藤田博司 (ジャーナリスト・共同通信社社友・元ワシントン支局長)報道に検証の姿勢が乏しい 12/05/01

 

           報道に検証の姿勢が乏しい 

             藤田博司 (ジャーナリスト・共同通信社社友・元ワシントン支局長)

 北朝鮮が大々的に前宣伝して強行した、人工衛星と称する長距離弾道ミサイルの打ち上げはあえなく失敗した。自衛隊はパトリオット・ミサイル(PAC3)やイージス艦を展開して「不測の事故」に備えたが、幸か不幸か空騒ぎに終わった。

 県内にPAC3が配備された『沖縄タイムス』は「あの騒ぎは何だったか」と問いかけた(4月14日社説)。「実戦色を漂わせた大がかりな部隊展開は復帰後、初めてと言っても過言ではない。住民を危険から守るというよりも、そのことを表向きの理由とした機動展開訓練の側面と、自衛隊を認知させるための政治的デモンストレーションの意味合いが強かったのではないか」。

北のミサイルに大規模展開
  北朝鮮がミサイル発射を予告したのが3月16日。今回は南方に向けて打ち上げ、最終的な落下予想地点はフィリピン東方海上とされていた。ミサイルは石垣島付近の上空を通過する。万一の事故で日本領土に落下物がありうるとして、政府、防衛当局は早々とPAC3の沖縄県内への配備やイージス艦の日本西方海域への展開などを決めた。

 これらの動きについては、素人目にもいくつかの疑問がわいた。そもそも北朝鮮のミサイルからの落下物が日本の領土に被害をもたらす可能性はどのくらいあるのか。この落下物を地対空ミサイルで撃墜できる確率はどの程度なのか。こうした措置をとることで回避できる地上の損害の大きさと、地対空ミサイルや艦船、兵員を大量に動員するのに要する費用を比べた費用対効果を当局はどう試算しているのか。おそらく国民の多くも同様の疑問を持ったに違いない。

 しかしその後の新聞もテレビも、筆者が目にした限りでは、こうした点を掘り下げて伝えた様子がうかがえない。これはどうしたことだろう。推察するところ、おそらく報道の現場は政府や防衛当局が次々に打ち出す対処方針を右から左に伝えるだけで終わってしまい、当局側の方針の実効性やその意味、大規模な作戦の費用、その背後にある当局側の意図などを検証できなかったのではないか。

 現場の記者に国民の抱く疑問がまったく思い浮かばなかったとは思えない。いくつかの新聞の記事にはその兆しもうかがえた。が、疑問を突き詰めてその答えを引き出そうとする報道はほとんどなかった。一連の報道は、当局側の提供する情報をほとんど無批判に流しただけに終わった感をぬぐえない。メディア側の怠慢が批判されても、言い訳はできそうにない。

政府の情報を疑わず
  数少ない例外の一つは『沖縄タイムス』の報道である。4月6日付の同紙は、PAC3の沖縄配備に「軍事的な意味はない」と断言し、むしろ自衛隊の「展開の訓練と、先島進出に向けた地ならし」を目的とする別の思惑があると指摘する、防衛省出身の柳沢協二・元官房副長官の見方を伝えていた。沖縄のメディアの問題意識が引き出した証言だろうが、本土の主要メディアにどうしてこうした視点が共有されないのか、首をかしげざるをえない。基地問題などをめぐって際立つ本土と沖縄のメディアの間の「温度差」が、ここでも露呈しているように思われた。

 北朝鮮のミサイル打ち上げ失敗を受けて書かれた主要各紙の14日付社説は、いずれも北朝鮮の発射強行を非難し、国際社会による北への厳しい対処を促していた。しかし日本政府の大げさな対応に疑問の目を向け、その是非を問うものはなかった。

 気にかかるのは一連の報道に、政府や防衛当局が矢継ぎ早に打ち出した対応策を、メディアが独自の視点で検証しようという姿勢が乏しかったことである。ニュース報道の基本は、検証することにある。情報の価値を評価し、それを伝えることの意義を確かめることだ。しかし現実には、政府や官庁などの情報については、とかく検証の作業が省略される。メディアはほとんど自動的に権力、権威を信頼し、提供された情報を疑うことなくそのまま伝えている。

 検証抜きの報道が常態化すると、情報提供者の思惑に沿った報道をすることになりがちだ。現場の記者が無意識のうちに情報源と一体化して、権力と同じ視点で報道する落とし穴に陥りやすい。だからこそ、ニュース報道には意識して検証を報道活動の中心に据えて考える必要がある。

報道の責任を放棄
  検証を欠く報道は、3・11後の原発事故をめぐっても顕著だった。事故のあと、政府や東京電力の発表をそのまま伝えるだけに終始した報道のありようは、「大本営発表報道」と揶揄された。原発周辺地域の住民にとって死活的に重要だったSPEEDI(放射能拡散予測システム)のデータの公表が遅れたことも、事故を起こした原子炉で炉心溶融が起きていたことを東電が認めるまでに2か月もかかったことも、せんじ詰めれば当局の発表を検証し問題点を追及するメディアの力が不足していたためだった。

 メディアはまた、原発から20キロないし30キロ圏の立ち入り制限区域に入ることを避け、数か月以上にわたって原発周辺地域の取材を怠った。それは、現場取材で事実を検証するという報道の責任を放棄したにも等しいことだった。

 3・11から1年あまりが経ったいま、関西電力大飯原発3、4号機の再稼働の可否がニュースの焦点になっている。政府は露骨に再稼働への道を急いでいる。安全性に対する疑念、不安は残ったままだ。今後のエネルギー政策の方向も議論されていない。が、事態は政府の思惑に従って動き始めている。メディアは、一部で政府の方針に疑問を投げかけ、批判を加えてはいるものの、おおむね政府の強引な既成事実づくりの波に押し流されつつあるように見える。メディアの検証が有効に機能しているようにはうかがえない。

 検証を忘れた報道は報道の名に値しない。政府や電力会社の主張をおうむ返しに伝えるだけの報道では、読者、視聴者の信頼をつなぎとめることはできない。

「脱ポチ宣言」の取り組み
  多くの報道が検証を欠く現状追認型にとどまっている中で、検証を強く意識して続けられているのが『朝日新聞』に長期連載中の「プロメテウスの罠」と「原発とメディア」である(本欄2012年2月号)。前者は原発事故をめぐるさまざまな出来事の事実の検証を、後者は原発をめぐる過去の報道の自己検証を主題に据えている。

 もう一つ、原発問題の報道に集中的に取り組んでいる『東京新聞』の「こちら特報部」の姿勢も、報道における検証を重視したものだ。脱原発の立場を明確にし、政府や電力会社の原発政策や事故への対応を容赦なく批判している。

 これらの報道に共通しているのは、これまでの報道の主流であった記者クラブに足場をおくことをやめ、記者クラブ取材にありがちな「官」や権威頼みの視点から解放された自由な立場で報道にあたっていることである。「プロメテウス」取材チームを束ねた依光隆明・編集委員(当時特別報道部長)はそうした考え方を「脱ポチ宣言」と称し、「権力や当局のポチになる気はさらさらない」「読者を向いて書くしかない」と説明している(『ジャーナリズム』2012年4月号)。

 政府や官庁は市民の生活に関わりの深い情報を多く握っている。それを伝えるのはメディアの重要な仕事だ。しかし提供される情報を検証することなく伝えるだけでは、メディアは役所の広報機関と代わらなくなる。いまメディアの伝える日々のニュースの多くが、実質的にただの政府広報になりさがっていないかどうか、真剣に見直す必要がありはしないか。

 報道現場がせめて「脱ポチ宣言」の心意気だけでも共有することを期待したいところだが、無理な相談だろうか。(共同通信社社友)
                       {メディア談話室}(『メディア展望』2012年5月号掲載)