水久保文明(JCJ会員 千代田区労協事務局長 元毎日新聞労組書記)

「ヘボやんの独り言」より転載 

祝・第88回メーデー――私の生い立ちとメーデー②   17/05/03

 私のルーツは、五島列島にある。だからと言って、五島で暮らしたことはない。聞いたところによると、父の家族が詐欺に遭い田畑すべてを失くし〝労働者化〟して、島を離れて手っ取り早い炭鉱夫になったという。私が生まれたときに祖父はすでに他界していたが、父もその兄弟も長崎県、佐賀県、福岡県の炭鉱街で炭鉱夫として働いていた。

 私が生まれたのは、父が戦地・中国から帰ってきた1947年。団塊の世代だ。佐賀県伊万里市の炭住街だったがすでに二人の姉がいた。私が生まれた直後、福岡県直方市に移っている。父は労働組合の活動をやっていたらしく、レットパージを受けている。そのため、炭鉱を転々としている。もちろん、子どもである私も一緒に動いた。

 小学校2校、中学校は3校を経験している。その度に教科書が違い、苦労したことを覚えている。考えてみれば、当時は学校ごとに教科書を決めていたようだ。教師が選んでいたと思われるが、国の検定を受けたものではなく、それが本来の姿ではなかろうか。

 話が横道に外れた。私の下に妹と弟3人が生まれた。「貧乏の子沢山」の典型で、両親は7人の子どもを育てることになったのである。手元に写真家・土門拳の「筑豊のこどもたち」という写真集がある。

 1960年の作品であるが、この中に学校に弁当を持って行けない子供の写真がある。昼食時間に本を読んでいる。私はその子と同じだった。私の場合は学校の図書館に籠った。子どもに弁当を持たせてやれない母の気持ちはいかほどであったか、それを思うと今でも心が痛む。

 そういう生活のなかで、私は小学生の頃から定時制高校に通う、ことを決めていた。したがって中学卒業とともに、集団就職列車に揺られ愛知県刈谷市の鉄工所に勤めた。ふるさとを離れるとき母が見送りにきてくれた。15歳の少年の旅立ちだった。母はずっと手を振っていた。その姿を見て、小林多喜二の言葉を借りれば「泣かさって、泣かさって」仕方がなかった。

 ちょうど今、NHKの朝ドラが集団就職で上京して仕事をする子供たちの姿を描いている。あれとオーバーラップする。私は仕事が終わって、刈谷から(今では)JR東海道線で6駅離れた岡崎の工業高校の定時制に通った。もちろん電車通学は初めてだった。

 ところが、大学に行きたいと考えていた私はショッキングな話を聞かされた。大学に行くには、工業高校は不利だというのだ。悩んだ挙句、普通高校に乗り換えるため当時東京に住んでいた姉を頼って上京した。東京オリンピックが開かれた1964年であった。

(次回につづく)

★脈絡のないきょうの一行
祝・憲法制定70年。平和主義はいつまでも元気であってほしい。


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