梅田正己/編集者/「70年談話」歴史観の根本的欠陥 2015/08/15

              「70年談話」歴史観の根本的欠陥

                              梅田  正己 (編集者)

 今回の安倍談話については、「私」がなく主語があいまい、「反省とお詫び」については間接話法、といった批判が早くも聞かれる。テレビで「談話」を聴きながらの私の第一印象は、例によっての美辞麗句、冗長饒舌、舞文曲筆というものだったが、ここでは歴史観の欠落についてだけ述べたい。

 「談話」の中ほどにこういう一節がある。
  「事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。」
  ここで事変というのは、満州事変、日支事変(日中戦争)のことだろうから、侵略、戦争とあわせて、いわゆる十五年戦争を指しているのだろう。
  したがって、この「談話」は満州事変以降の歴史過程についてだけ述べているように思われるが、ところが「談話」の出だしはこうなっている。

 「百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。」
  そしてその数行あとには、こう述べられている。
  「(日本は)アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。」
  日露戦争での日本の勝利が、ロシアと敵対していた(露土戦争)トルコなどで喝采されたのは事実だが、しかしこの日露戦争の本質は何だったのか? すっぽり抜け落ちているのはこの点の認識である。

 日露戦争(1904~05年)の10年前には、日清戦争(1894~95年)があった。日清戦争の眼目は何だったか? 日本政府は「朝鮮国の独立」のためと称したが、ホンネは伝統的に朝鮮の宗主国を任じてきた清国(中国)に対し、朝鮮から手を引かせることだった。
  日本は勝利し、清国は朝鮮から去った。しかしその後釜として朝鮮の後ろ盾となったのがロシアだった。

 そこで日本はこのロシアをも朝鮮から駆逐して朝鮮の支配権を独占すべく、ロシアに戦いを挑む。これが日露戦争だったのである。
  したがって日本は、開戦早々に韓国皇帝(日清戦後、朝鮮は大韓帝国と改称)に対し「日韓議定書」を強要、次いで半年後に第一次「日韓協約」、戦後に第二次協約(保護条約)で伊藤博文が「統監」に就任、そして07年には第三次協約で韓国軍隊を解散させ、韓国政府を実質的に伊藤「統監」の支配下におさめ、3年後の1910年に韓国を「併合」したのである。

 一方、日露戦争で勝利した日本は、ロシアが清国から得ていた旅順・大連を含む遼東半島の先端部(関東州という)の租借権を譲渡させるとともに、ロシアが敷設していた南満州鉄道(満鉄)を譲渡させ、あわせてサハリン南半部を割譲させた。
  遼東半島の関東州を得た日本は、そこに関東軍を配置する。その関東軍による謀略(満鉄の線路爆破)から、満州事変は引き起こされたのだった。
  満州事変は、昭和に入ってとつじょ始まったのではない。明治からつづく日本の大陸侵出の膨張路線の線上で引き起こされたのである。

 ところで、先に引用した談話の冒頭の一文は、後にこう続く。
  「圧倒的な技術優位を背景に、(西洋諸国による)植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力になったことは、間違いありません。」

 何か、日本は危機感をバネにしただけのような書きぶりだ。
  しかし日本は日清戦争によって台湾と澎湖諸島を手に入れ(明治28年)、次いで日露戦争により関東州および満鉄付属地の権益と、サハリン南半部を獲得し(明治38年)、さらに朝鮮を植民地に組み込んだ(明治43年)のである。
  つまり、日本はたんに西洋諸国による「植民地化の波」に危機感を抱いただけではない。自らもその「植民地化の波」に便乗して、次々に植民地を拡大していったのである。

 このところ、昭和史がブームである。歴史が広く関心を呼ぶことは喜ばしい。しかし、その関心が昭和の一時期だけに集中し、そこでストップするのは望ましくない。
  今回の談話のキイワードは「植民地支配」と「侵略」だったが、いま見てきたとおり、そのどちらも明治中期から始まっている。第二次大戦前の日本の植民地は、その大半がすでに明治期に獲得したものなのである。
  今年はアジア・太平洋戦争の敗戦から70年であるが、日清戦争から120年、日露戦争から110年の年でもある。そして120年前から70年前までの50年間のこの国の歩みは、それこそ切れ目なく連続している。
  この歴史認識が、今回の「談話」には完全に欠落していた。
  だからこそ、ここに引用した自画自賛の脳天気な一節が、「談話」の冒頭を飾ることになったのである。     (2015年8月15日記)

 


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