水久保文明(JCJ会員 千代田区労協事務局長 元毎日新聞労組書記)
「ヘボやんの独り言」より転載
ここ網走に初めて来たのは1969年の4月、49年前だ。遥か遠い昔になった。当時私は不当解雇撤回闘争を展開中だった。仕事をしていないという〝特徴〟を生かして、白鳥事件の村上国治さんの釈放を求める「全国大行進」が行われ、全行程に参加したが、その最終地点が網走だった。3月から4月にかけて、北海道はまだ寒い季節だった。
福岡市・大濠公園を皮切りに、主要都市を歩いた。今でいう「キャラバン」だ。行進の模様をはがきにしたためて毎日、獄中の村上国治さんに送った。そのときの様子は、村上さんが仮釈放後に出版した「網走獄中記」に見ることができる。札幌で大規模報告集会を開き、網走まで村上さんを激励に行くことになった。
札幌から網走までの電車は長かった。4月上旬の北海道は雪化粧したままだった。その寒空でたたかう村上国治さんのことを思うと、胸が締め付けられる思いだった。網走駅から外へ出ると、そこは凍結の世界だった。
刑務所の門をくぐり、2分ほど歩いた場所に設置してある面会所に入った。村上さんはニコニコと笑顔で迎えてくれ「長い間お疲れ様でした」とねぎらってくれた。もちろん、村上さんと会ったのはこれが初めてだった。人懐っこいその目に、「この人に殺人はできない」そう確信した。
この年の6月に札幌高裁は再審請求を棄却した。その報告を兼ねて2度目の面会をしたが、そのあと11月に村上さんは仮釈放され再会の場面は東京となった。以来、村上さんとの交友は続いたが、94年11月に自宅の火事に遭いそれに巻き込まれて帰らぬ人となった。71歳だった。
村上国治さんの再審は実現できなかったものの、「再審においても疑わしきは被告人の利益に」という最高裁のいわゆる〝白鳥決定〟が確定した。これにより死刑台から生還した人が生まれたのはご承知のとおりである。
そんな思いのある網走刑務所は、以前見たときと同じように荒涼としていた。
【網走刑務所の門。昔、金網の先に面会所があった】
泊まったホテルは天都山の中腹にあった。部屋の窓から網走湖が眼下に見える。ちょうど日没の時間となり、その変化を楽しんだ。湖は全面凍結しており、ワカサギ釣りのテントが張り巡らされていた。カニがついた夕食に舌鼓を打ち、早めの就寝とした。
【ホテルから網走湖の日没風景】
(次回につづく)
★脈絡のないきょうの一行
森友疑惑に「かかわっていたら議員も辞める」というあの言葉、改めて確認したいものだ。