「マスコミ九条の会 公開市民セミナー」

第2回 講師 古関彰一(獨協大学教授) 2008.05.30

  「対米従属の起源をたずねる―占領期における民主化と反動の葛藤」の講演を聞いて―

    

メディアは今 何を問われているか

桂 敬一・日本ジャーナリスト会議会員

   

「対米従属」はいつだれによってつくられたか

 ―古関教授による日本固有の「従属」の特徴の解明―

 

 アジア安全保障会議でシンガポールを訪れた石破茂防衛相は、5月31日、現地でアメリカのロバート・M・ゲーツ国防長官と会談した。会談でゲーツ長官が、在日米軍再編は「スケジュール通りの実行が非常に重要だ」と述べ、沖縄の米軍普天間飛行場の2014年までの移設など、日米合意の履行を求めたのに対して、石破防衛相は「誠実に進めていきたい」と応じた、ということだ(朝日・6月1日朝刊)。

 

 一方、読売(同日朝刊)によれば、長官は「(日米で合意した)ロードマップに従い、スケジュール通りに進めることが重要だ」と述べ、普天間飛行場移設案の修正に反対する姿勢を改めて示し、石破防衛相も「その通りに誠実に進めていきたい」と語った、という。なお読売は、石破防衛相が、日本は在沖縄米海兵隊のグアム移転に60.9億ドル(1ドル105円として約6,395億円)も負担するのだから、「日本国民への説明責任もあり、お互いに情報提供や意見交換をきちんと行う必要がある」と求めたのに対して、長官も「その用意は当然ある」と同意した、とも報じた。

 

 さらにゲーツ長官は1日、現地での記者会見で、在日米軍人による犯罪に関連して、米軍再編で沖縄の戦闘部隊を削減できれば、同種の事件の減少にもつながると指摘し、日米政府の当初合意通りの再編実施の重要性を、再度強調したそうだ(朝日・2日朝刊)。「ウチの若いもんのなかには、もうお前んとこにいたくねえのもいるわけさ。追っ払ってやるから早くいうとおりにしろ。そうでねえと、奴らがまた悪さしても、わしは知らんぞ」と、脅されているようにも聞こえるが、思い違いだろうか。

 

 いったい何で日本政府は、こんな勝手なことをいうアメリカに対して、大金をはたき、「誠実」にいうとおりにします、などといわなければならないのだろうか。「マスコミ九条の会」企画・主催の公開市民セミナー「日本はなぜ『対米従属』を断ち切れないのか」の第2回講義(5月30日)は、古関彰一・獨協大教授を講師とする「対米従属の起源をたずねる」がテーマ。

 

 憲法制定史が専門の古関教授は、占領期のアメリカの対日姿勢の変化を分析、刺激的な見解を披瀝した。一般に日本人は、戦争に負けたのだから、敗戦国としての日本は、戦勝国・アメリカ占領軍=GHQのいうことを聞かねばならなくなったと、従属化の淵源を敗戦=屈従という関係のなかに探しがちだ。

 

 だが、古関教授の見方は異なる。占領当初の米政府(国務省・国防省)は、日本統治の具体的なあり方には直接関与せず、それは占領の現場担当、マッカーサー元帥が統率するGHQにすべてが任されていたと、まず指摘する。「天皇及日本国政府の国家統治の権限は、連合国最高司令官としての貴官に従属する(subject to GHQ/SCAP)。・・・われわれと日本との関係は、契約的基礎の上に立っているものではなく、無条件降伏を基礎とするものである。貴官の権限は最高であるから、貴官はその範囲(日本が受け入れたポツダム宣言の解釈)に関しては日本側からいかなる異論も受け付けない」と記す、米統合参謀本部の元帥に発した通達が根拠だ。

 

 そして教授は、GHQのやり方は基本的に、日本も受諾したポツダム宣言の、「日本を世界征服へと導いた勢力の除去(6条)」の忠実な実行を目指すものだった、というのだ。

 

 占領は、日本政府の統治を通じて実施される間接的なものとされ、政府には厳しい従属と強制が及ぼされた。だがそれは、政府や保守・支配勢力の非軍事化・民主化のかたちを取るもので、国民には各種の強制が直接及ぶことはほとんどなかった。国民に向かっては、天皇が、ポツダム宣言は国体の護持を認めたからこれを受諾した、と述べたり(終戦の詔勅)、日本政府も自分に強いられた「従属」を、たとえば「占領軍」を「進駐軍」と言い換えたりし、それらをGHQがとくに咎めることもなかったので、天皇・政府に対する占領軍の厳しい強制は、国民にはみえにくいものとなっていた。

 

 一方、GHQは、鈴木安蔵たちの「憲法研究会」の憲法草案要綱案を高く評価、そのアイデアを新憲法立案に採用したにもかかわらず、これを日本の国民の前でとくに称揚することもせず、できた新憲法案を、いやがる政府に強引に「押し付け」、のちに自民党から「押し付け憲法」といわれるいきさつを残した。天皇制については、神道の政治に結合する部分を否定したものの、私的な部分=天皇家の宮中祭祀の維持・継続は許した。

 

 吉田茂政権は強力に反対したが、GHQはこれを厳しく退け、大逆罪、不敬罪を刑法典から削除させた。憲法上の天皇の実質的な政治的権限の保有も許さないことにした。これは、天皇の戦争責任を免責するためであり、新憲法の戦争放棄規定との調和を考えてのことでもあった。マッカーサー元帥は昭和天皇に全国行幸を奨め、天皇も復興に勤しむ国民をせっせと激励して回った。昭和天皇は戦時中と違うこの新しい仕事のやり方を、気に入っていたようだ。

 

 GHQは昭和天皇に民主化は強要したが、従属化を強いたわけではなかった。軍の解体、戦犯裁判、財閥解体、農地改革、警察改革=自治体警察創設などは、国民には従属・強制と映るより、解放・自由化とみえたはずだ。占領批判を禁止する事前検閲制度は、報道・表現関係者には厳しさが痛切に感じられたが、巧妙に隠蔽されたので、一般の人に気付かれることがなく、国民は見かけ上の表現の自由、知る権利を満喫した。とくに戦時中禁じられていたアメリカ映画がどっと流入してくると、自由の国・アメリカへの憧れが高まり、「進駐軍」を自由の体現者、彼らが持ち込む風俗を新しい魅力的な文化とみなす風潮が広まった。

 

 占領軍は民主化を強く表に出し、日本政府に対する従属の強要はできるだけ後ろに隠した。日本の政府は政府で、これに屈服しつつも抵抗をつづけ、国民の前では自分が自主的に振る舞っているかのように見せかけてきた。こうした同床異夢的な「従属」隠しが成功した期間―国民がアメリカに対して強要感をほとんど抱くことがなかった時期は1948年、朝鮮が南北に分断、固定され、中国で人民解放軍の全土制圧が目前に迫るころ、終わる。

 

 米国務省が冷戦政策に転換、日本に対しても民主化推進より、アメリカの冷戦戦略に役立つ国とするための政策の適用を、求めだしたからだ。GHQ民政局(GS)のホイットニー准将、ケーディス大佐はこれに反対であり、マッカーサーも最初は彼らを支持した。しかし、今度は国務省が前面に出てきて、対日政策の転換を直接ごり押しすることになった。大きな転換点は朝鮮戦争の勃発だった(1950年)。マッカーサーは日本政府に、やがて自衛隊に発展する警察予備隊の設置を命じた。

 

 アメリカのこうした変化に対して、吉田首相は、日本の独立の早期実現に利用できるのを見越して妥協、のちに首相となる戦犯容疑者、岸信介も、初期の占領方針を「日本人のモラルの破壊に主眼があった」と嫌悪していたため、歓迎した。「逆コース」(1949〜51年のA級戦犯容疑者釈放・刑期短縮、公職追放解除など)が始まった。朝鮮戦争がつづくなか、アメリカ側の対日政策の主役は、最初は大統領特使として来日、のちに国務長官となったジョン・フォスター・ダレスに代わる。

 

 大国としての日本の復活を望む政府・保守勢力と、軍事的に役立つ日本を自国のアジア戦略のなかに加えたいとするアメリカ政府との直接交渉が始まり、サンフランシスコ講和条約と日米安保条約・日米行政協定が調印され(1951年。翌年発効)、日本は独立する。しかし条約は、第2次大戦の交戦国=中国や、植民地としてきた南北朝鮮を排除するものであり、日本の侵略を受けた東南アジアの国々は、アメリカにいわれて賠償権を放棄させられた(のちに任意賠償として日本が経済協力援助)。

 

 そのため日本は、アジア・太平洋地域で友好国を失った。日米安保にいたっては、「日本軍」は米国の最高司令官の統一司令部の下に置かれる、とするのが当初の米国案だった。さすがに日本はこれを拒否、それは安保からは外されたが、代わって行政協定24条に、「日本区域における敵対行為」などが発生した場合の「必要な協同措置」として、事実上加えられることになった。

 

 古関教授は、今日につづく「対米従属」の淵源は、アメリカのこのような対日占領政策の転換と、その帰結点としてのサンフランシスコ講和条約・日米安保体制の成立のなかにこそある、とする見方を提起した。この時期、占領軍と前面に出てきたアメリカ政府は、日本政府が復古的な政治勢力によってつくられても、自分たちの政策に協力する限り、その権力の正統性を保障し、民主化を強要することはしなくなった。

 

 日本政府の態度は、国民のアメリカに対する憧れや信頼を利用し、自分たちのアメリカに対する影響力を誇示、国内の支持を取り付けるとともに、米側には、対日政策の遂行にとって国民多数を統御する自分たちの協力が必要であることを、みせつけるものとなった。

 

 冷戦に目を奪われた国民の多くは、こうしたなかでの新しい「従属」の発生、あるいは変化を、正確には見抜けなかったかもしれない。だが、アメリカの圧力による再軍備の動きがひしひしと感じられる時代にはなっていた。

 

 古関教授は、このような占領終期から50年代初めの「対米従属」の特徴として、基地提供条項を含んだ安保条約(事実上の占領の継続)、反共の砦(沖縄・アジア諸国を犠牲にして米軍事戦略優先)、反アジア的性格、米軍事戦略への隷属(指揮権の事実上の委譲=サンフランシスコ条約・日米行政協定)、中立化への道の遮断(アジアで台頭した非同盟主義への参加の妨害。アメリカは中立化を在日米軍引き揚げで脅した)、米国による岸信介などの「実力政治家」の重用、日米政府関係の秘密主義(情報非公開、CIAの暗躍)、などを挙げる。

 

 さらに教授は、日本は米国の「何」に従属したのかと問い、アメリカの冷戦政策に忠実に従い、その従属のなかで秘密外交の体質を強めた日本の姿勢は、今もなお変わらない、と述べ、アジアにおける冷戦政策固執のため、近隣に友人がつくれず、ドイツがフランスという「友」を得て対米従属から脱したのとは対照的なのが日本だ、と指摘する。

 

 最後に教授は、対米従属に代わる「何」があり得るかと問い、国連をどう位置付けるか、日本の独自性=ナショナリズムをどう考えるか、と問題を提起した。教授はその答えは出さなかったが、「日本は昔から近隣に友をもったことがない。そのくせアメリカ1国だけとはこんな風につながっている。その異様さに気付かないのはおかしい。国家と国家の関係だけで現在の『従属』への対論を出すのではもうすまない時代に、われわれはきているのではないか」と感想を述べ、講演を締めくくった。

 

 古関教授の話は大変示唆的であり、いろいろのことを考えさせられた。一つだけいえば、占領初期の日本国民の、従属感・強要感なき占領時代のアメリカに対する憧れ、信頼、あるいは幻想は、その後の「対米従属」の過程にどんな影響をもたらしたのか、さらには今なお、もたらしつつあるのか、とする疑問である。

 

 思春期時代、フランク・キャプラの映画に感心した筆者としては、多くの日本国民が占領初期に、侵略戦争をしでかしたうえ敗北した自国に後ろめたさは感じても、戦勝に驕り高ぶるアメリカに屈辱的な従属感を舐めさせられたかといえば、それはあまりなかったはずだとする古関教授の指摘が、よく理解できる。アメリカの当初の民主化への熱意は、いろいろな意味で信頼できると思えたものだ。そのことから二つの問題が生まれてくる。

 

 第1は、アメリカの占領政策の転換、本国政府のむき出しの日本従属化・利用政策が出てきてからも、多くの日本国民のアメリカに好意を抱き、憧れる傾向はつづき、それが「対米従属」を見抜くことを妨げてきたのではないか、とする問題だ。とくに、「逆コース」、朝鮮戦争、再軍備、単独講和、60年安保などを経験しない世代は、少年期・幼児期からアメリカナイズされた現代日本文化のなかで育ち、その底にある「対米従属」に気付かされることがなかった、あるいはほとんど気付けなかったのではないか。

 

 第2は、そうした日本国民の好意的な対米感情の保持が、矛盾に満ちた「対米従属」の実体を隠していくうえで有効であることを、日米両政府はそれぞれの思惑から十分気付いており、そのための努力が両体制の側でなされてきたのではないか、とする問題だ。政府、教育、メディア、いろいろなレベルで、無意識のうちに、あるいはまた秘かな企みの下で、そうした努力がつづけられてきたし、いまもやられているのではないか。

 

 たとえば、2006年の小泉訪米を思い出すとき、彼は半分は本気で、アメリカ文化に心酔しており、半分は日本の政府代表者としてその気で、日米友好に一役買おうとしたのだと解釈できる、あえなくも「対米従属」のあからさまなサンプルとはなったが・・・。

 

 これらのことを考えるとき、日米関係の虚飾を徹底的に剥ぐことが必要だと、思わざるを得ない。その場合、「対米従属」の原点に立ち返って、今につながる問題を検討することの重要性を、古関教授の講演から痛感する。

 (「マスコミ九条の会」呼びかけ人 桂 敬一 記)

 

 さて、公開市民セミナー・次回は、古関教授が最後に問題を投じた、対米従属に代わるものとしての日本の独自性、ナショナリズムの検討が、主要なテーマとなります。多くの方のご参加を期待いたします。