藤田博司 (ジャーナリスト・共同通信社社友・元ワシントン支局長)カナリアは歌を忘れたか12/08/24

 

           カナリアは歌を忘れたか

    藤田博司 (ジャーナリスト・共同通信社社友・元ワシントン支局長)

 メディアよ、メディア、新聞よ、テレビよ。
  心あらば、伝えてよ、わたしたち読者、視聴者の知りたいニュースを。

 日ごろ、あなた方は云ってるじゃない?
  国民の「知る権利」のために働くのが自分たちの仕事だと、
  国民が関心を持つニュースを伝えることが自分たちの使命だと。

そう、そのためにあなた方には、わたしたちにはない特権が認められている、
政府のお偉方や政治家にも自由に会える、記者会見で自由に質問できる、
何を聞いても、何を伝えてもとがめられることはない、
真実を追求し、事実をありのまま伝え続けている限りは。

ところがどうだろう、最近のメディアの仕事は?
胸張って、しっかり自分たちの仕事をしていると言えるだろうか、
自分たちの使命をきちんと果たしていると言えるだろうか。
このところ、週刊誌に面白いニュースを抜かれっぱなしじゃないか、
小沢一郎氏夫人の「離縁状」の話、巨人軍・原監督が1億円を脅し取られた話、
元国税庁長官の所得申告漏れや「脱法重婚」の話、それに、
強姦容疑の厚木基地所属米兵を日本政府の介入のために地元警察が逮捕できずにいる話、
どれも事実なら大ニュースだが、新聞もテレビも掘り下げて伝えようとしていない。

週刊誌の報道はあてにならないからメディアは後追いしない、という説がある、
あてになるかならないかは、メディアが検証、確認すればいい、
独自の検証も確認作業もした気配がないから、わたしたちは疑心暗鬼になる。

何が怖くて報道できないのか、報道できない理由があるのか、
不自然な沈黙が続けば続くほど、わたしたちは余計なことまで推測する、
行き着くところ、メディアはその仕事や使命を遂行する気をなくしたのではないか、
カナリアが歌を忘れてしまったのか、とまで考えてしまう。

歌を忘れたカナリアはいずれ捨てられる運命にある、しかし捨ててしまっては
カナリアの歌を二度と聞けなくなる。それでは民主主義は立ちいかない。
メディアよ、心あらば伝えてよ、わたしたちが知りたいニュースを、
せめて当事者に「週刊誌の報道は事実か」と現場の記者に質問させてくれ、
ニュースのプロならその程度のことはできるだろう、それさえできないなら、
もはやカナリアが歌を忘れたかと疑うしかない。