藤田博司 (共同通信社社友・元共同通信論説副委員長)取材拒否に音無しのメディア 13/08/03

 

       報取材拒否に音無しのメディア 13/08/03

   藤田博司 (共同通信社社友・元共同通信論説副委員長)

 この原稿が読者の目に触れるころには参院選のほとぼりも覚め、選挙の結果があらかじめ想定されていたかのように、政治家もメディアもそれぞれの日常を取り戻していることだろう。おそらく何の反省もなく。反省、って何を?選挙前の予測通り自民、公明の与党が圧勝すれば、与党は憲法改正でも原発再稼働でも、思い通りに政策を進める環境が整う。権力基盤を一挙に強化した政府・与党を相手に、メディアは権力を「監視する」役割をしっかり果たせるのか、という不安が頭をもたげる。反省の材料には事欠かない。

  報道への政治の介入
  選挙前の日常に戻ったメディアは「これまで通り」に違和感はあるまい。しかし選挙前に政治家とメディアの間で起きた一連の出来事を目にしたものには、ねじれ解消後の政治をメディアが「これまで通り」の姿勢で報道することには、少なからぬ懸念がつきまとう。

 今回の参院選が公示された7月4日、自民党は6月26日に放送されたTBSの報道内容が「公平さを欠いている」と抗議し、TBSに対して党幹部に対する取材や幹部の同局番組への出演を拒否する、と発表した。TBSはこれを受けて「指摘を受けたことを重く受け止める。今後一層公平、公正に報道していく」との報道局長名の文書を自民党の石破幹事長に提出、また「政治部長はじめ報道現場関係者」が「数次にわたり」「説明」のために自民党を訪れた。自民党はそれを「誠意と認め」、報道局長名の回答文書を「謝罪と受け止め」て、前日来の措置を撤回した。

 事実関係はこれだけのこと、これで一件落着と当事者たちは見なしているようだが、重大な問題が見過ごされている。第一は、政治が報道に露骨に干渉したことである。報道の内容に直接口出しし、圧力をかけるような行為は、政党あるいは政治家として最も慎まねばならないことである。仮に報道の内容が不当、不正確と見られるものであっても、政治の側は言論を通じて反論、釈明すべきであって、取材拒否などの露骨な圧力をかけて訂正、謝罪を求めるのはまちがっている。メディアに対するこの種の圧力は、憲法に保障された言論の自由、表現の自由に対する明白な侵害と言わねばならない。

 第二はテレビ局側の対応の問題である。報道局長名の文書を「謝罪と受け止めた」とする自民党の言い分に対して、TBSの政治部長は5日、「放送内容については訂正、謝罪はしていない」と述べている。ならば、数次にわたって自民党を訪れた政治部長や報道現場の関係者と自民党の間でどのようなやり取りが交わされたのか、はっきりさせねばなるまい。放送局側に謝罪の意思はなくても、それと受け取られるような話がでていたとすれば、放送局側は政治の圧力に屈したことになる。

  「大誤報」批判にも沈黙
  さらにこの出来事は、自民党対TBSという問題にとどまらず、政治とメディアの今後のありようにも影を落とす心配がある。政治が報道に介入し、メディアが圧力に屈して政治に恭順の姿勢を示したことになれば、政治は自分たちの行為が正当化されたとまちがって信じ込む可能性がある。

 TBSに対して自民党がとった今回の措置は、すでにメディアを委縮させる効果を十分にあげていると言えるかもしれない。報道に対する政治の介入、報道の自由の侵害という問題をはらんだ出来事にもかかわらず、報道機関がそろってこれに抗議する声さえあげていない。11日の毎日新聞社説が自民党の「行き過ぎ」を批判した程度の反応の鈍さだ。それがメディアの側の無関心によるものか、勢いづく自民党に盾つくことへの不安からか、いずれであってもメディアの音無しの構えが気にかかる。

 政治に対してメディアの腰が引けている兆しは最近の一連の出来事にもうかがえる。日本維新の会共同代表の橋下徹・大阪市長は、自身のいわゆる従軍慰安婦発言や風俗発言が大きな論議を巻き起こしたとき、議論を招いた原因をメディアの「大誤報」のせいだと主張し、メディアを批判した。これに対して橋下市長の主張の理不尽さを紙面で指摘し、正面切って反論したのは朝日と毎日の2紙だけだった。他の有力紙は慰安婦発言や風俗発言については社説で批判を加えていたが、「大誤報」発言については問題として取り上げることもなくやり過ごした。

 口から出まかせのような橋下市長の発言を取るに足りず、と判断したのかもしれない。しかし注目される公人の口から「大誤報」と侮辱に等しい決めつけ方をされれば、メディアとしては報道を担うものの矜持にかけて正面から反論しなければなるまい。それをしなかった、あるいはできなかった新聞やテレビは、侮辱を甘んじて受け入れたと見なされても仕方あるまい。

  危うくなる報道の自由
  気にかかるのは参院選後の政治とメディアの関わりである。いわゆる衆参のねじれ現象が解消すれば、与党はこれまでより大胆にその政策課題の実現に向けて行動を起こすだろう。おそらく、衆参両院での絶対多数を背景に自信を強める与党は、メディアの批判(仮に批判できても)に対してこれまで以上に強力に批判を抑え込もうとするかもしれない。TBSに取材拒否を突きつけ「謝罪」を引き出した成功体験は、政府と自民党の対メディア対策に一層の自信をつけさせたに違いない。

 TBSに取材拒否を通告した翌日の記者会見で、菅官房長官は自民党がとった措置を「客観的な事実と違ったことを報道された。(自民党の措置は)当然のことではないか」と語っている。その言葉の裏には、テレビのニュース報道の中での自民党の扱いについて一方的で不利な扱いをされたと判断すれば、政権与党がテレビ局に抗議し、訂正と謝罪を求めることを「当然」とする「表現の自由(報道の自由)」観がある。もし政府や与党が報道の自由についてこの程度の認識でこれからメディアに対処するとすれば、自民党が提案している憲法改正の実現を待つまでもなく、現行憲法が保障するさまざまな自由と権利が危うくなる。

 自民党の改憲草案は「一切の表現の自由を保障する」としながら、同時に「公益及び公の秩序を害することを目的とした活動」や「結社」は「認められない」と重大な制限条項を付している。TBSに対する自民党の抗議や訂正・謝罪要求は、改憲が実現した暁には政権政党が「一方的、事実と違う」と判断すれば「公益及び公の秩序を害する」報道として取り締まられかねない、未来の報道の自由の危うさを見る思いがする。

 自民改憲草案には、表現の自由だけでなく、現行憲法が保障するあらゆる基本的人権を「公益及び公の秩序」で制限する条項が含まれている。メディアはそうした問題点に最も敏感に反応しなければならないはずなのに、問題点を十分に指摘する報道がつい最近までほとんどなされなかった。この反応の鈍さは、橋下市長の「大誤報」発言やテレビ局への取材拒否に対するメディアの沈黙と共通するものかもしれない。

  圧力には毅然と対応を
  今回、自民党がTBSに対する取材拒否を決めたのは安倍晋三首相の指示によるものだったという(北海道新聞電子版7月6日)。安倍首相はかつて幹事長時代にテレビ朝日や朝日新聞に対し、やはりそれぞれの報道を理由に取材拒否をしたことがある。自分の気に染まない報道にこうした対抗措置をとるのは、この人の体質に根差すものかもしれない。だとすれば、安倍政権が今後メディアに対して強圧的な姿勢を強めてくることも十分予想される。

 そのときメディアが一致結束してジャーナリズムの独立した立場を貫くことができるかどうか。取材拒否を突きつけられて右往左往したり、弁明や謝罪に走ったりするようでは、政治の圧力を跳ね返すことはできまい。不当な圧力には毅然とした対応ができるよう、いまから腹を固めておくべきだろう。
                        (『メディア展望』8月号〈メディア談話室〉より転載)