藤田博司 (ジャーナリスト・共同通信社社友・元ワシントン支局長)『週刊朝日』の罪となぜ? 12/12/01
『週刊朝日』の罪となぜ?
藤田博司 (ジャーナリスト・共同通信社社友・元ワシントン支局長)
相手が人であれ、組織であれ、メディアで批判するときは、少なくとも次の条件が満たされていなければならない。第一に、正確な事実にもとづいていること、第二に、フェア(公正)であること、第三に品位を欠かないこと、である。一つでも条件を満たせなければ、批判は単なる誹謗中傷に堕してしまう。『週刊朝日』(10月26日号)が橋下徹・大阪市長を取り上げた連載第1回の記事は、この条件にことごとく反した、乱暴な記事だった。そのために橋下市長から猛烈な反発を食らい、発行元は謝罪し連載を中止する羽目に追い込まれた。
偏見、差別の助長も
表紙に大きく掲げられた記事のタイトルは「ハシシタ」。そして「橋下徹のDNAをさかのぼり、本性をあぶりだす」とある。「ハシシタ」は橋下市長の父親が「ハシモト」に読み方を変えたもともとの読み方だという。だとしても、ことさらに昔の読み方をタイトルに掲げたことには、明らかに橋下市長に対する敵対意識や侮蔑感が色濃く表れている。
記事本文にはこの敵対意識や侮蔑感を裏付ける表現が頻繁に登場する。副題に掲げた「奴の本性」、「恐ろしく暗い目をした男」「裏に回るとどんな陰惨なことでもやるに違いない」「おべんちゃらと薄汚い遊泳術で生きてきた」といった、橋下市長に関する否定的な叙述がある。大阪維新の会の懇親会に集まった橋下市長の支持者らについても「橋下フリークにふさわしい贅六流のファシズム」「打算づくでパーティ券を売ってひと儲けした(略)下品な連中」などの表現が使われている。
これらの記述にはどこまで確かな事実の裏付けがあるのか、記事では判断の手がかりもない。一方的な批判には公正の装いもこらされていないし、過激な表現には品位も感じ取れない。記事そのものの基調が橋下市長に対する敵対意識に貫かれているように見えるからである。
この記事が問題にされたもう一つ大きな理由は、記事の中に被差別部落に対する偏見、差別を助長すると解される記述があったことである。橋下市長の実父が被差別部落の出身であったことや、その出身地を特定した記述があったこと、さらに実父の生前の生業などに触れ、橋下市長の「厄介な性格」があたかも出自や血脈に関係があるかのようにほのめかす記述があったことである。
橋下市長が幼少のころ亡くなった実父の出自については、昨年、他の週刊誌、月刊誌などで伝えられたことがあるが、その時は今回のように大きな社会問題になることはなかった。『週刊朝日』の報道が今回厳しい批判を浴びたのは、記事の基調が橋下市長に対する敵対意識をむき出しにしたものと受け止められたこと、その文脈で「出自」や被差別部落に関する事実が取り上げられたためだろう。
メディアにとって、差別や偏見の解消は常に意識的に取り組んできたはずの課題である。それがこともあろうにそれを助長するかのような記事を大々的に掲載した『週刊朝日』の罪は限りなく大きい。
時間切れで残った問題
『週刊朝日』の報道に対する橋下市長の反応は早かった。雑誌が発売された翌日の10月17日朝、橋下市長は「朝日グループメディアの取材拒否」を宣言した。翌18日、朝日放送の取材拒否は解除したが、午後、週刊朝日問題で長時間の記者会見をし、一部テレビでも生中継された。市長が特に問題としたのは、記事が「身分制度に通じる血脈主義という考え方を前提としている」点だった。
発行元の朝日新聞出版は18日におわびのコメントを発表、翌日には2回目以降の連載を打ち切るとの方針を明らかにした。連載中止については「性急すぎる」「国民の知る権利を損なう恐れがある」などの批判が読者や識者から寄せられたが、発行元にとっては他の選択肢はなかったようだ。
連載企画の目的は、ここ数年、政治家として急速に注目を集めるようになった橋下氏の人物像を評伝の形でまとめることにあったという。雑誌の編集部の企画で、ノンフィクション作家の佐野眞一氏をライターに起用、当初は10回ないし15回の連載で伝えたあと、一冊の本にする予定だったらしい。情報の取材には編集部が委嘱した二人のフリーランスの記者が主としてあたり、佐野氏も重要人物には直接取材していた。
この種の大型連載企画ともなれば、通常は初めの数回分の原稿が用意できた段階で連載をスタートさせるのが常識とされている。そうすれば、連載全体の流れがある程度定まり、内容についても時間をかけて点検する余裕が持てるからだ。しかしこの「ハシシタ」連載については、連載開始時に編集部にあった佐野氏の原稿は1回目のものだけで、その1回目の原稿も事前に編集長や周辺の関係者が内容を十分にチェックする時間もないまま印刷への作業が進められたとされている。
誌面に掲載される原稿の内容について最終的に責任をもつのは雑誌の編集長であり、担当デスクである。今回のように重要な企画や微妙な問題に関わる原稿であれば、部外の、例えば顧問弁護士による法的な問題の有無のチェックを受けることもできるし、編集部外の責任者の査読を求めることもある。しかし「ハシシタ」連載ではそうした部外者による時間をかけたチェックを受けてはいなかった。
校了日直前に部外の複数の上司が原稿に目を通し、不適切な表現や差別的な記述など数多くの問題点を指摘して、編集長やデスクに修正を要求した。編集部は筆者の佐野氏と協議して一部を修正、あるいは削除したが、結局時間切れですべての問題には対処できず、問題とされた不適切な部分を残したまま、雑誌の発売日を迎えてしまったのだという。
相次いだ誤報、不祥事
この連載は春先に企画され、6月ごろから順次取材を進めてきたものである。連載開始までに十分な準備をするゆとりがなかったわけではない。伝統のある週刊誌をこれまで発行し続けてきた編集部に、この種の原稿をきちんと処理するノウハウや慣行が欠けていたとは思えない。比較的短時間で原稿の問題点を指摘し、修正できる体制も整っていた。
振り返れば、現場が通常の注意力と常識を働かせて作業に取り組んでいれば、今回のような問題のある原稿が誌面に出てしまうような事態は起こりえないはずである。が、実際にはそれが起きてしまった。直接的には、編集部にさまざまな局面で判断の誤りないし甘さがあった、と思われる。間接的にはそれを許す、規律の緩みが職場全体にあったと見ることができる。
通常なら起こりえないようなことが起きる事態をわれわれはつい最近、ジャーナリズムの世界で相次いで目にしたばかりである。『読売新聞』が10月、特ダネとして大々的に報じたiPS細胞の臨床応用をめぐるニュースは、情報を確認するという、ジャーナリズムの最も基本的な作業を怠ったために生じた大誤報だった。これを後追いした共同通信の報道も同じように確認作業をおろそかにした結果だった。いずれも通常なら起こりえないような基本的なミスが積み重なった出来事だった。
尼崎の連続不審死事件の首謀者とされる女性の顔写真を複数の新聞、テレビ、通信社がそろって別人の写真と間違えて繰り返し報道したのも、やはり報道現場が情報の確認を怠ったために起きた誤報だった。『週刊朝日』の橋下報道も、現場の関係者が仕事の基本に忠実であれば避けられた過ちだったと言っていいだろう。
なぜいま、こうした不祥事がジャーナリズムの現場でくりかえされるのか。この問いは、このまま現場で働く人たちに投げかけるほかない。いま報道の現場に何が起きているのか。記者たちはそれぞれの仕事に意義を見出しているか。確かな目的を持っているか。日々、仕事に手ごたえを感じているか。
働く現場の士気が低下すれば、仕事に必ず緩みが現れる。緩みが積み重なると、誤報や判断の間違いにつながることになる。ジャーナリズムの現場にいまそうした士気の衰えはないか。あるとすれば、何がそれをもたらしているのか。どうすれば再び士気を高めることができるのか。一連の不祥事を前に、メディア企業の幹部にはとりわけ深刻に反省を促したい。
(『メディア展望』2012年12月号より転載)