藤田博司 (ジャーナリスト・共同通信社社友・元ワシントン支局長)変われるか、メディア 12/03/02

 

             変われるか、メディア 

             藤田博司 (ジャーナリスト・共同通信社社友・元ワシントン支局長)

 東日本大震災と福島第一原発事故のあと、これを契機に日本は変わるだろう、変わらねばならないと、多くの人が思ったはずである。新聞でもテレビでも、2011年は「日本の歴史の転換点」という指摘が繰り返された。「絆」が氾濫し、「安心と安全」がしきりに強調された。

 あの日からほぼ一年、日本は本当に変わったのだろうか。いや、少なくとも変わりつつあるのだろうか。即座に、確信を持って「そう」と答えるにはためらいがある。政治は旧態依然、3・11のあと「変わらねば」と思い詰めたように見えた国民の間の気分も、いまは緩み始めているように思われる。

 裏切られた政治への期待
  だれが最初に言い出したものか、3・11直後から「未曽有の国難」という言葉が政治指導者の間に飛び交った。それに立ち向かうために、政治家も官僚も、それまでの行きがかりを捨てて、被災地の復旧、復興のために一致協力するかのような物言いだった。しかし現実は、国民の期待をあっさり裏切った。

 当時の菅直人政権の震災・事故への取り組みはことごとく後手に回った感を免れなかった。そのせいか、与党民主党の内部からも菅首相の指導力に対する疑問、批判が噴出した。それはほどなく、与党内の足の引っ張り合いから、野党を含めた「菅降ろし」に向けての政争に発展、差し迫った震災・事故対策もそっちのけにしての争いに明け暮れた。そうしてほぼ半年が浪費された。

 野田佳彦新政権が発足したあとも、事態はあまり改善していない。その後のほぼ半年、閣僚、官僚の失言や不始末ばかりが目立ち、震災被災地や原発事故被災地に対する支援策は遅々として進んでいない。民主党政権側の不手際もさることながら、自民、公明など野党の対応にも、とうてい「未曽有の国難」に対処しようという真剣な姿勢はうかがえない。

 残念ながら、与野党ともその政治指導者に、国家の非常時にあたって党利党略を離れて困難な仕事に取り組もうという覚悟が見て取れない。国民の先頭に立って変わらねばならない人たちが、その責任を十分に自覚しているようには見えないのである。

 政治家が変わらない、政治も変わらないことの責任の一端はメディア、とりわけ新聞にある。新聞が普段、自らにも言い聞かせているメディアの役割の一つは、政府を監視することにある。問題があれば、叱責し改めさせねばならない。しかしこの一年、メディアが政治家の怠慢や政治の停滞を厳しく糾弾したことがあっただろうか。

 報道の欠陥、浮き彫りに
  思い起こされるのはむしろ、メディアが政治に歩調を合わせて政争をあおり、結果として政治の停滞を招いた事例である。「菅降ろし」をめぐる報道、然り。鉢呂吉雄経済産業相のささいな失言を責め立てて辞任に追い込んだ報道、また然り。逆に、政治家や官僚を叱咤、督励して被災地の救済、支援を促した報道がどれほどあったことか、思い出そうにも思い出せない。

 なぜそうなのか。メディアの存在が希薄なわけではない。その影響力がかつてより大きく減退したということでもない。しかし本来、メディアが果たすべき役割を果たしていない、という事実はもはや覆い隠しようがない。

 おそらく最大の理由は、メディア自身も政治と同じように3・11以降、変わるべき時に変われていないからではないかと思われる。3・11を境に、日本を取り巻く政治、経済、社会のあらゆる事情がそれ以前に比べて大きく変化した。政治や行政はその変化に呼応して何よりも迅速に、新しい状況に対処する必要に迫られたはずだが、対処できなかった。

 それだけではない。それに加えてメディアは、かつて経験したことのないような規模の大震災報道や原発事故報道に携わったことによって、その役割がよくも悪くも市民の目にはっきりとあぶりだされた。非常時におけるニュース報道の重要性があらためて見直されたことはよしとしよう。しかし半面、市民の期待に応えられない報道の不作為や欠陥も浮き彫りにされた。

 「菅降ろし」報道や鉢呂失言報道などに見られる政局偏重の報道は、むろんいまに始まったわけではない。これまで何十年も続けてきた政治報道の延長線上の出来事だが、3・11後の状況の下では、その不毛さがいやがうえにも市民の目に映った。そうした報道のありようが、メディアに対する不信感をこれまでになく高めることにつながったことは否めない。

 強まったメディア不信
  メディア不信を市民に植え付けた報道はほかにもある。原発事故をめぐるメディアの一連の報道が、政府や東京電力の一方的な発表だけを垂れ流す「大本営発表」報道だと揶揄されたのもその一つだ。(本欄でも過去に指摘したことだが)事故直後の状況では、当局側の情報に大きく依存せざるを得なかったことは理解できるとしても、その後長期にわたる報道で、政府や東電の責任を十分に追及できたかどうか、市民にとって知るべき情報を引き出せたかどうか、疑問は残る。

 原発周辺地域の取材も、当初の数か月間ほとんど手つかずだった。不可能だったわけではない。当局の規制や指示、自主規制などによって取材しなかったのである。そうしたメディア側の優柔不断の姿勢にも、市民は疑いの目を向けた。

 ほとんど機能不全に近い政治と同じように、メディアもまた3・11以後の世界で、自己変革を求められている。本来ならメディアにとっては2009年の政権交代が変革を遂げる好機だった。開かれた政治を主張していた民主党政権の登場とともに、メディア自身もいわゆる報道の1955年体制に決別できたはずだが、しなかった。政権側が前向きの姿勢を見せていた記者クラブの開放にも、メディア側が消極的だった。

 その後、民主党政権下の政治も自民党時代に先祖返りしたかのように、旧態依然のそれに後戻りした。メディアも同様に、55年体制の残滓を体質として引きずっている。3・11後の非常事態のなかでも、その体質を思い切って改めようという動きは、まだ兆していない。

 政治に対する国民の不信はさておき、メディアに対する不信はメディア自身の手で拭わなければならない。それができなければメディアは、そしてそれが担ってきたジャーナリズムは、緩やかな死が待ち受けることになるだろう。

取材体制、手法の見直しを
  3・11後の経験からメディアが学ぶべきことの一つは、ニュースとして何を伝えるべきかをいま一度、根底から見直してみることだ。これまで惰性で続けてきた、官庁や大企業、警察などの権力や権威を最重要の情報源とみなす考え方を改める必要がある。既成の権力や権威からはみ出した部分、支配する側ではなく、される側の情報や意見により多く耳を傾けるような取材、報道の姿勢が重要になるだろう。

 取材の手法についても、何十年来の慣行を改めるときに来ている。記者クラブという特権に守られた取材は情報を持つ側の意図に操られやすいことを自覚すべきだろう。いわゆる記者懇談、オフレコ懇談などの取材過程をもっと透明にすることも必要だ。

 これらを実現するには取材体制や取材の実務を思い切って改めねばなるまい。そのためには、報道現場の記者だけでなく、むしろデスクや編集局幹部らが率先して頭を切り替え、改革を推進しなければならない。これまで慣れ親しんだ仕事のやり方を抜本的に変えることは容易ではない。相当の覚悟をしてそれに取り組まないと、メディアがいま直面している問題の解決は図れない。3・11後のメディアに市民が突きつけている不信の眼差しはそれほどに厳しいと言っていい。(元ワシントン支局長・元上智大学教授)
                      『メディア展望』2012年3月号{メディア談話室}より転載