水久保文明(JCJ会員 千代田区労協事務局長 元毎日新聞労組書記)日弁連の死刑制度廃止提案を考える① 16/10/08
「ヘボやんの独り言」より転載 http://96k.blog98.fc2.com/
7日、日弁連(日本弁護士連合会)が死刑制度廃止を求める決議を採択した。実に重い課題だが、この問題について考えてみたい。
「死刑制度の廃止を含む刑罰制度全体の改革を求める宣言」(以下「宣言」という)がそれである。「犯罪が起こったとき,我々は,これにどう向き合うべきなのか。そして,どうすれば,人は罪を悔いて,再び罪を犯さないことができるのだろうか。」という一文から始まるこの宣言は、提案理由を含めると、実にA4版で23ページに及んでいる。
この報を聞いた時、私は死刑制度に限ったそれであろうと思っていた。ところが刑罰全般の在り方にも言及したものだったのだ。メディアの報道の仕方は、「死刑廃止」を突出したものとなっていた。メディアに苦言を呈したいところだが、それはさて置いて本題に入ろう。
変な言い方であるが、ヒトが人を殺していいのは、3つの場合に限られるという。①戦争②正当防衛③法的措置――がそれである。
敢えて断っておくが、前記三つの条件であれば「殺人が許される」と私は考えている訳ではない。どんな事態であっても、人が人を殺すことがあってはならないし、回避措置をはかるべきだ、と、私は常々考えている。以下はそれを前提にしたものであることを、予めご承知おきいただきたい。
ここで言う死刑制度廃止は前述の一つ、法的措置によるものであることは言を俟たない。
そもそも刑罰とは何か。分かりやすく言えば「悪さをした者」に対する社会的な制裁、と言うことができよう。社会的制裁の対として、私的制裁がある。江戸時代における「仇討ち」がその典型であるし、赤穂浪士の討ち入りもその一つとして考えられたのであろう。ただし、当時は個人的な仇討ちは公的に認められていたが、赤穂浪士のような〝集団的仇討ち〟は認められていなかった。いや、むしろ禁止されていた。したがって、彼らは切腹に甘んじたのである。
横道にそれるが、私は赤穂浪士の吉良邸への討ち入りはテロだと考えている。つまり法律に基づかない集団的殺戮行為(自爆テロも含めて)だからだ。その意味において、赤穂浪士の行為が美化されることに懸念を禁じ得ない。相手の吉良上野介は、愛知県知多半島において「いい殿様」だったというではないか。
殺人も含めて反社会的行為を働いた者に対する刑罰制度は、現代社会における大きな知恵だと思う。これがなければ、社会は大混乱に陥るし、夜もおちおち寝ていられなくなる。この点について「宣言」は、刑罰について『犯罪への応報』と記している。実に的を射た表現である。その応報の在り方の一つが「死刑」であり、それを廃止すべきだというのが「宣言」の趣旨の一つである。(次回につづく)
★脈絡のないきょうの一行
36年ぶりに阿蘇山が大噴火。日本列島のマグマに異変が起きていないか。情報を隠していないか。不安。