジャーナリズム誌としての大きな特色は、世界各地の特派員から、現地市民の暮らしぶりや地域社会の出来事・問題をめぐる多様なリポートを寄せてもらい、掲載してきたところに、よく認められた。その中で、ベトナム反戦で揺れる60年代半ばのアメリカ社会では、反戦派市民がその意思を新聞への意見広告で示していることも、紹介された。

 

 やがて日本のベ平連が、65年・67年とNY・タイムズ、W・ポストに意見広告を出し、これが先例となり、朝日を筆頭に国内の新聞も、意見広告を載せるようになっていった。60年代末から70年代初頭にかけて、環境破壊・有害食品・表示偽装などで企業公害追及を叫ぶ消費者運動の勢いが、日本で一気に高まった。このとき一般報道とは別に、アメリカのラルフ・ネーダー率いる消費者運動の動向やFDA(食品薬品局)の活動も、『広告月報』は紹介した。

 

 また、アメリカでは産業界が自発的に自主規制機構「BBB(Better Business Bureau)」を設立、広告表示・商品パッケージ表示の改善、取引条件の整備を図り、消費者問題の発生を未然に防ぐとともに、起きた問題を自主的に解決する体制を整えてきたが、その活動を紹介、日本にも「BBB」をつくろうという運動を提唱、先頭に立って推進してきたのが、朝日新聞広告局であり、『広告月報』だった。

 

 今日のJARO=日本広告審査機構はこの運動の結果、媒体企業・広告会社・広告主企業によってつくられたものだ。

 

 このほか、広告掲載基準の整備、新聞広告倫理の向上などでも、朝日と『広告月報』の果たした役割には特筆すべきものがある。だから、突然の「休刊」には驚かされるのだ。だが、正直にいえば、ここ数年の同誌の内容を思うと、やっぱりそうだったのかと、思い当たるところがあるのも、事実だ。とくに2000年代に入ってからの『広告月報』は面白くなくなっていた。

 

 かつてあった、時代の変化を先取りしたピリピリした感じ、勢いがなくなっていた。目次に並ぶのは、業種別・企業別の広告サクセス・ストーリーばかりで、これでは広告主にお愛想を述べているだけではないか、と思わせられた。

 

 媒体データも、自社部数など、おざなりのものばかりで、新しく開発したマーケティング・データにお目にかかることが、なくなった。

 

 代わって対照的に、90年代末に創刊された、読売新聞広告局が発行する『読売ADリポート ojo(オッホ)』の充実ぶりが、質量ともに目立つようになってきた。同誌は最初のうちは、到底『広告月報』の足元にも及ばない、という感じのものだったが、2000年代も半ばになると、広告・マーケティングの資料や読物の提供はもちろん、特派員を動員した海外便りにせよ、経済部記者や外部の寄稿家の協力を仰いだ経済動向に触れた読み物にせよ、多彩な紙面を実現、広告ジャーナリズム誌というにふさわしい、見違えるほどの存在となり、今日に至っている。

 

 日本経済新聞の『日経広告手帖』は広告主企業向けの広報誌として割り切り、もっぱら実務的な情報に重きを置いているが、『ojo』はもっと幅広く広告を論じ、考えさせる場を設け、経済学者、マーケティング研究者など、アカデミズムの人たちもしばしば登場させ、かつての『広告月報』のお株をすっかり奪った感じだ。

 

 いったいこれはどうしたことなのだろうか。部数は読売に負け、広告売上げの伸びも、もうそう大きくは期待できず、むしろ減収によって経費節減に追われ、やむなく不要不急の出費はカットするしかない―媒体プロモーションの効果が認められなくなった『広告月報』は止めだ、ということなのだろうか。そういう判断は、広告局の主体的な判断なのだろうか。あるいは経営トップの判断なのだろうか。

 

 どっちにせよ、貧すりゃ鈍するで、しょうがないということかと、索漠たる思いに駆られる。というのも、最近の朝日新聞の広告を見ると、かつての見識、敢えてこの広告をなぜ掲載するかとする気迫が、すっかり消え、目を疑いたくなるような不見識がさらけ出される場面にぶつかることが、多くなったからだ。編集紙面に賭博性を強めるパチンコ業界を批判する記事が載った。

 

 ところが、程なくして08年12月1日の朝刊には、見開き2ページ、スポーツ記事に変則的に割り込んだ、パチンコ・メーカーの多色広告が、どかんと載った。12月9日の朝刊は真ん中に、多色8ページの企画広告特集を挟み込んだ。その3ページにわたって、小泉政権時代の郵政民営化担当大臣、竹中平蔵の大写しの顔写真が載った。「今こそ、未来のためのトライアルを」がキャッチの金融・証券会社の連合企画だ。

 

 すでにアメリカ発の金融危機が、日本にも世界同時不況を呼び込んでいる。悪い冗談ではないか。新年1月9日の朝刊にはサラ金大手、大手銀行の系列に唯一取り込まれなかった武富士の全面カラー広告。朝日の前社長は『週刊朝日』が武富士提供の編集費を使い込んだ問題で責任を取り、社長を辞任したのではなかったか、と思い出した。

 

 3月5日朝刊は月刊『潮』4月号の全面広告(他紙は5段)、同11日朝刊は聖教新聞社の出版広告。全面カラー広告の紙面には、池田大作著の書籍の名が5本並んでいる。創価学会のカネ払いのよさがうかがえる。同20日朝刊は東京・大阪・北九州の朝日プリンテック(系列印刷会社)の全面カラー広告。いってみれば自社広告だ。あるいは別会社になっているのだから、少しは料金を取って稼いだのか。こうした事例を見るにつけ、なにがなし情けなくなってくる。

 

 紙の新聞はダメになる。まず売れなくなる。そうなれば広告も取れなくなる。あとはネットで局面を打開しなければならない。休刊を決めた『広告批評』も、「マスメディア広告万能の時代は終わった」といっている――。だが、本当にそれでいいのか。

 

 『広告月報』は、マス・メディアとしての新聞媒体の近代化に全力を挙げ、その結果、マス・メディア広告としての新聞広告の創造に貢献、それによってまた新聞媒体に新しい活力を与えてきた、これまでの自分の果たした役割の意味を、もう一度考え直す必要があるのではないか。紙としての新聞が、これまでどおりのやり方だけでやっていける時代でなくなったのは、確かだ。

 

 しかし、紙が全廃されるわけではない。個別のニュースに対する一定時点における価値の比較、全部のニュースに対する相互関連性による分類と空間配置の決定。こうしたエディターシップの発揮と持続は、紙の新聞を実現する作業によってしか維持できない。それはとりもなおさず、ジャーナリズムという言説の維持だ。

 

 ネットのみによる作業は、いくつかのシングル・ラインの途絶えることのない流れのなかで、情報のフラグメントを扱うものとなり、娯楽コンテンツや経済データなど、実際的な利用価値をもった情報しか、生み出し得ない。それらは、そのもの自体だけでは、総合的な意味をもった言説、批判的な意味に価値が置かれるジャーナリズムの言説とは、なり得ない。新聞は、ネットをどのように利用すべきなのだろうか。

 

 これまでのところ、紙で売れなければ、ネットで売ろうという方策ばかりが、検討されている。コンテンツ配信というような考え方だ。だが、それは違うのではないか。マス・メディアとしてのジャーナリズム性を強めるために、読者、地域住民との接点を増やし、双方向の交流を密にするためにこそ、ネットを活用すべきなのではないか。

 

 情報の出口としてネットの商品化を考えるのでなく、多様な情報の入り口としてネットを新しいマス・メディアの武器にしていくことこそ、まず先に検討されるべきことなのだ。こうした新聞の媒体的構造改革が図られるときに、では広告は何をすべきか、何ができるかを、本来なら今こそ『広告月報』は自らの課題とし、それと取り組んでいくべきではないのか、と思えてならない。

 

 今やネット広告は、訴求対象に的を絞り、効果的な購買誘引を行い、効率的に取引決定の処理にまで消費者を誘っていく。こんなことは、ディスプレ機能しかないマス・メディア広告には到底真似できない。しかし、属性の異なる、不特定多数の大量の読者に向けて、同一のメッセージをほぼ同時に送れるマス・メディアとしての新聞は、私的な情報消費行動に読者を誘うネットとは異なり、公共の事案に対する関心を喚起し、ばらばらな人々を、共通の問題意識をもった市民、公衆に変えていく力をもっている。

 

 そうした媒体の一部として存在する新聞広告、マス・メディアとしての広告にも、ネット広告とは異なる独自の価値や役割があり、そうした可能性を具体化していくことが、ネット時代の新聞広告にとって新しい課題となるのではないか、と考えられる。

 

 広告が本来、生活者のさまざまな関心、欲求に応えるものとして生まれ、発展してきた歴史的経緯を振り返れば、新聞広告においても、ネットを消費者への情報の出口に、とする方向のみで考えるのでなく、それを生かしてより深く生活者=読者の欲求、関心を探り当てるツールとして活用していくことの検討が、まず必要だ。

 

 生活情報の種類を地域性および専門性、あるいは機能性に分けて考えてみれば、地域住民相互のあいだでの情報交換、住民と地元小事業者の情報交換が広告の対象になるとか、各地産物の売買、各地催事・行事の告知、市民運動団体や自治体・行政機関の広域の広報などが、ネット時代においても、というより、ネット時代になればますます、マス・メディアにふさわしい広告として見直されるなどの可能性があることも、理解できる。

 

 いまさら高度成長時代のビジネス・モデルが通用するわけはない。広告で大儲けをと考えるのでは、話にならない。だが、ネット時代に新聞ならではの広告を創造し、それによって新聞媒体そのものの全体的改造に貢献することが、新聞広告に求められる状況に、再びなっているのが今ではないのか。

 

 残念ながら『広告月報』は休刊する。だが、折りを見て復活、このような新しい情勢に応えることのできるものとして、いつの日か活動を再開して欲しいと思う。放送界では老舗のTBS『調査情報』がバブル崩壊時、いったん休刊、3年4ヵ月後の96年9月、復活・再刊した例もある。(終わり)