藤田博司 (ジャーナリスト・共同通信社社友)「鉢呂報道批判」の欠落部分 11/11/02

 

「鉢呂報道批判」の欠落部分 

藤田博司 (ジャーナリスト・共同通信社社友)

 鉢呂経済産業相が「不適切発言」を理由に辞任に追い込まれてから間もなく2カ月。いまや「辞任は当然」とする見方を疑う人もなく、政治の世界もメディアの報道も以前の日常に戻っている。

 インターネット上でいっとき盛んだったメディアの報道に対する批判も下火になった。メディアの側は批判を取り立てて気にかけている様子もない。一部の新聞や週刊誌が報道の経緯の「検証」を試みたものの、問題の本質に迫る検証には程遠かった。このままでは、鉢呂氏の辞任に至る一連の報道もメディアの気まぐれな逸脱として、早々と忘れ去られてしまいそうな気配である。

いまだ不明確な事実関係

  しかしそうなることは、日本のジャーナリズムにとって決していいこととは思えない。このままではジャーナリズムが最も大事にしなければならない根幹の部分で腐食が進むことにもなりかねないからだ。

 鉢呂氏を辞任に追い込んだ報道に大きな不備があったことは、報道現場の多くの人たちがそれとなく内心で感じ取っているはずである。しかし何がどう不備であったのか、なぜそうなったのかは、ほとんど明らかにされていない。いまのところ、ジャーナリズムの側が自ら報道の経緯を徹底的に検証しようという姿勢を見せていないし、反省の兆しもない。

 一連の報道についてさまざまに指摘された問題点は、大きく分けると次の三つがあげられる。第一は、不適切とされた9月8日夜の鉢呂氏の言動をめぐる事実関係がいまだに不明確なままであること。鉢呂氏と少数の取材記者の間でのやり取りであったにもかかわらず、各社の伝えた鉢呂氏の発言内容がまちまちであったことに、報道の不確かさが象徴されている(詳細は本欄前号参照)。

 第二は、鉢呂氏が原発被災地を「死のまち」と表現したことや、冗談まじりに「放射能をつける」と言ったことが、大臣の責任を問うほどの重大な問題であったかどうか、というニュース判断に関わる疑問。メディアがそろって「不適切発言」と決めつけ、「辞任は当然」とする社説を掲げたことに、少なからぬ市民が首をかしげた。これを、ささいな失言の揚げ足取りをするメディアの傲慢と受け止める声もあった。

 第三は、鉢呂氏の発言に対して福島県民や政治家の、怒りやいら立ちを大きく取り上げた反響報道への不信だ。「死のまち」との表現には、むしろそう受け止めるのが当然、という指摘が、インターネット上の投稿にはあふれていた。「怒りやいら立ち」の声はメディアが報道の都合に合わせて一方的に集めたものであることが、読者視聴者には見透かされていた。

怠った報道の基本所作

  これらの点に問題があったことは、おそらく報道の現場も否定するわけにはいくまい。表向き、自分たちの報道に間違いはなかったと主張するにしても、これらのメディア批判に対して全面的にあらがうことはまずできそうにない。

 しかし右の問題点のなかには、一連の報道を批判するうえで最も重要な点が抜け落ちている。それは、なぜこうした問題の多い報道がまかり通ったのか、その原因が明確に指摘されていないことだ。不確かな事実がなぜ不確かなまま報道されたのか。議論の余地ある発言をなぜメディアは一斉に「不適切」と決めつけて報道したのか。一方的な煽りと受け止められても仕方のない「怒りやいら立ち」の紙面をなぜ易々と作ったのか。

 これらいくつかの「なぜ」は報道の仕事に携わるものの基本的な所作に関わる問題だ。正確で公正なニュースを伝えるためには、情報を(不確定な要素があれば)二重、三重に確認し、内容を検証する必要がある。他者を批判する場合、批判される側の言い分を十分に聞かねばならない。偏見や思い込みでの報道は避けねばならない。

 「鉢呂辞任報道」で報道側はこうした基本的所作を守っていただろうか。新聞の記事から読み取れる限りでは、答えは否だ。「放射能」をめぐるやり取りについて、記者が声をかけられたという『毎日新聞』の記事は、鉢呂氏の発言を「趣旨」でしか伝えられなかった。記者が近くにいながら、やり取りをはっきり聞き取れなかった『朝日』や共同通信、記者が現場にいなかったその他の社は何を根拠にそれぞれ「鉢呂発言」を伝えたのか。各社の報道には、鉢呂氏に情報の確認を試みたことをうかがわせるくだりはどこにも見当たらない。

明示されない情報源

  「放射能発言」の不確かさは、記事の書き方にも表れている。『毎日』を除く各社の記事は、鉢呂氏の発言が「わかった」「明らかになった」「判明(した)」と、間接情報として伝えている。しかしいずれの社の記事も、この間接情報をだれから入手したのか、だれに確認したのかについても、一切触れていない。事実関係の確認ができていないから、鉢呂氏の発言の真意や言い分も伝えられていない(取材もしていない)。にもかかわらず、鉢呂氏を批判する福島県民や政治家の反響は大々的に報じている。これらの反響を集めた記者は、福島県民や政治家の取材対象に、鉢呂氏の発言をどのように説明したのだろう。取材が公正、公平であったとはとても思えない。

 こうした報道が行われた最大の原因は、ニュース取材のイロハがいとも簡単にないがしろにされたためである。情報を確認し、検証する作業を怠った。批判する報道対象の真意や言い分をただすこともしなかった。記事を書く際に必要不可欠の要素である情報源を明示することも無視した。ニュースの正確さに対する配慮はもとより、公正さを担保する気配りも欠いていた。

 問題をさらに悪くしたのが、メディアの横並び体質、特落ち恐怖症だ。1社が走り出すと、他社も一斉に走り出す。情報の中身や判断の可否を十分検討することもなく、ただバスに乗り遅れまいとする。その結果生じたのが「メディアの狂騒」と呼ばれる集団ヒステリーだ。あまたある報道各社のうち1社でも報道の基本を守り、冷静に事態を判断していれば、こうしたヒステリー状態は避けられたはずだが、それはかなわなかった。

悪弊を直視し自己検証を

  報道現場には今回の事態を、オフレコ取材のルールのあいまいさが招いた混乱、とする見方もある。しかし混乱の原因は、各社の取材現場が報道の基本を守らなかったことにある。ニュース価値の判断やオフレコの扱いなどを議論する以前の問題である。報道に携わる人たちがそのことをしっかり認識していないと、メディアは「鉢呂辞任報道」から何も教訓を学ばないことになる。

 『朝日』『東京』など一部の新聞は鉢呂氏の辞任後まもなく、一連の報道の「検証」を試みてはいた。『東京』は9月20日の「メディアと政治を考える」と題する社説であらためてこの問題を論じ、今回のような報道がメディアの「言葉狩り」に陥る危険を「自戒を込めて」指摘した。しかしこれらの検証も、今回の報道がジャーナリズムの基本をないがしろにしていたことにはまったく触れていない。そのことに正面から向き合わずに本格的な自己検証は到底望めない。

 「鉢呂辞任報道」に見られたような報道が日本のジャーナリズムの日常の姿とは思わない。しかし報道の基本をおろそかにし、メディアの狂騒に走りやすい悪弊と体質が日本のジャーナリズムを蝕んでいることも否めない。
  今回のような事態を繰り返さないためには、報道現場がその悪弊を直視し、自覚的に改める以外にない。ジャーナリズムの基本を忠実に守ること、周囲の動きに惑わされず、独自の判断基準を持つことである。それを実践するための第一歩として、今回の報道の問題点を正面から、誠実に自己検証することを望みたい。そうすることが、読者、視聴者の信頼を取り戻す早道と考えられるからである。

(「メディア展望」11月号『メデイア談話室』より転載)。〈元共同通信論説副委員長・元ワシントン市局長・元上智大学教授〉