藤田博司 (共同通信社社友・元共同通信論説副委員長)後味悪い麻生発言と報道 13/09/02
後味悪い麻生発言と報道 13/09/02
藤田博司 (共同通信社社友・元共同通信論説副委員長)
後味が悪い。このうえなく悪い。麻生副総理・財務相が「ナチスの憲法」を引合いに出して「あの手口に学んだらどうかね」と発言した。麻生氏は批判されるとすぐさま「撤回」を表明。しかし謝罪はせず、辞任することも拒んだ。安倍首相、菅官房長官は「撤回」で一件落着を装っている。
メディアは最初からそろって発言を問題視したわけではなかった。7月29日の都内の会合で出たこの発言を翌日に報じたのは共同通信と読売新聞だけ。他の新聞は8月1日の朝刊(東京新聞は31日付朝刊)で初めて紙面に取り上げた。が、あとはすっかりしりすぼみ。「一件落着」と、メディアも考えたのだろうか。
くみ取れぬ麻生氏の真意
麻生氏はナチスを「否定的な意味で例示した」のが真意だったと言い、批判的な報道があたかも誤解に基づくものであったかのように説明した。しかし伝えられた発言の全文を読んでも(文脈が読み取れないほど日本語が支離滅裂で)ご当人の確かな真意などはくみ取りようもない。比較的はっきりしているのは、憲法改正を「狂騒の中で決めてほしくない」ということと、「ワイマール憲法は(だれも気づかないうちに)変わった。あの手口に学んだらどうかね」という部分だ。
その前後を併せ読んでも麻生氏の説明のように、ナチスを否定的に例示した言葉づかいとは思えない。だが安倍首相、菅官房長官ら閣僚は早々と財務相の説明を理解したと言い、日本維新の会の橋下・石原両共同代表も、麻生氏の弁護に回った。この人たちの「理解」や「弁護」がどのような理屈のうえに成り立ちうるのか、見当もつかない。
後味の悪さをぬぐえない第一の理由は、政治家が無理を押し通し道理を封じるこうした行為を、何ら恥じている様子もないことだ。首相や防衛相がオスプレイの普天間への追加配備を進めながら「沖縄県民の要望に配慮して基地負担軽減に取り組む」など恥ずかしげもなく語るのと同じ。メディアも政治家のそんな言い分をそのまま報じるだけで、何の異議申し立てもしようとしない。
政治家、とりわけ麻生氏のように高位にある政治家の発言には大きな責任が伴う。放言や失言であっても相応の責任をとらねばならない。「撤回」すれば責任が帳消しになるわけではない。が、今回もまた過去の数多くの放言、失言と同じように「撤回」を表明するだけで片づけられた。ご当人のあいまいな「真意」の説明を、周囲の政治家もメディアもおとなしく受け入れて、幕が引かれたかに見える。
同じことが幾度繰り返されれば済むのだろう。5月には橋下大阪市長(日本維新の会共同代表)の「従軍慰安婦」「風俗利用」発言が内外からの批判を浴びた。橋下氏は問題をメディアによる「大誤報」のせいにした。批判されたメディアは一部の新聞を除いてこれに反論さえしなかった。
麻生氏の「ナチス発言」も橋下氏の「慰安婦」「風俗」発言も、日本に対する海外のイメージを著しく損なったことは否めない。外国の人たちは少なくともこれらの政治家の知的レベルの低さに驚いたに違いないし、こうした政治家を重要な地位につけている日本の民主主義の内実に疑問を持ったかもしれない。安倍政権が好んで口にする「国益」が大きく損なわれたことは間違いない。しかし首相がそれを気に留めている様子はない。
鈍いメディアの対応
後味を一層悪くする第二の理由は、こうした問題に対するメディアの対応の鈍さである。麻生氏の講演は各メディアとも取材していたと思われる。一部の社は当初、紙面や電子版に講演の一部を掲載したものの「ナチス発言」には触れなかった。
各社の取り組みが共同、読売に丸2日近く遅れをとったのは、麻生発言をそれほど重大視していなかったためと思われる。共同などの報道をきっかけに30日午後以降、韓国、中国、米国など海外から麻生発言を批判する反響が相次ぎ届き始めていた。他紙やテレビ各局はそれを見て「ナチス発言」の報道に踏み切ったものと推測される。各紙の初報はいかにも及び腰で、泥縄式の報道であったことがうかがえる。
初報の後の一両日、各紙ともそれぞれに「ナチス発言」の問題点や内外の反響などを伝えていた。朝日と読売は発言が及ぼす政局への影響や麻生氏の過去の放言・失言歴なども含めて大きな紙面を割いていた。しかし開会中の臨時国会で問題を審議しようという野党側の要求を与党が一蹴すると、メディアの報道も一気に熱が冷めてしまった。
朝日新聞のデータベースで8月1日から12日までの「麻生」「ナチス」をキーワードに検索した記事を見ると、主なニュース記事は1日の朝・夕刊と2日の朝刊に集中している。3日以降は国会での審議要求が拒否されたこと(3日)、ナチスを肯定したことは「断じてない」と安倍首相が語ったこと(5日)、野党が作成した抗議文の受け取りを首相官邸が拒否したこと(8日)などが簡単に報じられているにとどまっている。
一方、読者投稿の「声」欄には、3日から9日までほぼ連日、計14本の「ナチス発言」に批判的な「声」が紹介されている(東京、名古屋、大阪、西部各本社別に計算)。現場の記者より読者のほうがよほどこの問題に強い関心を見せていることがわかる。批判の切っ先も鋭い。
社説は各社とも麻生発言を批判している。しかし読売の社説(3日)は「手口に学んだら」という表現を「まったく不適切」と批判しているものの、この発言が「憲法改正を掲げる安倍政権にとって打撃となったのは間違いない」と現政権への影響を懸念するばかりで、麻生氏の責任を問う姿勢はない。
朝日社説(2日)は発言が海外に日本に対する「大きな誤解を与えた(麻生氏の)責任」を問い、「前言撤回で幕引きをはかるのではなく、きちんとけじめをつけなければ、まともな憲法論議に進めるとは思えない」として「安倍首相の認識を問」うている。しかしその後の新聞の紙面には、いっこうに財務相の責任や首相の認識を追及するような気配が見えない。
軽い言葉、虚構の情報社会
こうして政治家もメディアも、枢要な地位にある政治家の無責任極まりない、しかも国益を損なうほどの発言の責任をうやむやにし、何事もなかったかのように、さっさと他の話題に目を転じてしまっている。本来なら「ナチス発言」や「慰安婦発言」「風俗発言」などを口にした政治家は、もっと徹底的にその政治信条や過去の実績を追及されていいはずだが、野党側にもメディアにもそれをしようという動きがない。あいまいな説明や釈明と撤回、謝罪ですべてを水に流すような日本の風土では、同じような放言、暴言、失言がこれからも繰り返されることは間違いない。
憲法改正を「狂騒の中で決めてほしくない」というのが発言の真意だった、と麻生氏はいう。しかしお望みの、「だれも気づかないで(憲法が)変わった」、「落ち着いた」静かな環境は、すでに現実のものとなっているような気さえする。「ナチス発言」で麻生氏の責任をこれ以上追及する気配もない、緩んだ野党やメディアの姿勢にそれがうかがえる。後味の悪い三つ目の理由はここにある。
放言・失言を繰り返し、形だけ撤回、あるいは謝罪して一件落着。かけらほどの誠意も感じ取れない政治家の約束、リップサービスの空々しさ。その軽い言葉のあれこれをもっともらしく記録し、拡散するだけのメディアの報道。政治家の言葉、メディアの報道の空虚さをそれとなく察しながらニュースを見聞きし、読む市民。いくつもの虚構のうえに成り立っている情報社会、日本。
このままでいけば、だれか強力な指導者が登場し、嘘で固めた言葉で甘く国民にささやきかければ、聞くものを酔わせ、熱狂させ、「だれも気が付かないうちに」憲法どころか世の中の仕組み全体がすっかり衣替えしてしまう、ということもあり得ない話ではない。
麻生財務相の真意のわかりづらい「ナチス発言」は、ご当人も意識しないところで、現在の日本に警鐘を鳴らしてくれたのかもしれない。
「メディア談話室」(『メディア展望』2013年9月号より転載)