坂本陸郎(JCJ運営委員;広告支部会員)

『日本国憲法はこうして生まれた』(川村俊夫著、本の泉社刊) 17/04/10

  この標題の著書には、施行70年となる日本国憲法の原点ともいえる憲法制定過程が詳しく書かれている。その中からいくつかを要約して取り出してみる。
※()内は筆者。

世界から見た日本国憲法
 まず、世界が現在の日本国憲法をどう見ているのかについて。188カ国の憲法を比較検討したワシントン大学のデービット・ロー、シカゴ大学のトム・ギンズバーグら米国法学者の見解、

 世界から見ると、日本の憲法の最大の特徴は、改正されず手つかずで、生き続けてきた長さだ。だからといって内容が古びているわけではない。むしろ逆で、世界がいま主流になった人権の上位10項目までを、すべて満たす先進ぶりである(朝日新聞2013年5月5日付)

 この評価について、著者川村俊夫氏は次のように解説している。
 ― ここでいう「世界でいま主流になった人権」とは、信教の自由、報道・出版の自由、プライバシー権、女性の権利、団結権、教育を受ける権利等々、近代社会になって以来、各国憲法に共通してふくまれている一人ひとりの人権です。この中で、上位20位までのランキングで日本憲法に含まれていないのは20番目の「推定無罪」だけとのことです。これに、第二次大戦後の各国憲法が持つことになった平和条項の比較を加えれば、徹底した戦争放棄の条項を持つ日本国憲法の先駆性・先進性はいっそう際立っているといえるでしょう。―

 (このような、日本国憲法にたいする客観的評価と理解は、政権による改憲策動が強まる現在、極めて重要である。憲法が米国の占領下の時代につくられたことのみを根拠として、「連合国総司令部の、憲法も国際法も全く知らない素人たちが作り上げたシロモノ」と理解する安倍首相の目が、いかに曇ったものであり、その理解が一知半解であることが、この著書を読めば理解されるだろう)

その制定過程と歴史的背景
 著者は憲法制定過程について、次のような歴史的背景を述べている。(以下は筆者による要約)

  1. 天皇を中心の「国体」に全く手を付けない「松本委員会案」(日本政府案)に代えて、GHQは、草案として国民主権の原則を打ち出した。しかし、あくまで「国体」の維持に固執する日本政府は、これに抵抗し、天皇制を「国民至高の意志」と言い換えるなど、天皇主権にこだわった。それに対して「国民主権」を明記せよ、という世論が沸き起こった。
  2. アメリカ政府とその出先機関GHQは、反フアッショ連合国の一員としての立場から、日本政府によるポツダム宣言の実施を監視するという一面と、憲法発展の民主的歴史的到達点を取り入れながら、ソ連との対立を強めるなかで、天皇制の維持など、日本政府と妥協する一面をも持っていた。
  3. 日本国民は敗戦の痛手を受けながら、労働者、農民、女性、学生など階層別組織化を進め、職場、地域、学園から旧憲法体制の打破を目指すたたかいを展開した。それらは明治期の自由民権運動、大正デモクラシーなどの伝統を生かそうとするものだった。

 戦後における憲法について様々な提案、提言が国民の中から出された。そのひとつが「憲法研究会」の名で知られる民間グループによるものであり、それが、現在の憲法に平和と民主主義の規定を盛り込む力となった。

  1. こうした日本国民のたたかいを励ましたのが、ワシントンに置かれた連合国による極東委員会と、当時の国際世論であった。反フアシズムで戦った国々では、戦後、平和と民主主義、人権をめぐるたたかいが起こり、それらが日本国憲法制定過程に大きな影響を与えていた。

政府案と「憲法研究会」案
 GHQに「試案」として提出された日本政府憲法案は次のようなものだった。


日本国は君主国とす」、「第二条、天皇は君主にして此の憲法の条規に依り統治権を行ふ」、「第三条、皇位は皇室典範の定むる所に依り、万世一系の皇男子孫之を継承す」。

 これは明治憲法の字句を入れ替えただけのものであり、政府内の憲法論議がどのようなものなのかをうかがわせるものだった。その「試案」をスクープした毎日新聞も、さすがに「あまりに保守的、現状維持的なものに過ぎない。失望しない者は少ない。新国家構成の経世的理想に欠けている」と論評せざるを得なかった。
 その後、GHQに提出された政府案(松本案)も、明治憲法の条文中の「神聖」という文字を「至聖」に言い換える程度で、内容は「試案」とほとんど変わらなかった。そればかりか、「公益の為必要なる役務に服する義務」という徴兵制の復活を意図する条項も含まれていた。
 だが結局は、それがGHQに受理されず、日本政府が自らポツダム宣言に基づく憲法草案をつくる能力なしと判断され、次のような「マッカーサー3原則」が提示され、国会での論議となる。
 その3原則とは、要約すると、①天皇の義務及び権能は憲法に基づき行使される。②国家の主権並びに権利として戦争を廃棄する。③日本の封建制度は廃止する、であった。
 GHQは、政府案と同時に、鈴木安蔵、高野岩三郎、杉本幸次郎、森戸辰男、室伏高信、岩淵辰雄ら民間人グループによる「憲法研究会」に関心を寄せていた。その「要綱」を見たGHQ民生局のラウエルは、それについてこのように語っている。
 「国民の権利及び義務、これらの諸条項は、権利の焦点をなすものであって、現行憲法(明治憲法)におけるそれよりも、はるかに実効的である。言論、出版、教育、芸術および宗教の自由は保障され、かつ、その他の社会的諸原則もその中に包含されており、そのすべては民主主義と両立しうるものである」「この憲法草案中に包含されている諸条項は、民主的であり、かつ承認できるものである」。
 高く評価していたのだった。その後は、この憲法草案に賛成しない高野岩三郎が個人として、「天皇制を廃し、之ニ代エテ大統領ヲ元首トスル共和制採用」といった天皇制廃止を正面から打ち出す草案を出している。
 そのほか、憲法学者稲田正次、労働運動弁護士布施辰治などが、それぞれに憲法草案を発表している。そして、政党として唯一「憲法骨子」を明らかにしたのが日本共産党であった。それについて著者は、「この時期に憲法構想を(政党として)明らかにしたのは共産党だけであったから、政府に対してはともかく、憲法研究会の高野、鈴木らに、ある程度の影響を与えたことは否めない」と、述べている。
 (天皇制をめぐる日米の思惑は違ったものの、深刻な対立とはならなかった。戦後の対日支配を構想するマッカーサーが、天皇を戦後社会にふさわしいかたちで残す方が自国の国益に役立つと判断したからだった。その日米の“つきあわせ”の結果、皇室の存続が保障され、その後の国会では、第9条をめぐる「自衛権」の論議が焦点となった。(そこでの論議と政府答弁は現在に通じるものとして興味深い)

第9条の解釈をめぐって
 第9条に関しては、国会では天皇制存続の代償として第9条は止むを得ないという受け止め方があり、それに反対する議論はなく、9条の発案者はマッカーサーではなく、幣原首相だったという議論もされた。
 吉田首相は提案趣旨説明で、第9条は「改正案における大いなる眼目」としたうえで、このように述べている。

 かかる思い切った条項は、凡そ従来の各国憲法中に稀に見るものであります。かくして日本国は、恒久の平和を念願し、その将来の平和と生存をあげて、平和を愛する世界諸国民の公正と信義に委ねんとするものであり、この高き理想をもって平和愛好国の先頭に立ち、正義の大道を踏み進んでいこうという固き決意を、国の根本法に昭示せんとするものであります(衆院本会議 6月25日)

 次は、進歩党の原夫次郎議員の自衛権についての質問に対する吉田首相の答弁である。

 「本案の規定は、直接には自衛権を否定はして居りませぬが、第9条2項に於いて一切の軍備と交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も又交戦権を放棄したものであります。従来近年の戦争の多くは自衛権の名に於いて戦はれたのであります。満州事変あり、大東亜戦争亦然りであります。今日我が国に対する疑惑は、日本は好戦国である、何時再軍備をなして復讐戦をして、世界の平和を脅かさないとも分からないということが、日本に対する大いなる疑惑であり,又誤解であります。故に我が国においては如何なる名義を以てしても交戦権は先ず第一進んで放棄する。放棄することに依って全世界の平和の確立の基礎を成す」。(吉田首相の趣旨説明は憲法前文の趣旨に沿うものである。自衛権についての答弁は、「直接には自衛権は否定はしていないが」といった点が曖昧だが、自衛権を名目とした過去の日本の戦争を反省し、交戦権と武力行使の放棄を宣言しているくだりは注目される)

「芦田修正」の顛末(要約)
 その後、国会では第9条の解釈をめぐる論議が行われ、小委員会で第9条2項冒頭が、「前項の目的を達するために」の文言に差し替えられた。その「芦田修正」の趣旨がのちに問われることになる。
 その10年後、56年3月30日付「東京新聞」が、「侵略戦争を行うための武力はこれを保持しない。しかし自衛権の行使は別であると解釈する余地を残したいとの念頭から出たものであった」とする芦田名の寄稿文を掲載した。その寄稿文の中で、芦田は「第9条の修正案を小委員会に提出した趣旨については、その日の芦田日記にも書いてある」とも書いていた。ところが、86年に刊行された「芦田日記」には、そうした事実が書かれてなかったことから、「東京新聞」が内部調査したところ、その部分は記者の作文であったことが判明し、「東京新聞」は「おわび」の記事を掲載した。その後、さらに、米国と日本で相次いで議事録が公開された。その議事録によれば、芦田は修正の趣旨について次のように述べていた。

 『国際平和を誠実に希求し』という言葉を両方の文節に置くべきですが、そのような繰り返しを避けるために『前項の目的を達するために』という言葉を置くことになります。つまり、両方の文節でも日本国民の世界平和に貢献したいという願望を表すものとして意図されているのです(憲法改正小委員会第6回議事録46年7月31日)

(この「芦田修正」を根拠として、自衛のための武力行使は憲法に違反しないとするのが政府側の解釈である。それは、1項を、侵略戦争のみを指すと解釈し、2項をそれとは区別し、それにより、憲法上許されるとするものだが、議事録では、芦田が1項冒頭の文言の「繰り返しを避けるために」、2項で「前項の目的を達するために」と言い換えたことを明らかにしている。そのうえで、さらに1項と2項について、「両方の分節」が日本国民の「願望」を表す意図であったと語っている。つまり、2項は1項の具体的帰結であり、両項は不可分であることを、芦田は強調しているのである。したがって、自衛のための戦力、武力行使を合憲とする政府解釈は到底成り立たないことになる。この芦田自身が残した記録は、憲法を正しく解釈するうえでの確かな証拠資料と言えるだろう)。