藤田博司 (ジャーナリスト・共同通信社社友・元ワシントン支局長)メディアは正直ですか12/08/03
メディアは正直ですか
藤田博司 (ジャーナリスト・共同通信社社友・元ワシントン支局長)
ジャーナリズムの重要な価値の1つに「インテグリティ」がある。辞書には正直さ、誠実、高潔などとともに職業的規範、規準が訳語として掲げられている。ジャーナリズムが信頼されるために欠かせない資質、ともいえる。
いま日本のジャーナリズムにどれほどのインテグリティを市民が認めているだろうか。ジャーナリズムは市民の信頼なしには十分な役割を果たせない。しかしジャーナリズムの担い手であるメディアの最近の振る舞いを見ると、このインテグリティを守る意識が報道の現場にどこまで定着しているのか、心もとない気がしてくる。
フェアでない後追い報道
メディアのインテグリティを疑わせる昔ながらの慣行がある。他社が先行報道した特ダネの後追いをする際に、残りの社は先行されたことには一切触れず、半日遅れ、あるいは一日遅れの自社報道があたかも初めての報道であるかのように伝えることである。情報の中身を先行した他社の報道に頼らねばならない場合でも「A社の報道によれば」と書くことはせず、「・・・がわかった」という表現で、あたかも独自に取材した情報であるかのように報道する。どういう経緯で「わかった」のか、読者にはわからない。
この報じ方はフェア(公正)ではない。正直でもない。競争相手の優れた仕事はきちんと評価し、認めるのが、プロとしての姿勢だろう。それをしないのは、いかにも潔さに欠ける。それ以上に問題なのは、先行報道に言及しないままその成果を自社の報道に活用するのは、記事の盗用にあたる危険を冒している点である。ジャーナリズムの世界では他人の記事の盗用は重罪にあたる。
AP通信やニューヨーク・タイムズの報道の手引きや倫理基準には、他社の報道の後追いをするときは、先行報道があった事実に必ず触れて、先行した社の名前を明示することを記者に求めている。それを怠ると、記事盗用の疑いをかけられることになりかねない。日本のメディアが競争相手の功を認めたがらないのは、おそらくメンツの問題だろう。しかし公正さや正直さを疑われ、記事盗用とみなされる危険を冒すことは、単なるメンツ以上の重大な問題をはらんでいる。
例外もある。東京新聞の田原牧記者は6月12日のコラム「メディア観望」で、原子力委員会の秘密会議の問題を、毎日新聞のスクープであることにきちんと言及したうえで「他紙に”抜かれた“恥ずかしさを堪えて」論じていた。しかし読者の立場からすれば、毎日新聞がスクープした事実に触れること自体、何も恥ずかしいことではなく、むしろそれを明示せずに論ずることのほうが恥ずかしい行為というべきだろう。
木で鼻括った訂正
メディアが自らの説明責任をきちんと果たしていないことにも、インテグリティの欠如を見て取れる。たとえば、5月17日朝日新聞朝刊2面下段隅に掲載されたわずか10行ばかりの訂正記事がある。これは朝日が4月5日に報じた記事の中で「学生時代からの友人」と書かれた財務省幹部と国交省幹部は「友人ではありませんでした」というだけの訂正である。
4月の報道に関して財務省は、内容に誤りがあるとして4月中に2回、朝日に抗議したがなしのつぶてだったという。そのため5月1日に省のホームページで抗議内容を公開していた。訂正記事はこれに対する朝日側の回答だった。
しかしこの短い訂正記事を読んで、それが意味することを理解した読者はほとんどなかったに違いない。多くの読者は財務省のホームページを見たこともないだろうし、財務省の抗議自体が朝日の紙面で報じられたこともない。抗議の内容を知らないでは、訂正の背景もその意味もわからない。仮に最初の朝日の記事をもう一度注意深く読み返してみても、「友人ではなかった」ことが記事全体にどう関わってくるのか、理解は難しい。木で鼻括ったような訂正記事で読者にいったい何を理解してもらいたいのか、新聞側の意図がまったくつかめない。
これほど極端ではなくても、新聞の訂正記事は形ばかりのものが多い。訂正の理由や背景の事情をきちんと説明しなければ、読者にはほとんど意味をなさない。新聞にとっての単なるアリバイ作りではないかと疑われるものさえある。そんなメディア側の姿勢には、正直さや誠実さは見出そうにも見出せない。
程遠い「公正・中立」
数土文夫NHK経営委員長が東京電力の社外取締役に就任するためNHKの仕事を辞めたのは、二つの職を兼任すれば利益相反を生む可能性が指摘されたからだった。報道する側とされる側の間に、直接、間接の利害関係がある場合、報道に際して利害関係の存在を読者、視聴者に明確に説明しなければならない。そうしなければ、報道が利害関係に左右されているとの疑いがもたれ、報道の公正さを守れないからである。
しかし日本ではこのルールが誠実に守られているようには見えない。昨年来、幾度か話題になった読売巨人軍と清武英利元球団代表の内紛をめぐる報道のあり方にもそれがうかがえる。巨人軍が読売新聞と同じ読売グループに属する企業であることは周知の事実。巨人軍に関わる問題の報道にあたって読売新聞が利害を共にする巨人軍寄りの報道をすることは容易に想像できる。
だからこそ読売新聞としては、自分たちの報道が公正に、中立的な立場から行われていることを読者に示す必要がある。身びいきの偏った報道と思われないために注意を払うべきだろう。しかし実際の報道は「公正・中立」という印象からは程遠い。清武氏が巨人軍と決別した昨年11月以降の読売新聞の報道では、清武氏は完全に悪役にされ、非難の対象になっている。一方的に攻撃されるばかりで、清武氏側の主張や弁明が読売新聞の紙面に伝えられることはまずない。
週刊文春が6月に原辰徳・巨人軍監督の不祥事を暴露したときも、読売新聞は原監督が1億円を支払った相手が「反社会的勢力ではない」との巨人軍の主張を真っ先に伝え、スキャンダルの火消しに躍起になっていた。読売新聞が相手の素性を独自に検証した気配はなかった。
取材のミスを認める
メディアは取材対象に対して情報公開と説明責任を要求する。透明性を高めることが、真実を追求する報道には欠かせないからである。が、メディア自身の関わる問題になると、とたんに歯切れが悪くなる。他者には高い透明性を求めるのに、自からの情報公開には消極的になる二重基準がしばしば指摘される。これもメディアの正直さを疑わせ、メディアへの信頼を損なう材料になる。
そんなメディア不信の空気の中で、救いを感じさせてくれたのが、東京新聞6月21日付のコラム「応答室だより」だった。大飯原発再稼働を政府が決定する前夜の6月15日、首相官邸周辺では最近にない大規模な脱原発デモが行われた。翌日の東京新聞がこのデモについて報道しなかったため、読者から不満の声が殺到した。
これを受けて書かれた鈴木賀津彦・室長のコラムは、「担当部署の連絡ミス」で取材記者が現場に出なかったことを率直に認め、併せて読者からの代表的な声を紹介していた。単純な訂正はもとより、取材・編集上の判断の誤りをメディアがこれほど潔く認めて読者に謝罪する例を見ることはめったにない。この正直さこそ、いまの読者が新聞に求めているものではなかろうか。
多くの読者、とりわけ若い世代の読者は新聞が面白くない、わかりづらい、という。おそらくその理由は、記事の多くが建前の裃(かみしも)を着けているからと思われる。新聞が時に押し付けがましく、傲慢に見えるのもそのためだろう。
メディアが本当に市民から信頼され、社会に欠かせない存在と認められるためには、いま一度、自分たちのインテグリティを掛け値なしで反省してみる必要がある。
(「メディア展望」2012年8月号『メディア談話室』より転載)