坂本陸郎(JCJ運営委員;広告支部会員)

 沖縄ノート(10)屈辱の戦後②  18/01/14

良民の戦後
 沖縄の人々は、戦前の天皇制国家に対して忠実であった。天皇を敬い、皇国に忠誠を尽くそうとする心情は、本土の住民以上であったとも言われている。それは、沖縄が同じ日本でありながら、地理的に本土から遠く離れた島であったからであった。そこでは、本土への一体化を求める感情が強くはたらいていた。
 去年(2017)の暮、乗換駅のホームで、沖縄ノート(8)で紹介した対馬丸遭難者、仲田清一郎氏と偶然会い、車中で会話を交わす機会があった。その折、仲田氏は、辺境であればあるほど、住民は国家に対して忠実になるものだ、という話をされた。そのとき私は、戦時下の沖縄では、本島のみならず離島の隅々まで皇国の思想が行き渡っていただろうことを想像した。
 彼らは素朴さゆえに、それを抵抗なく受け入れていたのではなかろうか。だが、天皇に帰依し国家に尽くそうとする心情は、やがて裏切られることになる。沖縄戦で頼りとした皇軍は、彼らが想う軍とは違ったものであった。天皇の軍は一般住民に対する加害者としての顔を持っていた。そうした軍の一面を、本土の国民の多くは信じ難いと思うであろう。
 敗戦後は、生きる手だてを失った沖縄の住民(本土の住民もだが)は、征服者であった米軍政府の庇護に頼らざるを得なかった。当時沖縄では、米国を自由と民主主義の国だとする宣伝が行われていたからでもあった。
 その限りでいえば、沖縄は本土と共通していた。だが沖縄では、その支配が、本土では想像できないほど横暴非道なものであった。そのことによって住民の軍政府に対する期待は短時日のうちに打ち砕かれることになる。それが、占領下の沖縄と民主化が行われた植民地であった本土との、戦後における違いである。
 1946年4月、ワトキンス少佐が、「アメリカ軍政府は、例えるなら猫であり、沖縄の住民は鼠である。猫と鼠の考え方の違いはあってはならない。講和会議〈51年〉がすむまでは鼠の声は認められない。アメリカ軍政府の権力は絶対である」と語っている。
 彼らは、沖縄を占領支配することを当然のように考えていた。その支配は、講和条約締結後にいっそう絶対的、暴力的なものとなっていった。その背景に何があったのか。
 詳しくは後述するが、1947年に天皇が、沖縄を米国に差し出す意思を米国政府に伝えている。その後の51年日本政府は、沖縄を日本領土から切り離すサンフランシスコ講和条約に同意し締結した。それによってアメリカの極東戦略のもとに沖縄の占領は固定化することになった。日本政府の希望に沿って、それが合意された点は重要である。

占領統治
 戦後の沖縄が日本本土とは異なる占領地であったため、支配者は傍若無人に振る舞うことができた。軍政府は、非人間的環境で荷揚げに従事する住民の働き方が気に入らないからといって、その報復として、命綱の食料などを扱う売店を閉鎖する指令を全島に告知した(前号で触れた)。1949年には、軍が供給する食料品の一方的な値上げを行うなどした。
 当時は、軍政府の指示によって、民間人による行政機関がつくられ、志喜屋孝信氏が知事職に就いていたのだが、彼は軍政府におもね、住民の声に耳を傾けようとしなかった。それが住民の反発を買い、辞職を迫られ、沖縄県議会議員全員が辞表を提出するに至り、売店閉鎖の指令は取り消された。これは「窮鼠猫をかむ」戦後初めての事件であった。
 一年が過ぎると、収容所で暮らす住民に、以前の居住地に帰ることが許され、まず首里と那覇の一部の住民が町や村に帰っていった。だが、多くの住民が帰るに帰れなかった。かつての村や町、集落が、戦禍で跡形もなく消えていたからだった。
そこには、有刺鉄線が張り巡らされ、「立ち入り禁止」のプレートが掛けられていた。しかたなく住民は、わずかに残った集落に、他の集落の住民と共に暮らすことになったのだが、当時は米兵の家宅侵入が横行し、女たちは床下や天井裏に隠れなければならなかった。
 住む家と土地を奪われた住民の悲しみは大きかった。鉄条網がめぐらされた基地建設予定地の敷地内には、先祖代々の墓があったのだが、その墓を見ることさえできなかった。それは、1950年代に始まる、基地拡張のための私有地強奪のまえぶれであった。

苦難と混乱
 住民は、耕すに土地なく、働き口といえば、米軍に雇われて働く以外になく、その職種も限られていた。しかたなく住民は、くず鉄を拾い集めたり、米軍の物資を横流しするなどして、日々しのぐしかなかった。
 1948年に本土並みの6・3制が敷かれたのだが、学校に行けず、働かなければならない多くの子供たちがいた。教育の場を奪われた子供たちは、米軍将校の身の回りの世話をするハウスボーイやメイドとなって働いた。親を失い一家の生計を支える12,3歳の少年、少女たちも数多くいた。そのころは、学歴を気にする親も少なかった。たとえ進学したとしても、沖縄では米軍の基地で働く以外に就職の見込みがなかったからだった。
 壮年の男たちは基地建設現場で、わずかな賃金で働いた。かつての教師も基地で働く大工になり、検事だった人が米軍基地ゲートの守衛になるなどした。
 さらに、1946年8月になると、中国、朝鮮、台湾などの外地から引揚者が続々と帰ってきた。引揚者たちは、沖縄に残っていた家族すべてを失った人や、学童疎開中の沖縄戦で両親を失った子供たちや、妻子を失った軍人など、それぞれの不幸を背負う人々であった。
 そうした引揚者たちも加わり、社会は混乱した。戦後一年が過ぎても、失業者が巷にあふれ、食糧が不足し、なんらかの方策をとらざるを得なかった。
 対応を迫られた軍政府は「沖縄開拓庁」を設置させ、食糧の調達と生産を図り、ハワイやアメリカ本土、日本本土から豚や牛、山羊、雛鳥などを調達し、住民に飼育させ、漁民には上陸用舟艇を払い下げ、漁業の再開を促すなどしていたのだが、当時の沖縄の人口45万人の食を満たすには、ほど遠かった。
 その頃、本土では戦後の経済復興が緒につき始めていた。そのような本土から見ると、沖縄は有望な市場に映った。沖縄では生産活動がほとんど無に等しかったからだった。

切り離された沖縄
 沖縄の占領支配を可能とした歴史上の事実を書き留めておきたい。
 当時、戦後に占領地をそのまま支配、統治することを、他の連合国は同意しなかった。国際法上からも、それが認められていなかった。そのため、米国は国際世論の非難から逃れるために、サンフランシスコ講和条約の中に、やがて沖縄を国連の信託統治に移すかのような条文を書き入れている。
 日本政府に関しては何ら問題なかった。当時の吉田茂首相が講和条約締結に先だって、99年間の租借(バミューダ方式)を提案することを西村熊雄条約局長に指示し、沖縄の半永久的占領を希望する旨を米国側に伝えている。この日本政府の意向は、他の連合国の承認を得るうえで有効であっただろう。したがって、その後米国は国連に対して、沖縄を信託統治に置く提案をいちども行っていない。
(資料)サンフランシスコ講和条約第二章・第三項 
『日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島および大東諸島を含む)、そう婦岩の南方諸島(小笠原群島、西の鳥島および火山列島をふくむ)ならびに沖ノ鳥島および南鳥島を、合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度のもとにおくことを、国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ、かつ可決されるまで、合衆国は、領水をふくむこれらの諸島の領域および住民に対して、行政、立法および司法上の権力の全部および一部を行使する権利を有するものとする』
  
 講和条約締結以前の1947年に、昭和天皇が沖縄の占領継続を希望する旨を米国側に伝えている。これが、世に言う「天皇の沖縄メッセージ」である。当時は連合国によって戦後処理を話し合う「極東委員会(FEC)」が置かれていたのだが、そこでは天皇を戦犯として起訴すべきという意見が支配的であった。また、アメリカ国内でも、天皇の戦争責任を求める世論が多数を占めていた。それを天皇は知っていたであろう。

 以下は、林博史著『沖縄戦が問うもの』から。
「戦後になり、日本国憲法が制定され、第9条により日本が軍隊と戦争を放棄したことに危惧を抱いた天皇は、日本と天皇制の安全のために、密かにアメリカと連絡をとった。1947年9月に天皇の側近である寺崎英成を通じてGHQの外交局長シーボルトに、『天皇は、アメリカが沖縄を含む、琉球の他の島々を軍事占領し続けることを希望している』こと、『長期の貸与』という形で占領を継続することなどを提案した。このことは米本土にも伝えられた。当時、米政府内では、沖縄の軍事占領を継続したい軍部と、連合国の建前から、沖縄を返還すべきと主張していた国務省が対立していた時期である。その時に、天皇は自らの安全のために沖縄を売り渡す提案をしていたのである。沖縄は天皇制を維持するために、ふたたび捨て石にされた」。この「天皇メッセージ」について、琉球新報の新垣毅氏が自著『沖縄のアイデンテイテイー』の中でこのように書いている。「25年から50年、あるいはそれ以上にわたる長期の貸与(リース)という『擬制(フイクション)』によって、沖縄の軍事占領を続けることを求めた内容は、『貸与』という見せかけの下、沖縄を『自由に使ってよい』というものだった。対日政策をめぐって混乱していた米政府にとって、(天皇の)提案は”渡りに船“だった。」                

 

(つづく)