坂本陸郎(JCJ運営委員;広告支部会員)

沖縄ノート(7)少年少女たちの戦場 17/09/22

「鉄血勤皇隊」と「ひめゆり学徒隊」
 沖縄守備隊32軍司令部は、兵員不足を補うために現地の男子中学生、高校生を「鉄血勤皇隊」として編成し戦場におくり出した(「沖縄健児隊」の呼称も)。その動員された男子生徒は、10台半ばから成人前の少年たちで、生徒の所属校と動員数は、県立第一中学校398人、第二中学校140人、第三中学校363人、八重山中学校20人、県立工業高校78人、県立水産高校49人、農林学校170人、那覇私立商業学校82人など、生徒数の合計は約1300人であった(資料は大田昌秀著『沖縄のこころ』72年刊から)。 
 「ひめゆり学徒隊」も「鉄血勤皇隊」同様に、県下の学校から生徒を編成したもので、学校毎では、沖縄師範学校女子部120人、県立第一高女200人のほか、県立第二高女(白梅隊)65人、第三高女(名護欄隊)10人、首里高女(瑞泉隊)83人、私立積徳高女(積徳隊)25人、同じく昭和高女生徒(でいご隊)40人、計543人の女子生徒たちは、看護と救急措置について急場の教育を軍医から受けたのちに戦場に送られた。その任務は傷痍兵の看護のほか、壕を掘ることでもあったという。戦死者の埋葬のためだったのだろうか。一般の住民も徴用され、16歳から45歳までの約4万人の一般男子住民が現地入隊させられ、その後は46歳以上の男子までもが徴用された(それについては前号でも触れた。徴用人数は前出の大田昌秀氏著書による。学校毎の隊の名前は毎日新聞社刊『太平洋戦争』から引いた)。 
 その犠牲者数は夥しかった。沖縄で集められた住民兵4万人のうち約3万人が犠牲となっている。その死者のなかには、「鉄血勤皇隊」と「ひめゆり隊」の少年少女たちも含まれている。 

少年たちの戦場   
 前出『沖縄のこころ』の著者大田昌秀氏(戦後は沖縄県知事を歴任)が、鉄血勤皇隊員であった自らの体験を次のように記している。やや長くなるが証言として引用する。 
 ―補佐係に下士官がどなってまわった。一瞬、だれもがバネ仕掛けの人形のように、いっせいに飛び起きた。本部壕の前で隊列を整えて待っていると、少佐の襟章をつけた一人の将校が、つかつかとみんなの前に歩み寄った。「みんなよく聞け、諸君は学生ではあるが、銃を執り国家の危機に対処するに兵と変わるところはない。戦況が緊迫していることは諸君も承知の通りだ。残念なことに、いましがた近くの陸軍病院が敵に占領された。よって敵が本陣地に攻撃をかけてくるのも今明日と予想される。諸君は、今こそ郷土防衛の覚悟をあらたにして、あくまで本陣地を死守せよ」。 
 いよいよ来た。言われるまでもなく、わたしたちは決意を固めなければならなかった。内心にうごめく不安を押しのけるように、わたしたちはお互いに顔を見合わして頷いた。いまさら不安におののき、ジタバタしたところでどうなるものではない。一歩壕外へ出ると、砲声が間近に炸裂し、肉迫してくる敵の気配がじかに感じられておのずと身が引き締まる。 
 わたしたちは、壕全面の丘陵の手前斜面に、ほぼ4メートルおきに横に散開した。各人は、交互に警戒に当たりながら蛸壺壕を掘り始めた。時刻は午前2時を回ったところ、雨は小降りのまま続いており、あたりの空気は、いやにひんやりとしていた。ときどき打ち上げられる曳行弾に続いて、タタタタ、機関銃がひときわ高く咆哮すると、つぎの瞬間、不気味な沈黙に戻った。5、600メートルはあろうか。敵に占領されたという軍病院壕のある丘が前方に黒々と横たわっていた。(中略)急遽、蛸壺壕に腰まで入って銃を構えていると、奇妙にも心は平静で、第一線にいるという深刻さはない。路上で砲弾の餌食となるより、せめて死ぬ前に一発でも侵入者にぶっ放してやりたいというのが、隊員の切実な願望であったせいだろうか。(中略)「なあみんな、ひめゆり部隊も最後をとげたようだから、俺たちもここで死のうや」、隊長の伊豆味君が冗談とも本気ともなく言った。情報宣伝の途中、千早隊員はしばしば軍病院に立ち寄り、女子学生たちの奮闘ぶりを目撃していた彼が、ひめゆり部隊や女子挺身隊の活躍ぶりは、銃をとる男子学生の労苦にまさるものだった、と言った−。

 その後、首里の32軍司令本部が陥落し、軍部と生き残った兵が本島南部へと逃れると、各所の陣地(壕)の兵も南へと敗走した。その時、小銃とわずかな銃弾を手にした少年兵たちは、米軍の火力と兵器に対して、ほとんど無力であっただろう。少年兵の一人が洞窟で看護する少女たちの労苦を讃え、自らを励ましている。死を覚悟しなければならなかった少年たちの心情が健気なだけに、いっそう痛ましい。 

少女たちの悲劇
 少女たちは、傷病兵の看護のために野戦病院に配備されたのだが、そこは病院とは名ばかりで、傷痍兵を収容するための壕(洞窟、ガマ)であった。 
 壕の中は暗く、傷痍兵たちのうめき声と腐臭に満ち、横たわる兵たちの看護を求める声が絶えなかった。洞窟の中で献身する500人余の16、7歳の少女たちは、傷痍兵の看護に献身した。そうしたなか、壕の中で米軍のガス弾や火炎銃によって殺され、あるいは手榴弾によって自ら命を絶っていった。自決を迫られたのは、兵、住民同様に捕虜となることが禁じられていたからだった。それらの死者数は「ひめゆり学徒隊」の半数以上であったという。 
 壕に危険が迫ると、軍は移動が困難な傷痍兵を残して壕を去り、少女たちは軍とともに南へ南へと逃れていった。5月になると陣地は次々と陥落し、米軍の壕への攻撃はいっそう熾烈となった。壕を後にした少女たちは、梅雨時の泥沼の中を、傷痍兵を助けながら歩き続け、島の最南端まで追い詰められていった。 
 戦後奇跡的に生き残った少女が、その時の壕の中の様子を次のように記している。 
 ―壕の中はランプが一つ二つ、夜昼なく灯されていた。雨降りのあとのように、しずくがひっきりなしに頭の上に滴り落ちていた。歩くと、ばたばたとズボンの裾が泥だらけになった。地面から高さ10センチとない寝台がぎっしりと並べられ、傷痍兵が3、40人、ずらりと横たわっていた。寝台といっても、薬品の空箱や雨戸を利用したものばかりであった。頭、顔、胸、腹、背、手、足と、包帯で巻き付けられた負傷兵のうめき声が昼夜絶えることがなかった。これが私たちの勤務する陸軍病院の壕であった。 
(中略)「便器を貸してください」「尿器をください」と前後左右からひっきりなしに呼びつけられる。そのうち、「看護婦さん、包帯を取り換えてくれませんか」と弱々しい声がする。見ると、膿で表面までがすっかり濡れている。包帯を解きガーゼを離したとたん、膿が水のように流れ出した。「この患者は少し切断する。足をつかまえておけ」と軍医にいわれて、傷口をメスで切り取るのを見ていると、血の気が引いてふらふらした。「これくらいのことで貧血を起こして看護婦といえるか、ばかやろう」、軍医の声にはっとして気を取り戻す。血と膿が手から流れ落ちる。患者は泣き声をたてる。また軍医が怒鳴る。すばやくふき取って包帯を巻く。壕の中で息絶える兵が増えていった。死体は毎日4、5人、朝夕の空襲の合間を見出して埋葬した。4、5メートルおきに弾痕がある。崩れかかった坂道をタンカで運ぶときの苦しさ、なんどか死体を置いて、またタンカを運んだ−
(以上は池宮城秀意著『戦争と沖縄』からの引用)。 

 こうした実話を知る人は決して多くはないであろう。日本で唯一地上戦となった沖縄での少年少女たちのこのような悲劇は、現在、私たちに何を語りかけ、何を訴えているのだろうか。