藤田博司 (ジャーナリスト・共同通信社社友)「真実」は細部に宿る 11/12/02

 

「真実」は細部に宿る 

藤田博司 (ジャーナリスト・共同通信社社友)

 くどい、と思われそうだが、前号に続いてもう一度、鉢呂辞任報道を取り上げたい。この問題をめぐるメディアの対応に、どうしても納得しがたいものが残るからだ。

 前号本欄では、就任間もない鉢呂吉雄・経済産業相を辞任に追い込んだメディアの報道の問題点の一つとして、いわゆる「放射能」発言の事実関係をメディアが確認せずに報道したのではないか、と指摘した。これに対するいくつかの反響を耳にして、この種の取材、報道のありようをあらためて考えさせられたのである。

「否定」恐れ確認せず?
  鉢呂経産相は9月8日の夜、議員宿舎前で記者団に囲まれて福島視察についての取材を受けた際、記者の一人にすり寄る仕草を見せて「放射能をつける」という趣旨の発言をしたとされている。メディアはこのことをすぐには報道しなかったが、翌日の記者会見で鉢呂氏が原発被災地を「死の街」と表現したことを問題にし、鉢呂氏はその日のうちに発言の撤回と謝罪を表明した。それを伝えたニュースの一部で、フジテレビが前夜の「放射能」発言にも触れた。

 メディア各社はそれを受けて一斉に「放射能」発言を取り上げ、新聞は10日付朝刊に大々的に鉢呂氏批判の紙面を展開した。しかし問題にされた「放射能」発言の中身は新聞によってまちまちに報道され、事実関係のあいまいさが際立った。そのため筆者は、各社が9日夜の段階で、前夜の経産相と記者団の間のやり取りを再確認する取材をしたのかどうかを疑った。少なくとも10日付各紙朝刊の記事を読む限り、確認の取材をしたことをうかがわせる記述は認められなかった。

 これについて、記者OBの一人は「自分が現場の記者なら再度の確認はしないだろうな」と言った。「だって、あらためて取材すれば相手が否定することは見え透いている。否定されれば記事にできないからね」と。フジテレビがすでに先行して報じている。自社だけ「放射能」発言を無視して報じないわけにはいかない。とりあえずは、確認を求めて否定されるより、手持ちの材料だけで伝えておく、というのである。

 なるほど、現場にいればそうした判断もあり得るのだろう、と妙に納得させられそうになった。ともあれ、これはOB氏の往時の経験に基づく推測、仮説にすぎない。

あいまいだった答え
  もう一人、経産相の囲み取材の現場にいたという現役記者は、具体的な体験を聞かせてくれた。8日夜の取材で「放射能」という言葉は出たが、鉢呂氏の話を定かには聞き取れなかった。その場では問題になる発言とは思わなかった。翌日、フジテレビの放送が流れたあと、鉢呂氏に前夜の発言の確認を試みたが、本人は否定も肯定もしなかった。問題になる発言がなかったのなら明快に否定していいはずなのに、鉢呂氏はあいまいな返事しかしなかった。否定しない以上、疑われる発言があったことを暗に認めていると解釈できるのではないか、と現役記者は受け止めた。

 当事者に確認も取らずに記事にしている、と指摘されることには、現役氏は強い不満を見せた。確認の努力はした、問題は取材対象がきちんと答えなかったところにある、と言いたげだった。確認、検証といった報道の原則をまるでないがしろにしているという批判は受け入れがたいと思っているようだった。

 実際問題として、今回の鉢呂辞任報道でメディアは「OB派」と「現役派」の、どちらの対応をしたのだろう。「確認取材をした」という話は別の関係者からも聞いた。報道の基本ルールからすれば「OB派」より「現役派」の対応が望ましいことは言うまでもない。期待する成果が得られないにしても、確認の取材のための行動を起こすことが重要だと思われるからだ。

 しかし問題は、結果として両者とも読者を納得させられるような形でニュースを伝えられなかったことだ。8日夜の囲み取材で経産相と記者団の間で、具体的にどのようなやり取りがあったのか、それが経産相の資質や進退に関わるどれほどの意味があったのか、大臣の辞任に至る発端の重要な事実関係はなにも明らかにされなかった。

緻密で透明な取材を
  相手の否定を見越して確認の手間を省く、という「OB派」の考え方は、むろん報道の原則にはそぐわない。しかし相手が否定しないので(やむなく)肯定と理解して報道した「現役派」のやり方も報道の原則にかなっているとは言いがたい。報道する側の一方的な思い込みや判断で安易な結論に飛びついているように思われるからだ。

 鉢呂氏が「放射能」発言の事実を否定も肯定もしなかったとすれば、どのような言葉や表現でそうしたのか、当人の弁明や反論の具体的な言葉をメディアは伝えるべきだろう。鉢呂氏の態度があいまいなら、あいまいであることを指摘すればいい。そうすることが、鉢呂氏の立場をより正確に、公正に読者に伝えることになるはずだ。

 しかし現実には、メディアは「放射能」発言をめぐる事実関係の不確かさや鉢呂氏側の対応のあいまいさからあっさり目をそらした。鉢呂氏の言動を一方的に「不適切」と決めつけ、大臣の責任追及に向け足並みそろえて突っ走った。その粗雑な取材の過程が、「放射能」発言を伝えた各社ちぐはぐな報道になってもろに表れたのである。

 インターネット時代の情報環境のもとで、記者の取材現場は当の記者たちが自覚する以上に一般市民の目にさらされるようになっている。記者会見での、取材する側の傲慢な振る舞いや中身のない質問まで、読者、視聴者は見届けている。取材の過程で間違いやごまかしがあれば、伝えられたニュースそのものの信頼も落ちる。

 いま報道現場に求められているのは、より緻密で、より透明度の高い取材である。情報源をできるだけ明示することに努め、情報の正確さ、公正さを担保するための検証を怠らないことである。それを実践するためには、取材の手法だけでなく、ニュースのとらえ方や記事の文体も含めた表現の方法なども見直さなければならないだろう。

おろそかにされた細部
  鉢呂辞任報道に欠けていたのは、この緻密さと透明性だった。報道の核心であるはずの、鉢呂氏の「放射能」発言の中身がどうであったのか、いまだにわからない。どのような文脈で、どのような状況で語られた言葉であったのか、十数人の記者が現場にいながら、だれも詳細に伝えたものがいない。事実確認の取材が翌日行われたといいながら、その取材の経緯を明らかにした記事も見つからない。そもそも確認取材を試みたことも、報道記事のなかで触れられていない。

 報道の透明性もおぼつかない。報道の正確さが問題になったあと、一部の新聞が「検証記事」を掲げたが、「放射能」発言の事実関係や取材の経緯を明らかにすることはしなかった。いくつかの新聞は検証する構えさえも見せなかった。

 メディアの側はおそらく、あの鉢呂報道が過去何十年も受け継がれてきた報道の手法や慣行、問題のとらえ方にのっとったもので、特段に報道上の不始末があったとは思っていないに違いない。しかし報道の受け手である市民のメディアを見る目は、往時よりはるかに厳しくなっている。報道現場の記者に劣らず、さまざまな事情や事象の細部に目配りできるようになっている。
 
  記者にその細部の報道で手抜かりや不手際があれば、たちまちメディアは信用を失うことになる。検証と説明責任を求める声は今後ますます強まると覚悟したほうがいい。鉢呂報道の失敗は、メディアがそろって取材と報道の細部をおろそかにしたことにある。ジャーナリズムにとって報道が追求する「真実」が細部の事実にこそ宿ることを、この際あらためて報道現場は肝に銘じておくべきだろう。
  (『「メディア展望」2011年12月号【メデイア談話室】より転載』。元ワシントン支局長・元上智大学教授)