桂敬一/日本ジャーナリスト会議会員・元東大教授/メディアウォッチ(60) プロとしての誇り―ジャーナリストのディグニティを考える 12/08/02
メディアウォッチ (60) 2012年8月2日
プロとしての誇り―ジャーナリストのディグニティを考える
桂 敬一(日本ジャーナリスト会議会員・元東大教授)
1974 年3月から足かけ4年、社団法人日本記者クラブの創設に、総務部長として関わった。クラブは当時、帝国ホテルに間借りの身で、ようやく76 年7月、新築された現在のプレスセンター・ビルに移転する。その間、クラブの会員組織・施設建設などで苦労させられたが、ここで語りたいのは、そのときの体験を通じて、日本でジャーナリズムとはどうあるべきものなのか、いろいろ考えさせられたことだ。
日本記者クラブの創設が新聞・放送界の総意で決まり、設立総会が開かれたのは69 年10 月。敗戦から24 年も後のことだ。きっかけは、翌70 年3月に始まる大阪万博だった。各国パビリオンには当該国の首脳が相次いで訪れる。これに対して外務省は、接遇スケジュールに公式記者会見をセットしなければならない。省内の外務省記者会(霞クラブ)の会見ですますわけにはいかない。日本のプレスを代表する組織にホスト役を務めてもらい、在日外国特派員や同行記者団も受け入れ、会見を開く必要がある。どこの国の政府でも報道界の協力を得てやっていることだ。だが、日本の報道界にはそうした組織がなかった。新聞協会や民間放送連盟は業界団体であり、ジャーナリストの全国組織ではない。困った政府から、そういうホスト役が務められる組織をつくってくれ、とせっつかれ、メディア側としても、それはそうだということになり、できたのがこのクラブだ。
戦後24 年以上のあいだ、外国からVIPゲストがこなかったわけではない。いや、戦後は戦前よりずっと外国人の来日が多くなった。そして、重要ゲストを迎える会見の場は、米軍占領時代にできた「外人記者クラブ」(正式名称=日本外国特派員協会)だったのだ。そのクラブ・ハウスは、米軍が占領接収した丸の内「一丁ロンドン」に建つ、いまはなき三菱9号館別館だった。親方星条旗のおかげで米国従軍記者団は、タダ同然でそこに居を構え、自分たちのプレスクラブを設立、ついで連合国の記者もメンバーに加え、さらには国籍を問わず、広く在日外国人記者全般や、海外特派員の経歴をもつ日本人記者も対象に含め、会員を広げていった。重要ゲストの来日予定情報のキャッチも、日本のメディアよりこちらのほうが大方早い。長いあいだ、訪日VIPゲストの記者会見は外人記者クラブで開かれ、日本人記者はそこに取材させてもらいにいく、というのが常識だったのだ。不思議なのは、敗戦後数年程度ならまだしも、24 年ものあいだ、日本の政府も政治家も、メディア経営者も記者も、この慣わしをおかしいと思わなかったことだ。
万博で訪日する要人の会見が、みな外人記者クラブ任せでは国辱ものだ、とあわてた外務省の心配は、日本記者クラブの出現で消え、万博以後も外務省は、来日する国賓・公賓に関しては、クラブに公式会見の開催協力を、申し入れるようになった。また、新内閣の発足に伴う首相や重要閣僚の会見が、クラブ側の申し入れに基づき開かれるようになり、さらに各党党首、財界団体代表、著名学術研究者などの会見も、クラブ・サイドの自主企画として開催されるようになった。これらは、外人記者クラブのメンバーほか、外務省発行のプレス・カードを帯同する訪日外国人ジャーナリストの取材にも開放された。これでみかけ上は、かつてと立場が逆転した。しかし、それだけに安住するようでは、第一線で生の「ニュース」を追跡する現場記者、ワーキング・プレスが切実な関心を抱くクラブにはなれない。退役した老記者の懇親の場に終わるおそれがある。
そこでクラブの企画委員会は74 年ごろから、時局的な事案にも進んでアプローチし、各現場取材の分野や境界を超える問題に関しては、情報源となる人々をこのクラブに招き、記者会見の場を設けていく、とする方針を立て、事務局にその実現を促すことになった。その一環として折衝に当たった事例を思い浮かべると、日弁連の会長になったばかりの堂野達也弁護士を招いた会見(74 年6月)が忘れられない。信濃川河川敷事件、上越新幹線用地事件など、飛ぶ鳥を落とす勢いの田中角栄首相の金脈問題が世間を騒がせ始め、法曹界でも政治資金規正をめぐる議論が高まった矢先だった。堂野新会長のお出ましをお願いしたところ快諾を得、早速会見を設定、関連現場である司法記者会(裁判所の記者クラブ)はもちろん、国会記者会、内閣記者会、主要政党クラブほか、各社論説委員にも案内を出した。政治資金規正問題はすでに、広い範囲に関わる政治問題と化していた。
反響はよかった。案内先からは出席の回答がつぎつぎと返ってきた。ところが、驚くべきことが起こった。開催日の二、三日前ごろ、司法記者会の幹事から電話がかかってきたのだ。「堂野日弁連会長の記者会見はわれわれのクラブでやるべきものだ。日弁連の信義違反でそちらでやることになったが、われわれとしては不本意であり、クラブ決議でそちらの会見には全員いかないことにしたので、その旨お伝えする」。とりつく島のない通告だ。電話がガチャンと切れた。そばにいた女性職員が、なんですか、と不審そうにたずねた。わけを話すと、どうしますか、と心配した。「大丈夫。建前でそういっても、仕事熱心な記者なら、お忍びでくるから」。そして、実際にそれらしい記者が何人も取材にきた。しかし、やはりおかしな話だ。仕事するための理屈でなく、仕事をしないための理屈をこねるのだから。記者クラブとはへんなところだ。
74 年3月、前年9月のピノチェトによるクーデターで亡くなったチリのアジェンデ前大統領の未亡人が来日した。亡夫の遺志を受け継ぎ、チリの独裁政治とこれを応援するアメリカへの抗議を世界に広める行動の一環で、婦団連や原水協などの民主団体が招待主だった。この情報を知った私は、未亡人の国内行脚を計画している招待側事務局を訪問、日本記者クラブ主催の会見日程を入れて欲しい、と頼みにいった。日本記者クラブなるものがなかなか信用されず、手こずったが、婦団連会長の櫛田ふきさんが理解してくれ、また、あとで事務局担当者から聞いたことだが、ナショナル・プレスクラブの招待だといったら、未亡人が喜んで出ると答えた、ということで、話はOKとなった。ところが、事務局担当者から「条件がひとつある。会場カンパをさせてくれ」という話が出たのには困った。申し訳ないが、そういう催しではない―やってもいいが、それをやれば、かえってみなさんが恥をかくことになります、といって断った。なんとも切なかった。会見は、内外報道界の有力ジャーナリストが集まる、緊張感に満ちた、格調高いものとなった。
飛鳥田一雄横浜市長が招待したミッテラン仏社会党第一書記の会見(75 年3月)も思い出深い。この招待は、市長の知恵袋、関東学院大のある教授の発案だった。前年の大統領選挙で、ミッテランは僅差でジスカール・デスタンに惜敗、話題を撒いた。そこで知恵袋教授がミッテランに着眼、全国革新市長会のゲストとして招いたまではいいが、ほかに彼を「活用」する特段のアイデアがないことも、折衝に出向いてわかった。なかなか会見設定の承諾が出なかったが、大物ゲストの扱いに困り、もてあます空気が漂うころ、やっとOKとなった。「会見にはホストの飛鳥田さんの同席が必要です」と私。「市長はほかに予定がある」と知恵袋教授。「ゲストはすでに大統領同等のステーツマンです。接伴大使のエスコートとはいわないが、このケースにふさわしい接伴者は飛鳥田さんご本人しかいません。市長の予定はキャンセルしてください」。会見当日、飛鳥田市長が杖をつきながら登場した。フランス大使館の広報担当者も会見に参加、しっかり見届けていた。何年か経ち、飛鳥田社会党委員長、ミッテラン仏大統領が、またこのクラブを訪れた。
日本記者クラブという場でみていて、日本の記者と欧米系外国人記者とのあいだでは、記者会見に臨む取材姿勢が違うことにも、気づかされた。外国人記者は、重要な事案であり、また会見に現れる人物が重要であればあるほど、他社の多くの記者が同席する公開の場でハッスル、自分独自の材料を進んで開示しながら、明確な回答をするよう相手に迫る。これに対する回答が真実を告げるものなら、大ニュースだが、それを外国媒体なら、「政府はX日の会見で、A新聞・B記者の質問に答え、C事件に関するこれまでの公式発表には過ちがあり、同記者の指摘したことが事実であると認めた」というように報道する。みんなしてB記者の貢献を評価するのだ。ところが、日本の新聞は、このようなケースの場合、B記者が自社の人間でないと、「政府がC事件について過ちを隠蔽してきたが、実際には・・・であることが、X日までにわかった」というような書き方しかしないことが多い。そもそも日本人記者は、公開の記者会見で自分の持ちネタを人前にさらけ出すことはしない。そのネタに関する話は、情報源にこっそり聞くことにし、自社だけのスクープを狙うからだ。記者会見を公共の場として活用し、そこで大ニュースの暴露を競うのがジャーナリストの甲斐性だ、とするセンスが、残念ながら日本の記者にはないのだ。
しかし、嬉しいこともあった。ロッキード事件捜査が進展した76 年8月、京都地裁の鬼頭史郎判事補が検事総長を騙って三木武夫首相本人に電話をかけ、事件捜査への指揮権発動を求め、首相の政治介入を誘い出し、問題化しようとした陰謀事件が起こった。鬼頭はこのときの会話を録音したテープを報道関係者に聞かせ、首相糾弾を煽ろうとしたが、電話の怪しさに気づいた首相サイドも情報を開示、報道陣が鬼頭を追いかけ、問い詰めようとする動きが生じた。司法の記者だけでなく、官邸・国会・警視庁のクラブに属する記者たちも加わっていた。11 月5日、そのなかの記者から、「会見のできる場所があれば、鬼頭判事補がわれわれと会ってもいいといっているのだが、会見室を貸してくれないか」と日本記者クラブの事務局に電話をかけてきた。夜はかなり遅くなっていた。会見室は空いている。そのようなことでこのクラブが一線の記者に役立つのなら本望だ。承諾すると、間もなく大勢の記者が鬼頭を囲んで現れ、会見室で熱心なやりとりが始まった。報道陣はこの共同取材で、鬼頭の謀略の実態を、かなりはっきり突き止めることができた。
新聞でも放送でも出版でも、どこかの立派な会社に入り、そこでちゃんと仕事ができるようになれば、プロの記者・編集者、一人前のジャーナリストになった、ということなのだろうか。それはせいぜい、その会社の色に染まり、同僚、上役や、経営者ともうまく折り合って仕事ができるようになった、というだけのことではないのか。本当にプロのジャーナリストといえるものは、どのメディアに雇用されていようが、あるいはフリーランスで活動していようが、立場を超えて、自国のメディアやジャーナリズムの望ましいあり方、自分たちジャーナリストが築くべき国家または市民とのあいだの関係形成などについて、共通した理解や信念をもつことができる人たちではないのか、という気がする。そういう意識や理念を共有する職業世界の一員になれたという自負こそが、ジャーナリスト各人の集団的なアイデンティティ、プロ意識をしっかりつくりあげるものなのではないか。
これまで書いた私の体験談は自慢話ではない。ジャーナリストみずからが主人公となるべき「王国」(realm)のあり方、それを自分たちでつくりあげ、統治していくための方途、この「王国」の存在をどうしたら世間が受け入れてくれるかの条件、などについて考えさせられた体験的挿話を、少々紹介したまでだ。そのような「王国」ができたら、そこに属することに由来する集団的アイデンティティは、ジャーナリストに固有の自尊、矜持をもたらすに違いない。それらこそ、本物のディグニティ(dignity)というべきものであろう。英語では多分に、威厳と同義に解される向きがある言葉だ。だが、語源となるラテン語の形容詞「dignus」には元来、“ほかのものにはない、そのものだけに備わるふさわしさ”という意味があることに、留意する必要がある。既存メディアが伝統的な産業的システムを崩壊させつつあり、ジャーナリストの職業環境も激変の渦中にある今、ジャーナリストがみずからのディグニティをどのように確立し、それをいかにしてより強固なものに鍛え直していくかが重要な課題になっている、といえるように思える。
最近の脱原発運動の市民的取り組みは、その内部に新しい独自のメディア・アクティビティを発展させながら、日本の戦後社会でも初めてというべき大きな社会運動の盛りあがりをみせている。その内部からの発信者たち、情報・コミュニケーションの組織者たちの存在を、既存のプロのジャーナリストが無視したままでは、市民の評価や信頼を得るに足るジャーナリズムは、達成し得ない。グローバルなエネルギー問題の特性を考えれば、日本の原発問題も、グローバルな視野の下でその解決を検討しなければならないことが、歴然とする。日本のジャーナリズムが、国内問題を捉える視点のみから原発問題に向かい合う限り、現代世界の水準に合致するジャーナリズムとはなり得ないことも、明白だ。
最近、ある新聞社の現役記者が、官邸前の反原発デモに集まる市民たちなどからのツイッターによる批判に対して、「新聞やテレビが政府や東電の意向を受けて『安全』を強調したという事実はない」「『大本営発表』という批判にも違和感があります。政府や東電は最も重要なニュースソースですから、発表をきちんと報じるのは当然です」「東電が誤った状況判断をしたときに、それを正す質問や追及をできなかったことは事実ですが、取材する記者が東電の原発担当者に匹敵する知識がないことは半ば仕方がないこと」「東電担当者に匹敵する知識があったフリージャーナリストの名前を教えてください」などとリツイートでつぶやき、応答している光景を目撃した。悲しかった。これからの世界標準のジャーナリズムにおいても、弱者の側に寄りそう姿勢の堅持は、近代ジャーナリズムの原理として変わらぬものであろう。自分がしなかったこと、できなかったことのいいわけに終始するのでなく、弱者の悲嘆や怒りの真意を探り当て、それに応えられるよう努めるのが、プロのジャーナリストとしてのディグニティに適うことなのではないか。(終わり)