池田龍夫/ジャーナリスト・元毎日新聞記者/回顧録 14/06/23
「平和憲法」の理念を崩してはならない
――幣原回顧録とマッカーサー回顧録を読んで――
池田龍夫 ( ジャーナリスト ・元毎日新聞)
自民党は集団的自衛権容認へ向け、武力行使を含む原案を提示したが、与党・公明党が難色を示し、野党8党も大反対。海外で武力行使することは、従来の憲法解釈から大きく逸脱する暴挙で、多くの国民からも非難の声が高まっている。
70年前の憲法制定時に平和憲法の理念を掲げたのは、幣原喜重郎首相(1945年10月から約半年間)だった。ダグラス・マッカーサー司令官率いる進駐軍の下での新憲法づくりは大変だった。安倍晋三内閣になってから「進駐軍の押し付け憲法は改正すべきだ」との声が高まり、世情は騒然としている。6月22日の今国会会期切れまでに集団的的自衛権成立に至らなかったものの、間違った歴史観を容認するわけにはいかない。そこで幣原、マッカーサー両氏の回顧録を精読したので、その重要部分を抜き出して参考に供したい。本欄としては異色の構成だが、お読みいただければ幸いである。
「戦争放棄」は幣原首相の悲願で、連合軍の押しつけではない
先ず幣原回顧録「外交50年」(中公文書)の記述から紹介させていただく。
「私は図らずも内閣総理大臣に就いたとき、私の頭に浮かんだのは戦争中の光景だった。戦後日本は新憲法の中に未来永劫戦争をしないようにし、政治のやり方を変えることを決意した。つまり戦争を放棄して軍備を全廃し、どこまでも民主主義に徹しなければならないということだ。見えざる力が私の頭を支配したのだった。よくアメリカ人が日本へやって来て、今度の新憲法は、日本人の意思に反して、総司令部から迫られたんじゃありませんかと聞かれるのだが、それは私が関する限りそうではない。決して誰からも強いられたのではないのである。もう一つ私の考えたことは、軍備などよりも強力なものは、国民の一致協力ということだ。武器を持たない国民でも、精神的に協力すれば、軍隊よりも強いのである。例えば現在マッカーサー元帥の占領軍占領政策を行っている。日本国民がそれに協力しようと努めているから、政治・経済などすべてが円滑に取り行なわれている。占領軍としては、不協力者を捕らえて、占領政策違反として殺すことができる。しかし8000万人という人間を全部殺すことは、何としたってできない。事実上不可能である。だから国民各自が、一つの信念、自分は正しいという気持ちで進むならば、徒手空拳でも恐れることはないのだ。だから日本の生きる道は、軍隊よりも何よりも、正義の本道を辿って、天下の公論に訴える、これ以外にないと思う」(P220~224)と、堂々たる信念を披瀝している。
次いで憲法草案づくりの苦労話に移ろう。「憲法草案の審議に取りかかると、ある規定のごときは少し進み過ぎて世の非難を受けるだろうとの心配も多少あった。起草に関係した人たちは二晩も徹夜したことがあり、相当難航した。戦争放棄もその一つでした。また憲法草案については、その文句や書き方など専門家が相当議論しました。起草関係者が総司令部と連絡していたが、これについても議論があった。天皇については『日本国の象徴』という字を用いた。私も、すこぶる適切な言葉と思った。象徴ということは、イギリスのスタチュート・オブ・ウェストミンスターという法律。これは連邦制度になってからだから、そう古い法律ではない。その法律の中に、キングは英連邦(ブリティシュ・コモンウェルス・オブ・ネーションズ)すなわちカナダ、オーストラリア、南アフリカなどの国の主権の象徴であると書いてあり、それから得たヒントだ」(P323~324)と語っていた。外交官として功績があった幣原氏の率直な証言に、改めて敬服した。
「象徴天皇」は、マッカーサー元帥の助言
「マッカーサー大戦回顧録」からも主要部分を引用させていただく。これも中公文庫に掲載(津島一夫訳・,上下巻)されている文献である。
「降伏後の日本側指導者に告げたことの一つは、明治憲法を改正して欲しいということだった。日本の社会を確実に民主化するためには人権について明白な法規を定め、一般にはっきり理解してもらわねばならない、ということを強調した。だが、私はアメリカ製の日本憲法を作って日本側に命令し採択させるということはしなかった。憲法改正は日本人自身が他から強制されずに行うべきものだったから、私は偶然の環境で絶対的な権力を握った征服者が完全に受身で何の抗弁もしない政府にその意志を押し付けるという形で、アメリカ製の憲法を無理押しに日本人にのみ込まさせることはやるまいと心に決めていた」と述べ、米国側が取るべき立場を表明している。
松本蒸治委員長の試案は反動的
ところで、日本側の対応はどうだったか。「旧憲法改正の実際の仕事は1945年10月、幣原首相が任命した委員会によって始められた。委員会は閣僚の松本穣治博士を委員長に政界の指導的な人物ばかりで構成され、発足するや否や日本国民の各層から助言が殺到した。日本にはもはや検閲制度は存在せず、国民は街角や新聞紙上、各家庭などに至るまで真剣を論じて意見をたたかわせた。共産党までがかなり熱心に、この論議に加わってきた。誰新憲法の内容について独自の意見を持ち、それを遠慮せずに発表した。同委員会の討議には、私も私の幕僚たちも加わらなかった。このように委員会討議に介入しない態度をとっていたので、私は委員会内部がどう動いてかを完全には知っていなかった。作業は3ヶ月続いたが、3ヶ月の終わりごろになって初めて私は委員会の内部が割れていることに気づいた。非常に自由主義的な憲法を主張する者たちと、できるだけ改正を避けようとする者たちの2つの主なグループに分かれていたのだ。しかし、委員会全体としては松本委員長の意向を反映していた。松本博士は極端な反動家で委員会の討議に鉄の采配を振るっていた。1946年に1月に新憲法の最初の改正案が出されたが、これは旧明治憲法の字句を変えた程度のものだった。単にそれまでの『神聖にして侵すべからず』というかわりに、『最高にして侵すべからず』ということになっただけだった。また、この改正案は基本的人権宣言を盛り込む代わりに、逆にわずかな既存の権利まで取り上げてしまうものだった。これらの既存の権利を一般法令に従属させてしまっていたのだ。例えば、信仰の自由を認めるについても、それは『法令により別に規定される場合を除き』ということになっていた。これでは古手の軍国主義者や官僚たちが再び議会を支配して、憲法に認められている権利を簡単に一掃してしまうことができる。言い換えれば、3カ月の作業のあと生まれ出た試案は旧態依然たるもの、あるいは改悪とさえ思われるものだったのだ」と、反動的な松本案を厳しく指弾していた。
「このような状況を察知した私は幕僚たちに国民が受諾可能な改正を案を起草するため日本側に、援助と与えることを指示した。幣原首相は改正案の最後の仕上げに当たって。精力的に動いた。でき上がった改正案を見せられた天皇は、即座にそれを承認して『ここに示されたいろいろな原則げんそくは、国民の福祉と日本再建の真の基礎となるに違いない』との意見を述べられた。この天皇の示された態度は立派なものだった。なぜなら新憲法の諸原則は天皇を権力から遠ざけ、天皇ご自身をはじめ皇室全体の財産の大部分を国家に還元するものだったからである。日本政府は新聞やラジオで新憲法について啓発運動を起こし、憲法のあらゆる面を説明し、質問に答えた。4月の総選挙は私が望んでいたとおりの真の国民投票(婦人参政権の導入)となり、新憲法は採択の態度を公にした人々が新議会ではっきり大多数を占めることになった。8月に衆議院が新憲法を可決した時には、たくさんの修正が加えられていたが、基本原則は動いていなかった。翌月、貴族院も可決。かくて新憲法は11月3日、天皇によって公布され、1947年5月発効した」と新憲法づくりの経緯を詳細に語っている。
「新憲法では米国の政体と同様、三権が分離され、また裁判所を司法省から独立させることによって、旧政体の持っていた大きい弊害の一つが取り除かれることになった。新憲法の政体は米国の行政制度と英国の議会制度を組み合わせたもので、首相は任期4年の衆議院議員の中から選ばれる。首相が議会で討議する問題について支持されない場合には、首相は辞職して衆議院に後継者を選ばせるか、あるいは衆議院を解散して総選挙を行うかのどちらかの手段を取ることになっている。1946年の夏、帝国議会で行われた自由な公開討議の結果、新憲法に加えられた重要な付加条項の一つは、国民投票で憲法を修正できるという規定を盛り込んだことだった。有権者の3分の2の票が集まれば、憲法の修正が成立することになったのだ。これによって国民自身が憲法の支配者となり、究極的に日本の主権者となった」との付記も意義深い。
戦前生まれの政治家・幣原氏の戦後復興に全力を傾倒した情熱に打たれた。「戦争放棄」の平和憲法制定の過程が回顧録を通じてよく理解できた。淡々とした語り口に好感が持て、9条の規定は同氏の決意から生み出されたものと受け取って間違いないと思う。マッカーサー回顧録でも「米国の押しつけではない」と証言しているからだ。「象徴天皇」の発想は米側の助言に基づくものと考えていいだろう。いずれにせよ1945年に10月に首相になった幣原氏は約6カ月の短命だったが、戦争放棄、象徴天皇、婦人参政権などを盛り込んだ新憲法制定の功績は大きい。占領下だったからから総司令部との調整は難しかったが、米側の助言を巧みに取り入れた決断も評価していいだろう。
2つの回顧録を通じて得た教訓を大切にしたいと願い、紹介させていただいたが、その精神を継承していきたいと思う
(いけだ・たつお)毎日新聞OB、紙面審査委員長など。