藤田博司 (共同通信社社友・元共同通信論説副委員長)社会を分断する報道の不公正14/07/02
社会を分断する報道の不公正 14/07/02
藤田博司 (共同通信社社友・元共同通信論説副委員長)
集団的自衛権の行使容認をめぐって世論が割れているという。一部の世論調査では容認派が多数だと言い、別の世論調査では反対派が過半数を占めているという。どちらが本当なのか。
福島原発事故当時、現場の責任者だった元原発所長の証言内容が朝日新聞によって特報され、政府がその証言を公表するかどうかが注目されている。しかし朝日以外の新聞やテレビは、模様眺めを決め込んでいる。これはどうしたことか。
ふだん読む新聞、視聴するテレビによって、世の中の事情がまったく違って見える、という状況が生まれつつある。ニュース報道を担うメディアのありようとして、このままでいいのだろうか。
まちまちの世論調査結果
集団的自衛権の行使容認については、5月中旬以降、各紙が世論調査結果を伝えている。容認への賛否を問う朝日、毎日の調査では反対がそれぞれ55%、54%と過半数に上り、賛成の各29%、39%を大きく上回った。共同通信調査でも反対(48%)、賛成(39%)で、反対が多かった。日経調査もほぼ同じ傾向を示している。
一方、読売と産経はともに「行使容認派が7割を超えた」と、朝日などの調査結果とはまったく逆の結論を伝えた。結論が逆になった原因は、朝日などの調査が容認への賛否を二者択一で問うものであったのに対し、読売と産経の質問には「全面的容認」と「最小限の容認」、「容認せず」の選択肢が示されていたことにある。両社の数字は「全面的容認」がともに約1割、「最小限の容認」がともに6割前後で、合わせて行使容認に「圧倒的な支持」が示された、と読売は報じた。
世論調査は質問の仕方一つで結果が大きく左右されると言われる、その好例だろう。それぞれの新聞社が意図的に誘導したかどうかはさておき、結果としては、この問題をめぐる各社の社説の立場に好都合な結論になっている。
世論の動向を測るうえでいずれの質問の仕方が適切であったか、なかったかには議論の余地がある。が、より大きな問題は、それぞれの新聞が得た調査結果をそれぞれがどう解釈するかにある。自社の社説の立場が世論の多数の支持をうけている、と考えるのか、逆に調査結果を受けて、自社の主張を慎重に考え直すことになるのか、各社の分析能力と、公正なニュース報道に携わるものの誠実さが試されることになる。
読売は5月30日から6月1日に行われた調査を踏まえて「(この結果が)今後の与党協議の行方に影響しそうだ」(3日)と報じ、この調査で「限定容認論への支持の広がりが明確になった」との見方も伝えている。自社の世論調査結果を、集団的自衛権行使容認を積極的に推進する自社の主張に都合よく解釈して報道していることが明らかにうかがえる。
民意のありかを探るには、単に調査結果の数字を並べてすむわけではない。数字の持つ意味を公正に判断し、自社寄りに流れがちな偏見や先入観を排して判断する努力が欠かせない。各社の報道にそうした公正さや誠実さがうかがえないのは残念というほかない。
無視された朝日の特報
東京電力福島第一原発の吉田昌郎・元所長(故人)が政府の事故調査委員会の調査に対して残した証言の記録を、朝日が「吉田調書」として大々的に報じたのが5月20日。事故当時の現場責任者の証言だけに、事故の真相解明には欠かせぬ重要資料と考えられるが、政府は故人の遺志を理由に公表を拒んでいる。これに対し福島原発告訴団などが情報公開を請求、受け入れられなければ裁判に訴える構えも見せている。
こうした動きがあるなかで、朝日以外の新聞もテレビも、いっこうに吉田証言の中身を報道する気配がない。一部の新聞は吉田証言報告書を公開するかどうかをめぐる官房長官と記者団の間のやり取りをごく簡単に伝えてはいるが、吉田証言の内容や証言の中身が持ち得る意味の重大さなどについてはまったく触れていない。
結果的に、「吉田調書」のことを知っているのは朝日の読者だけで、他の新聞の読者やテレビの視聴者は、報告の持つ意味はおろかその存在すら知らされていない。これでは、社会の成員が重要な情報を共有し議論を重ね多数意見を形成してゆく民主主義の過程が機能しない。
政府が公開を拒んでいるので他紙やテレビが証言記録を入手できない、という事情はあるかもしれない。しかしそれなら、朝日の報道を引用して、それに独自の取材に基づく吉田証言の評価、意義付けなどを報じる工夫も不可能ではない。(競争紙の報道など引用できない、という矜持が邪魔するとすればあまりに姑息。海外のメディアの報道を引用するのは日常茶飯なのだから)。それに、政府が証言記録の存在を認めているのだから、メディアが団結して記録の公表を政府に強く迫るべきではないか。その努力がなされている様子も感じられない。
あるいは、朝日のスクープに後追いするだけの価値なしと他紙やテレビが判断しているのかもしれない。現に一部の週刊誌では朝日の報道が事実をゆがめているとの批判も伝えられている。しかしそうであればなおさら、政府に吉田証言を公開させ、事故の真相に迫る努力を他紙、他メディアとしてはする責任があろう。
吉田元所長は事故当時の現場の最高責任者であり、その人の生々しい証言は事故の真相究明だけでなく、将来の事故防止策を考えるうえでもきわめて重要な歴史的資料だろう。政府がその公開を拒む正当な理由があるとは思えない。にもかかわらず朝日以外のメディアがそろってこの報告の存在すら報道しないのは異様に見える。
公正、誠実に役割果たせ
集団的自衛権をめぐるちぐはぐな世論調査報道にせよ、「吉田調書」を無視するかのような他紙、テレビの恣意的なニュースの扱いにせよ、どちらも日本のジャーナリズムの底の浅さを浮き立たせている。世論調査結果を自社の主張に好都合な方向に誘導し、それがあたかも客観的な事実であるかのように装うのは、明らかに報道の公正の原則に反している。本来、報道する価値のあるニュースを競争相手に先行報道されたからといって無視、軽視するのは、読者、視聴者の利益を損なう無責任な態度と言わざるを得ない。
こうした報道が常態化すると、社会が分断される懸念がある。ほとんどの新聞読者はふだん、お気に入りの新聞1紙にしか目を通さない。読売や産経の読者は集団的自衛権の行使容認について、世論の大勢は容認を支持していると思い込みがちになる。逆に朝日や毎日の読者は、世論の大半が容認反対、解釈改憲にも消極的と見なしがちになる。二つの読者層はこれからの日本についてまったく別のイメージを抱くことになる。
「吉田調書」についても同じことが言える。朝日の読者はその証言記録が持つ意味の重大さに気づき、原発事故の原因究明や責任追及の今後の展開に期待する。しかし他紙の読者やテレビの視聴者は証言記録が報じられたことすら知らない。今後の原発再稼動の是非を考えるうえでも、両者の間には判断に大きな違いが生じることもある。
ましていまや新聞を読む人たちが社会の少数派になっている。大多数の人たちはパソコンやスマートフォンを通じてインターネット上の断片情報をつまみ食いし、それで安全保障政策や原発政策などについてそれぞれの意見を形成しているのが実情だろう。集団的自衛権をめぐる世論調査の混乱や「吉田調書」の意味するものを、社会が熟慮、熟議してこれからの日本の進路を模索するのに役立てることは、これではとうていできそうにない。
社会が必要とする情報を十分に提供し、この熟慮、熟議を促がすのが、報道を担うメディアの役割の一つである。メディアは公正に、誠実にその役割を果たす義務がある。新聞社やテレビ局の利害や立場、メンツにこだわって姑息な対応をしているときではないはずである。
(メディア談話室『メディア展望』2014年7月号より転載)