梅田正己/編集者/ベストセラー『それでも、 日本人は 「戦争」 を選んだ』 と 「田母神史観」09/10/08


 

ベストセラー

 

  『それでも、 日本人は 「戦争」 を選んだ』 と 「田母神史観」

 

  梅田  正己 (書籍編集者)

 

 

  加藤陽子 ・ 東大文学部教授の 『それでも、 日本人は 「戦争」 を選んだ』 (朝日出版社) が売れている。 9月初めの広告では7万部とあったが、 10月5日の広告では 「10万部突破」 と出ていた。

 

  低価格の新書や文庫でなく、 四六判400ページ強、 本体価格1700円の歴史書が、 発刊わずか2ヵ月で (奥付の日付は7月30日) 10万部をこえたのは、 出版不況の今日、 稀有の例にちがいない。

 

  売れるのはもちろん評判がいいからだ。 広告には、 いま 「論壇」 で最も登場頻度が高い佐藤優さんの評言が出ていた。

 

  ――歴史が 「生き物」 であることを実感させてくれる名著だ。 (「文芸春秋」 書評)

 

  ブログの書評で名高い (らしい) 小飼弾さんの感想も出ていた。

 

  ――これは、 すごい。 はじめて 「腑に落ちる」 日本近現代史を読ませていただいた。

 

  広告だから当然とはいえ、 大絶賛である。 これらに誘導され、 背中を押されて買い求める人も多いだろう。

 

  この本は、 著者が神奈川県の著名な私立進学校 ・ 栄光学園で07~08年の年末年始に5日間、 約20人の高校生を相手に行なった講義がもとになっている。 といっても、 それから2年半もたって出版されたのだから、 本にするに当たっては当然、 十分に練り直して書き下ろされたものだろう。

 

◆ 「9.11」 についての 「独創的」 解釈

 

  さて、 先の評者二人は大絶賛だったが、 私は巻頭、 読み始めたとたんに引っかかってしまった。

 

  序章は、 小見出し 「9.11テロの意味」 から始まる。 こう書かれている。

 

  《2001年9月11日、 アメリカで起きた同時多発テロの衝撃に接したとき、 人々は、 テロを 「かつてなかった戦争」 と呼んで、 まず、 その新しい戦争の形態上の特質、 つまり 「かたち」 に注目しました。》

 

  そうだったろうか?  あのツインタワービルの崩壊を見て、 人々は 「新しいかたちの戦争」 が始まったと思ったのだったろうか?

 

  そんなことはなかろう。 著者自身も自ら書いている通り、 あの事件は広く 「同時多発テロ」 と呼ばれた。 今もそう呼ばれている。

 

  その 「テロ」 行為を 「戦争」 と見なし、 「テロとの戦い」 「対テロ戦争」 を呼号したのはブッシュ大統領だった。 それにいち早く呼応したのがわが小泉首相で、 わずか18日間の国会審議で 「テロ対策特措法」 を成立させたのだ (それによって始まったインド洋での無料給油活動は今も続いている)。

 

  あれからまだ8年しかたっていない。 それなのにこの歴史学者は、 根拠 (典拠) も示さずに、 これまで聞いたこともない新説 (珍説) を披露した上で、 次のようにこれまた珍しい自説を展開する。

 

  《このテロは……国内にいる無法者が、 なんの罪もない善意の市民を皆殺しにした事件であり、 ということは、 国家権力によって鎮圧されてよい対象とみなされる。》

 

  したがって――

 

  《9.11の場合におけるアメリカの感覚は、 戦争の相手を打ち負かすという感覚よりは、 国内社会の法を犯した邪悪な犯罪者を取り締まる、 というスタンスだったように思います。》

 

  ブッシュ政権の対応は、 「国内社会の法を犯した邪悪な犯罪者を取り締まる、 というスタンス」 だったというのである。

 

  そこでブッシュ政権は 「警察官」 のスタンスで、 「犯罪者」 をかくまうタリバンを攻撃したというのだろうが、 だったらどうしてアフガニスタンに対し、 B52戦略爆撃機まで繰り出して高性能爆弾の雨を降らせ、 タリバンのみならずアフガン全体をまるごと石器時代に突き落とすような空爆を続けたのだろうか。

 

  警官はつねに 「過剰防衛」 を問われる。 だから武力の行使には、 自制がはたらく。 アフガンに対するあれほどまでの国土破壊は、 どう見ても 「警察官」 のしわざではない。 「戦争」 だからやった、 「戦争」 と見なしたからやったのである。 「軍隊」 だから、 無制限の武力行使を行なったのである。

 

  加藤説は、 明らかに事実にそぐわない。 それなのにこんな無理な説をごり押ししてきたのは、 次のように言いたかったためである (傍線は筆者、 以下同)。

 

  《そうなると、 戦いの相手を、 戦争の相手、 当事者として認めないような感覚に陥っていくのではないでしょうか。》

 

  つまりブッシュ政権は、 テロをやった者たちを 「鎮圧」 の対象、 「取締り」 の対象ととらえた。 したがって 「戦争の相手」 とは認めない。 そういう心理状態に落ち込んだのではないだろうか、 と診断したわけである。

 

  その上で、 教授はこう高校生に尋ねる。

 

  《実は、 このアメリカの話と似たようなことが、 かつての日本でも起きていたのです。 なんのことかわかりますか。》

 

  もちろん、 わかるはずはない。 専門家だってわかるまい。

 

  加藤教授の答えは、 日中全面戦争中の 「1938年1月16日、 近衛内閣が発した声明 『爾後、 国民政府を対手 (相手) とせず』」 である。

 

  つまり、 日中戦争で近衛内閣が、 蒋介石の国民政府に対し、 「もはや戦争の相手として認めない」 と言ったのが、 9.11でブッシュ政権がとった態度と同じだというのである。

 

  以上のように述べた上で、 歴史学者 ・ 加藤教授はこう結論する。

 

  《時代も背景も異なる二つの戦争をくらべることで、 30年代の日本、 現代のアメリカという、 一見、 全く異なるはずの国家に共通する底の部分が見えてくる。》《歴史の面白さの真髄は、 このような比較と相対化にあるといえます。》

 

  なるほど、 これが言いたかったわけだ。

 

◆近衛声明 「国民政府を対手とせず」 をめぐる珍説

 

  要するに、 同時多発テロが 「かつてなかった戦争」 と受けとめられたという新説も、 この結論に持ってくるための前提だったのである。

 

  しかしその新説は、 その後の事実経過に反するし、 論証もあやふやな珍説だった。 同様に、 この近衛内閣の声明についても、 加藤教授は独自の見解の持ち主である。

 

  教授はこう書いている。

 

  《日中戦争期の日本が、 これは戦争ではないとして、 戦いの相手を認めない感覚を持っていた》 《相手が悪いことをしたのだから武力行使をしたのは当然で、 しかもその武力行使を、 あたかも警察が悪い人を取り締まるかのような感覚でとらえていた》

 

  この近衛声明が出されたのは、 先述のように1938 (昭和13) 年1月16日である。

 

  前月、 つまり37年12月の13日、 日本軍は当時の国民政府の首都 ・ 南京を陥落させた。 その攻略戦の最中、 そして占領後、 日本軍は 「南京大虐殺」 を引き起こす。

 

  近衛声明は、 その 「大虐殺」 が続行しているなかで発せられたのである。

 

  加藤教授が言うように、 日本軍が 「これは戦争ではない」 という感覚を持っていたとしたら、 兵士たちはいったいどんな感覚で 「大虐殺」 を行なったのだろうか? また 「警察が悪い人を取り締まるかのような感覚」 でいた日本軍が、 どうしてあのような非道 ・ 残虐なことができたのだろうか?

 

  日本が当時の国民政府を 「戦争の相手」 として認めていなかったというのは、 とんでもないでたらめである。

 

  その証拠に、 37年7月7日、 盧溝橋事件が発生してから、 近衛内閣は一方で戦争を続けながら、 もう一方では 「和平工作」 を模索してきた。 蒋介石を 「戦争の相手」 と認めないのに、 蒋介石を相手に和平工作をすることなどあり得ないだろう。

 

  和平工作としては、 中国通の元外交官 ・ 船津辰一郎を使者にしての 「船津工作」 と、 ドイツの駐中国大使 ・ トラウトマンに依頼しての 「トラウトマン工作」 が知られている。

 

  このトラウトマン工作は、 一時はうまくいきそうになる。 しかし、 日本側が条件を引き上げたため、 不成立に終わった。 日本がドイツ政府に対してトラウトマン工作の打ち切りを通告したのは、 近衛声明の発表と同じ日であった。

 

  日本が和平工作を打ち切ったのは、 戦況が、 大苦戦した上海戦 (戦死者9千人超) から南京攻略戦へと好転したため和平の条件を引き上げたのと、 また蒋介石の国民政府に対抗できそうな傀儡政権をいくつも立ち上げていたからである。

 

  関東軍は37年11月、 満州に隣接する内蒙古に、 この地域を管轄する 「蒙疆連合委員会」 を設立。

 

  華北を作戦範囲とする北支那方面軍は、 同年12月、 北京に 「中華民国臨時政府」 を発足させた。

 

  華中を受け持つ中支那方面軍も、 それに負けじと翌38年3月、 南京に 「中華民国維新政府」 をつくりあげる。

 

  こうした経過 ・ 背景があって、 近衛声明は出されたのである。 その原文は、 以上の経過を前提にするとよくわかる。

 

  「帝国政府は爾後 (じご) 国民政府を対手 (相手) とせず、 帝国の真に提携するに足る新興政府の成立発展を期待し、 是 (これ) と両国国交を調整し、 更生新支那の建設に協力せんとす。」

 

  近衛内閣が 「国民政府を相手とせず」 と言ったのは、 「日本が、 これは戦争ではないとして、 戦いの相手を認めない感覚を持っていた」 からでも、 また 「警察が悪い人を取り締まるかのような感覚でとらえていた」 からでもない。

 

  戦争に勝利できるとの確信を深めたこと (これが大間違いであったが) とあわせて、 蒋介石の国民政府に取って代わる傀儡政権樹立の手ごたえを得ており (新興政府の成立発展を期待)、 それと手を組むことで、 日本の息のかかった新しい中国が作れる (更生新支那の建設) と考えたからこそ、 「もう国民政府に用はない」 「国民政府を対手とせず」 と言い放ったのである。

 

  以上の私の日中戦争についての記述は、 藤原彰さんの 『日中全面戦争』 (昭和の歴史⑤、 小学館) に拠っている。

 

  加藤教授の専攻は、 本書によると 「1930年代の外交と軍事」 だそうだ。

 

  1938年の近衛声明は、 まさにそこに該当する。 それなのに、 その政治的モチーフの説明が日本の政府 ・ 軍の指導者の 「感覚」 だけで片付けられていいのだろうか。

 

  こういう歴史解釈を、 同じ現代史家はどう見ているのだろうか。

 

◆立ち昇る 「田母神史観」 と共通する臭気

 

  という次第で、 私は冒頭で引っかかってしまったが、 実はそれより先に、 書名に引っかかっていた。

 

  『それでも、 日本人は 「戦争」 を選んだ』 という書名である。

 

  本のオビには 《普通のよき日本人が、 世界最高の頭脳たちが、 「もう戦争しかない」 と思ったのはなぜか?》 とある。

 

  「世界最高の頭脳たち」 とは、 だれたちのことを言っているのか、 先を読んでいないからわからないが、 このキャッチコピーで連想するのが、 田母神 ・ 前空幕長が書いた論文 「日本は侵略国家であったのか」 である。

 

  その中の論点に、 次のようなのがあった。

 

  「我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者なのである。」

 

  「日本はルーズベルトの仕掛けた罠にはまり真珠湾攻撃を決行することになった。」

 

  要するに、 日中戦争も、 太平洋戦争も、 日本は相手国に引きずり込まれて突入したもので、 日本は 「被害者」 だ、 というのである。 したがって結論は、 「日本は侵略国家ではなかった」 となる。

 

  加藤教授の本の書名からも、 同趣旨の主張が臭ってくる。

 

  ――日本は戦争をしたくなかった。 しかし、 いかんともしがたく、 やむにやまれず、 戦争への道を選ばずにはおれなかったのだ、 と。

 

  田母神氏は、 いまや時代の寵児である。 講演依頼が引きもきらないらしい。 著書も (共著を含め) 10冊近くを出版している。

 

  加藤氏の本も、 たちまちベストセラーへの坂を駆け上がっていった。

 

  この国の 「歴史」 に対する 「教養」 の内実、 中学 ・ 高校での 「歴史教育」 のありようを、 今こそ根底から問い直さなくてはならないのではないか。

 

  歴史学研究者をはじめ、 学校での歴史教育の担当者、 歴史書の編集者 ・ 出版者は、 そのことを 「職業的義務」 として自らに課すべきではないか。 そんな気がしてならない。

  (了)