「マスコミ九条の会 公開市民セミナー」

日本はなぜ「対米従属」を断ち切れないのか

 ―政治・経済・軍事の日米関係の構造を解き明かす―

 

第4回 講師:山家(やんべ)悠紀夫 (「暮らしと経済研究室」主宰)

アメリカ追随型改革が日本経済にもたらしたもの

    ―国民の暮らしの歪みの根源を山家講師が追究―

 

 

メディアは今 何を問われているか

桂 敬一・日本ジャーナリスト会議会員

 

 

    アメリカ追随型改革が日本経済にもたらしたもの

    ―国民の暮らしの歪みの根源を山家講師が追究―

 

 マスコミ九条の会主催の「対米従属」市民公開セミナー第4回は、「経済は対米従属から脱却できたか―米国経済の傘に覆われる日本」、講師は、第一勧銀・みずほ銀行(みずほ総研社長)、神戸大学教授を経、現在、民間研究所「暮らしと経済研究室」を主宰する山家悠紀夫氏。

 

 基調講演が終わって質疑応答になったら、すでに連続して受講された、耳の肥えた参加者から「タイトルが『対米従属から脱却できたか』だが、脱却できてないのは明白で、いまさら、できたかというのは、ヘンじゃないか」とする質問が飛び出したのには、意表を突かれた。山家講師は当然、「このタイトルは私がつけたのではなくて、私はこれで話せといわれたほうで・・・」とおっしゃる。企画側の一員である筆者が答弁に立った。

 

 “60・70年代の高度経済成長は石油ショックはあったが、日本経済が未曾有の発展を遂げた時代だ。そして85年・プラザ合意後の経済は、1ドルが100円を切り、ソニーがコロンビア映画を、三菱がロックフェラー・センターを、西武がインターコンチネンタルホテル・チェーンをそれぞれ買収、ジョニ黒が数千円になり、若い女性はブランド目当てにどっと海外に繰り出し、経営者が「日本型経営」を誇り、おっちょこちょいのマスコミや学者が、日本が欧米から学ぶものはない、と豪語していたのを思い出してほしい。あのとき、本当にその気になっていたら、「脱却」できていたかもしれない。

 

 いまだに解けない問題だ”と、過去形のタイトルに託した意図を説明した。質問者に理解していただけたかどうか、自信はないが、このあと、山家講師が「経済の規模の大きさ、強さからみたら、日本はけっしてアメリカに従属していない。従属しているのは政府・財界の経済政策だ。もうそんな必要はないと思うのに、なぜ従属をつづけ、深めるのか、それがよくわからない」といわれたのが、実に示唆的だった。

 

 山家講師は、経済政策の従属性の起因と変化を、戦後の日米経済関係史の流れのなかで追跡した。占領初期のアメリカは日本に対して、経済再建は日本の国民・政府が自らの責任において果たすべきものだとし、一つは、戦争に責任があったものに対する戦犯裁判、公職追放によって彼らの支配・加入を排除、もう一つは、戦争放棄と国民主権の原則を確立した平和と民主主義の新憲法・教育改革、さらに財閥解体・農地改革・労働改革などを、自立再建の条件として用意した。ただ、天皇制を温存、官僚制を利用、間接統治を採ったため、この部分が対米従属の温床となるおそれを残した。

 

 その後、アメリカが、対ソ冷戦政策、社会主義・中国との対決を前面にうち出し、日本を「アジアの工場」「反共の砦」として利用する対日政策に転換すると、日本の民主化と自立を促す方針は弱まり、代わってアメリカに依存させるのと同時に、日本に軍事戦略面の協力を求める対日政策が前面に出てきた。アジア諸国への賠償額引き下げ、脱脂粉乳・小麦などの食糧援助、ガリオア、エロア資金の貸与などがアメリカの思し召しだ。

 

 そして、財閥解体の停止・修正、戦犯釈放、特高など公職追放者の追放解除が始まり、1950年には警察予備隊がつくられた。これがその後、保安隊になり、自衛隊となる。これらはアメリカの要求でやられたことだ。いうことを聞かぬものは、レッド・パージの弾圧を受けた。これも占領軍の指示によるものだ。朝鮮戦争休戦の見通しがつくと、日本の独立が日米間で協議されたが、結果的に講和条約は、いわゆる社会主義陣営の国々を排除、ほとんどがアメリカの許容できる自由主義陣営の国だけとの締結となり、日本は独立と同時に日米安保条約・行政協定に縛られる事態となった。

 

 経済的な面での国際社会への復帰または登場は、IMF(国際通貨基金。1952年)、GATT(関税および貿易に関する一般協定。1955年)、OECD(経済協力開発機構。1964年)などの加盟によって果たされたが(カッコ内が加盟年次)、いわゆる自由主義陣営への編入だった。この体制のなかで貿易自由化(59年)、資本自由化(67年)も果たし、日本は内需拡大に基づく高度経済成長を達成できるまでとはなった。

 

 しかし、これにいたる間、輸出頼りの日本は、戦後経済の好調なアメリカへの輸出に過度に依存し、また、朝鮮戦争の特需を奇貨として経済復興のきっかけを掴んだ日本は、ベトナム戦争でも軍需利得を期待、この戦争で沖縄の米軍基地が強化されていくのを見過ごしにした。この50年代後半から60年代を通じて、日米両政権は蜜月時代といえるほど、良好な関係となったが、基底部におけるこれらの動き、関係を眺めるとき、それは矛盾の蓄積期だったともいえるのではないか、と山家講師は見立てた。

 

 矛盾は70年代、80年代に噴き出す。

 

 まず、1971年、長引くベトナム戦争に起因する国家財政の赤字、通商上の優位性の低下から、ドルの価値が下落、ニクソン大統領はドルの金本位制離脱を宣言、事実上の変動相場制に移行した。円はまたたく間に高くなった。さらに石油ショック(1974年)が襲った。だが、60年代の設備投資を通じて、新鋭の効率的な生産設備を導入してきた日本は、旧設備を抱えたアメリカより省エネ、工業生産性で優位に立ち、繊維、鉄鋼、家電、自動車、半導体、工作機械ではアメリカを圧倒、両国間に貿易摩擦が生じた。

 

 さらにアメリカ政府は、主要農業製品、牛肉とオレンジの輸出拡大に迫られており、日本に農業の保護政策を撤廃するよう求めた。こうした摩擦の時点では、品目ごとの輸出数量規制、輸入関税引き下げ・撤廃の交渉ですませられたが、80年代になると、もっと厄介な状況となる。85年・プラザ合意で先進5ヵ国は、協力して安定したドル安の局面をつくり、ドル危機を防止することにした。その結果、1ドル200円台だった円が1年後には100円を割りかねないほど高くなり、実際その後、瞬間風速で100円を下回ったことさえある。

 

 日本では当初、極端な円高が貿易面にマイナスに作用し、輸出減退、製造業不振、雇用収縮などを生み、景気が悪くなると思われていた。だが、円高は輸入品・外国産物の購買力を飛躍的に高め、国内に空前の消費景気を生んだ。しかし、食料・嗜好品、小規模生産の奢侈品、海外旅行、日本企業の海外投資はさかんになったが、日本人は大量生産の工業製品、自動車、家電、半導体・パソコンなどは国産品を購入しつづけたため、アメリカの対日貿易赤字は減りはしなかった。

 

 そこで、個別的な品目・摩擦の処理から包括的な産業・通商構造についての対話へ、貿易から投資へ、アメリカ市場から日本市場の話へという変化が、日米間の外交交渉のうえの課題となった。そして、中曽根・レーガンの「市場志向型分野別協議」(85年)、宇野・ブッシュ「日米構造協議」(89年)、宮沢・クリントン「日米包括協議」(93年)、橋本・クリントン「規制緩和及び競争政策に関するイニシアティブ」(97年)、そして小泉・ブッシュの「成長のための日米経済パートナーシップ」へとつづく流れが生じた。

 

 このころ、国内経済政策方針のなかに「規制緩和」「民活化」の用語が頻発する。ついに小泉政権になって「構造改革」が決まり文句となったが、それらの出所はすべてアメリカ発だった。小泉構造改革は、悪名高いアメリカからの「年次改革要望書」によって指定された「改革」を、毎年実行したかどうか、チェックされていった。

 

 一般に今日に至る消費不振は、バブル崩壊後の不況がつづく「失われた10年」のせいだ、と考えられがちだ。だが、93年ごろ明白となったバブル崩壊後の経済の低迷は、実は96年にはかなり改善されていた。ところが、97年頃からの日米協議で日本への「規制緩和」「構造改革」導入が本格化するのに連れ、景気は再下降、それがとくに勤労者・消費者の暮らしを狙い撃ちするようになったのが実情だ。

 

 アメリカのレーガン、イギリスのサッチャーが信奉したのが、経済学者、フリードマンの理論。その特徴は、サプライサイド=供給者・企業側に利益を生み出す活力を与えれば、経済全体も活気づき、労働者にも生活者にもいい結果がもたらされる、とするもの。

 

 規制緩和、民営化、小さな政府が提唱されるわけだ。そして、日米経済協議で日本に押し付けられたのがこうした理論に基づく「構造改革」だった。その結果、どんな現象が生じたか。給与所得者の平均賃金は97年をピークに下がりつづけ、06年は約10%減少。90年と06年の対比で正社員は減少、非正社員は倍増、非正社員比率は20%が33%へ。97年は18.0%だった年収200万円未満の層が06年22.8%、1,000万人を超えた。

 

 勤労者の実収入は97年に対して06年約12%減少、多くの人の生活が苦しくなった。98年に約2万4千人だった自殺者が99年3万人を大きく超し、これ以降、3万人の大台が毎年つづいている。一方、国民可処分所得の変動をみると、「家計」は97年310兆円が、06年はマイナス16兆円の294兆円、これに対して「企業」は97年20兆円が、06年はプラス15兆円の35兆円だから、母数からみて「企業」の儲け増加率がいかに大きいかがわかる。

 

 絶対額をみれば、「家計」分のマイナスのほとんど全部が「企業」に移った結果となり、経済学でいう「所得の移転」を絵に描いたようだ。「企業」は派遣法の重なる改悪で人件費のコスト削減に恵まれ、民営化でビジネス機会を増やしてもらい、法人税の引き下げにも預かった。「家計」は収入低下に加え、実質所得税の増加(減税の撤廃等)、社会保障の切り下げ・負担の増加などで苦しめられてきた。企業アンケートでは「構造改革」は大歓迎の結果が出ている。

 

 もちろん、アメリカも大歓迎だ。資本規制撤廃でアメリカの企業は日本に自由に進出、日本の企業と同じような会社経営ができることになった。「年次改革要望書」の注文が通ると、事業活動の範囲が広がった。耐震偽造で問題になった建築確認申請手続きの簡略化も「要望」が生んだものだ。金融・保険の進出自由化で、社会保障が後退する傍ら、米系医療・年金保険会社のCMが、テレビに氾濫するようになった。

 

 不良債権処理でしくじった銀行をアメリカのファンドが安く買収、体質改善したあと、高く売り飛ばした。教育・医療、簡保の民営化も狙われている。各年の「要望書」内のレビューで小泉政権は高く評価されてきた。

 

 このように仔細にみていくと、「構造改革」とは「日本経済をアメリカにとって都合のいい経済構造に変える政策」と定義できるのではないかと、山家講師は結びの部分で語った。このような「構造改革」は一般の人々にとっては、所得、雇用、社会保障、何一つとってもいいことはない。結果的に内需が伸びないのだから、輸出によって成長が追求できる企業にはいいかもしれないが、多くの企業にとっても、それはいいものとはいえない。日本経済そのものも、一段と海外依存型に陥るおそれがある。

 

 にもかかわらず、なぜこのような対米追随が止まらないのか、かえって強まるのか―それには経済学的根拠があるのか、と山家講師は自問をつづけた。日本の政治家、財界人、学者、マスコミ人の多くが、根拠のない、漠然とした、アメリカはいい、進んでいる、アメリカに学ぶべきだとする思考から抜け切れず、「追随」という意識の生まれる余地さえ、ないのではないか。アメリカに守ってもらっている、従わないと大変なことになるとする恐れ、引け目もあるようだ。

 

 しかし、中南米やフィリピンの、軍事的な面も含めたアメリカ離れをみると、対米関係はいかようにも変えられるものであることがわかる。

 

 また、最近の日本、「構造改革」を進めてきた日本に、進んでアメリカと一体化しようとする勢力とその動きが強まっている点にも、注意が肝要だ。財界では今、海外売上げが70%以上を占めるキャノン、ソニー、トヨタ、それについで大きい東芝、三菱重工など、対外取引の比重の大きい企業や、外資株主が60%のオリックス、50%のキャノン、ソニー、それにつぐ武田薬品、三菱重工など、外資株主比率の高い企業が主導権を握っている。

 

 こういう企業は、新自由主義とグローバリズムの海外市場で、アメリカ並みにやっていければ、国内市場が犠牲になってもかまわないとする体質に、なりつつある。また日本政府自体が、外貨準備積み立てやアメリカ国債保有によって巨額のドル資産をもっている。日本本体の財政や経済がガタガタになっても、その資産価値だけは守らねばと、アメリカに気兼ねするようなところがある。しかし、アメリカは対日債務の返済や償還がむずかしくなれば、インフレ政策によって日本のドル資産価値を、ドラスチックに減殺することができる。

 

 このように、従属とは意識されないまま、日本側の内部の変化から従属が客観的に必然化され、それが危機的な問題を生むことになる心配があるところに、今われわれは立たされている。こうした「経済政策の従属性」の実態を、もっともっとはっきりさせ、日本に暮らす人々の生活を守るためにどんな改革が必要か、真剣に考えていかなければならない。

 

 山家講師の話を聞いているうちに、イギリス労働党がいいだした「大砲かバターか」の命題を思い出した。増やすべきは戦費か福祉費かの議論を、これで国民のあいだに広げたのだ。この古典的命題が今、新しい意味をもちだしている。これをもう一度取りあげ、真剣に検討してみる必要がありそうだ。毎年約5兆円もの防衛費が使われている。さらに思いやり予算が別枠にあり、新しく出てきた在日米軍再編促進特措法による補助金もある。

 

 次回は、いよいよ日米安保、自衛隊の問題。多数の方の参加を期待します。