藤田博司 (ジャーナリスト・共同通信社社友・元ワシントン支局長)琉球新報のオフレコ破り 12/01/06
琉球新報のオフレコ破り
藤田博司 (ジャーナリスト・共同通信社社友・元ワシントン支局長)
2011年11月28日の夜、沖縄・那覇市内の居酒屋で行われた防衛省沖縄防衛局長と地元記者団の懇談会は、「ここは完オフ(完全オフレコ)で」という局長側の宣言で始まったらしい。その場でのやり取りは一切記事にしないとの了解が、双方の間にできていたということのようだ。
しかし、田中聡局長のその場での発言を『琉球新報』が翌日の紙面で報じたことから大問題になった。田中局長は更迭、そのあおりを受けて一川保夫防衛相も野党から問責決議を突きつけられる羽目になった。
普天間基地の移転にからむ環境影響評価書の沖縄県への提出時期を、婦女暴行の手順にたとえた田中氏の話は非常識の極みというほかない。ただここでは発言そのものにかかわる問題はおいて、オフレコとされた発言内容を、約束に反して報道したメディアの振る舞いを考えてみたい。
報道の使命を優先した
オフレコ懇談の場での発言をあえて報道した理由を『琉球新報』は「人権感覚を著しく欠く発言であり」「公共性、公益性に照らして県民や読者に知らせるべきだと判断した」と説明している(11月30日)。『琉球』は断りなくオフレコを破ったわけではない。報道をすることを決めて沖縄防衛局に確認を求めたが、同局は公表を拒否し、「発言は否定せざるを得ない」としたうえで「(公表すれば)琉球新報を出入り禁止することになる」と警告したという。
『琉球』の後を追って報道した他の新聞も、田中局長の発言そのものについては批判的に報じていた。しかしオフレコ懇談の中身が報道されたことについては、新聞によって見方が分かれた。『東京新聞』は『琉球』がこのニュースを報じたことに社説で支持を表明、一方、『読売新聞』と『産経新聞』は社説やコラムで「オフレコ破り」に疑問を呈した。オフレコの約束を守らないと取材先との信頼関係が保てず、ひいては読者の「知る権利」を損なうことにつながる、との理由である。
『毎日新聞』は「オフレコ破り」には特に言及しなかったが、『朝日新聞』はオフレコ取材の有用性を認めた日本新聞協会編集委員会の見解に触れて、オフレコ破り批判の含みを残した。新聞の投書欄にも「オフレコ破りは許されない」とする声が掲載された。
約束を守ることは確かに大事だし、安易に約束を破るようでは、取材先にも信用されなくなる。しかし一方で、報道を生業とする記者にとっては、もたらされる情報の中身次第では、約束を守ること以上に伝えることを優先させなければならない場合があることも確かだろう。その場合、取材先の了解を取る手順を踏んだうえで、たとえ相手がそれを拒んでも、記者側に事後の責任をすべて負う覚悟があれば、情報の公表に踏み切ることは、責められることではない。『琉球』にとって今回の局長発言は、「出入り禁止」やオフレコ破り批判のリスクを冒しても、報道するだけの重大な内容を含むものだった、ということに尽きる。
空文化した協会の見解
新聞協会編集委員会が1996年にまとめた見解は、オフレコ取材を「真実や事実の深層、実態に迫り、その背景を正確に把握するための有効な手法」と認める半面、その乱用を戒め「安易なオフレコ取材は厳に慎むべき」だとしている。しかしこの見解の問題は、記者クラブ単位の非公式「懇談」がここでいうオフレコ取材に含まれると解釈されていること、そして「乱用」を戒めた部分がほとんど空文化していることである。
情報の公表はもとより、メモを残すことも認めない本来のオフレコは、取材対象と記者が一対一で向き合うときは実効が期待できる。しかし記者が多数の場合、完全に秘密が守られることはまずあり得ない。多数の記者を相手に行われる記者懇談のような場は、むしろ情報を提供する側にメディアを利用する情報操作の思惑が潜んでいると考えねばならない。新聞協会の見解がいうオフレコ取材には、記者クラブの懇談は含まれないと解釈するのが筋だろう。
この種の懇談があちこちの報道現場で日常的に行われている事実を見れば、「安易なオフレコ取材」をメディア側が厳に慎んでいる様子はさらさらない。こうした実態に目をつぶって、新聞協会の見解を根拠に現状のオフレコ取材のありようを正当化することは到底できそうにない。
また、記者懇談でのオフレコの約束が常に厳密に守られているわけではない。オフレコの約束をしながら、取材先さえ特定しなければ話の内容を伝えることが認められる場合も少なくない。取材先によっては暗に報道されることを期待することもある。取材する側とされる側でオフレコの理解がずれていることも珍しくない。要するに情報のやり取りをめぐる基本的なルールが、報道現場で確立されていないのである。
守られない情報源の明示
ニュースの信頼性を担保する最も重要な要素は、情報が誰からもたらされたか、情報源を明示することにある。情報源を特定して報道されれば、情報源その人が自分の情報に責任を負わねばならないし、読者、視聴者の側は情報の出所を知ることによって情報の価値を判断できる。出所が明示されない情報の価値はおのずと低くなる。そのためにニュース報道ではできる限り情報源を明示する努力が求められる。
ところが日本の報道現場では、この原則があまり忠実に守られてはいない。新聞でもテレビでも、情報源を明示しないニュースはいたるところに散見される。情報源を示さない官庁の発表記事はまるで政府広報紙の文体と変わらない。情報源に触れた記事でも、「関係者」や「当局者」といったあいまいな表現にとどまるものは、どの程度信頼できる「関係者」なのか、判断の手がかりすらない。
ここ一、二年、ニュース報道で目立つ表現に「警察への取材でわかった」というものがある。裁判員制度の実施に伴って、事件報道の情報の出所をもっと明確にすべきだという司法側の注文を受けて、メディア側が編み出した表現だ。メディアとしては、これで情報の出所を(不十分ながら)示したと考えているようだが、情報源の明示というには程遠い。この辺に、情報源の扱いをめぐる日本の報道現場の甘さが表れている。
米国では、日本よりはるかに厳しく情報源明示の原則が現場の記者に求められている。ニュースはできる限り情報源を固有名詞で特定する「オン・ザ・レコード」で報道するものとされている。何らかの理由で情報源が特定されることを拒む場合は、名前は伏せる代わりに情報源の地位や役割を示して報道する「バックグラウンド・ブリーフィング(背景説明)」という手法をとる。地位や役割を示唆することにも取材先が応じないときは匿名性をより高めた「ディープ・バックグラウンド」という手法で情報の内容だけを報道する。一切の報道の禁止を前提とするオフレコ(オフ・ザ・レコード)は、例外的な場合でしかない。日本ではこうしたルールの理解が徹底していないため、オフレコとバックグラウンドが混同され、約束を破った、破らない、のもめごとが繰り返される。
報道は読者、視聴者のために
いま報道現場に求められていることは、昔ながらの慣行として続けている記者懇談やオフレコ取材のルールをきちんと見直すことである。情報源は可能な限り明示する、懇談でのオフレコには安易に同意しない、背景説明もできるだけ「オン・ザ・レコード」で公表させるよう努力する、ことなどを目指すべきだろう。
オフレコ取材を減らすと、政府や政治家の本音に迫れなくなる、という見方がある。取材先とのつきあき方も変わるかもしれない。が、取材先と信頼関係を築き、その本音に迫る目的は何か、を考えてみるといい。すべて重要な情報を読者、視聴者に伝えるためにほかならない。メディアが何より信頼関係を守らねばならない相手は市民であって、政治家でも官僚でもない。沖縄防衛局長の暴言をあえて報道したのが、公共のため、公益のためだとする『琉球』の主張は十分納得がいくのである。
『メディア展望』2012年1月号より転載](元共同通信論説副委員長・元上智大学教授)