梅田正己/編集者/四川大地震 自衛隊機派遣にみる“歴史健忘症”/08/06/04
四川大地震
自衛隊機派遣にみる“歴史健忘症”
梅田 正己(書籍編集者。著書『非戦の国が崩れゆく』他)
◆自衛隊機派遣を「歴史的」と評価した新聞社説
中国・四川省の被災地にテントなど救援物資を運ぶのに、航空自衛隊の輸送機を使うことが見送られた件で、5月31日には各紙に社説が載った。
興味を引いたのは、朝日と読売の主張が重なったことだ。
まず朝日の社説。
「自衛隊機の派遣が実現していたら、日中関係にとって歴史的な出来事になったろう」
旧日本軍の中国侵略という過去の事実はあるが「それでも被災者救援のためならばと、過去を乗り越えて自衛隊機を受け入れてくれれば、日中のきずなはさらに強まる」
次に読売の社説。タイトルは「見送られた歴史的な一歩」となっていた。
「(自衛隊機の)覇権が実現すれば、日中両国が先の戦争の苦い記憶を乗り越え、成熟した関係を構築するうえで、歴史的な一歩になる。日本側には、そんな期待が広がった」
しかし、中国の国民世論にネットなどを通じてすぐさま激しく反発が起こり、それを見て取った政府は自衛隊機派遣を見送った。
その判断に対して、両紙社説は「正しかった」(朝日)「一応理解できる」(読売)と書いてはいるが、自衛隊機の派遣を「歴史的」と評価したのは、どちらも同じだ。
しかし、輸送機とはいえ、まぎれもない軍用機を中国本土に送り込むのを「歴史的」などと評価していいのだろうか。
「歴史的」というには、「歴史」を知らなすぎるのではないか。
◆南京攻撃から始まった四川・重慶空爆
日本軍機による中国攻撃は、盧溝橋事件からまもない1937年8月15日の海軍機による「渡洋爆撃」から始まる。その前年、海軍は九六式陸上攻撃機(「中攻」と略称した)という、陸上基地発進の長距離爆撃機を開発していた。九六式と名づけたのは1936=昭和11年が「皇紀二五九六年」に該当したからだ(昭和15年が「皇紀2600年」)。最高速度370キロ、航続距離4380キロという、当時の世界的水準を抜く新鋭爆撃機だった。
8月15日午前9時、この九六式陸上攻撃機20機が長崎県の大村基地から発進、東シナ海をまっすぐ横切って「南京」上空に達し、各機12発ずつ抱えていた60キロ爆弾を投下、対空砲火などで4機を失ったものの16機が済州島の基地に帰還した。オランダ・ハーグで結ばれた「開戦に関する条約」(1907年)に調印していながら、それを黙殺、宣戦布告なしで、いきなり相手国の首都・南京を爆撃したのである。このあと、戦線は一挙に華中、華南へと拡大させられる(以上、笠原十九司「海軍が拡大させた日中戦争」、『世界』07年8月号所載、参照)。
この年の年末、周知のように日本軍は南京を攻略、占領する。そのため蒋介石の国民政府は、長江(揚子江)をさかのぼり、首都機能を武漢三鎮(武昌・漢口・漢陽の三都市)に移した。
しかしそこも日本軍の攻撃を受け、激戦地となったため、国民政府はさらに長江をさかのぼり、奥地の「重慶」に政府機関を移す。以後、この重慶が中国の首都となった。
重慶は険しい山岳地帯でさえぎられているため、陸路での攻撃は出来ない。
そこで、日本軍は空爆によって重慶を攻撃した。空からの無差別爆撃である。
◆忘却されない「歴史」
今回の大地震による被災地は、四川省である。
重慶も四川省の都市である(現在は政府の直轄市)。海軍航空隊を主体とする日本軍機は、重慶だけでなく、成都ほか四川省の都市をも空爆した。
日中全面戦争の始まりは、上述のように1937年7月、終結したのは45年8月である。この間、満8年にわたり、日本は80万から100万の軍隊を中国大陸に貼り付け、侵略戦争を続行した。
それにより生じた莫大な人的・物的被害を代表する事例の一つとして中国国民の記憶に焼き付けられているのが、重慶を中心とする四川省への「空からの侵略」(前田哲男氏)なのである。
1938年10月から43年8月までの5年間(その殆どは39年から41年の3年間に集中)、延べ9500機の日本軍機が、200回を超えてこの臨時首都を空から襲い、約1万7千戸の家屋を破壊し、市民約1万2千人の命を奪った(前田『新訂版・戦略爆撃の思想』凱風社)。
その被害者40名が、現にいま、日本政府に対し遅すぎる補償を要求して、東京地裁で裁判を起こしている。
このような「歴史」を持つ四川省へ、救援物資の輸送とはいえ、政府は「日本軍機」を飛ばそうとした。直ちに反発を招いたのは当然だった。
いじめた者は忘れ去っても、いじめられた者はその痛みと屈辱を終生忘れない。
8年間にわたり百万の軍隊を送り込んで破壊と殺戮を続けた歴史、5年間にわたり無差別爆撃を続けた歴史を、日本国民のほとんどはとうに忘れていても、中国では自国人民の抵抗の歴史とともに語り継いできている。
被害を受けた側の「過去」や「記憶」は、朝日、読売の社説がいうように簡単には「乗り越え」られないのである。