戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)
8月15日で敗戦から72年になる。8歳のおれが80歳になったのだから間違いない。今読んでいる『関東軍火工廠史』、676ページの本の266ページまでいった。小さい活字でしかも印刷が薄いので読むのに難儀している。おれの断片的な記憶と合致する記述がかなりある。戸塚陽太郎という父の名も出てきた。
この軍需工場は関東軍の経営であって、関東軍の将校をはじめ軍人が直接工場建設・運営に当たっていた。父たち下っぱも陸軍軍属(雇員)として関東軍の組織に組み込まれた。工場労働は何千人かの中国人(満人)で、手記の中では苦力(クーリー)と呼ぶ人も。典型的な植民地経営だったと言える。
さて工場の主体となった関東軍だが、もともとは遼東半島の関東州の守備隊だった。それが南満州鉄道も守るという名目でどんどん勢力を増大する。関東とは万里の長城の東という意味で満州全体を指した。関東軍はその後、張作霖爆殺、満州事変、満州国設立、支那事変、ノモンハン事件等を引き起こした。
最初旅順に置いた司令部を1934年には新京(長春)に移す。太平洋戦争を始める41年には兵力74万を擁し「精強百万関東軍」と豪語した。おれたち一家はその関東軍全盛期の40年、満州へ渡った。親父もこんなに強い関東軍に絶大な信頼を置いていて何ら心配もしなかったに違いない。
ところがである。いざソ連軍がソ満国境を越えて侵攻してくるとなすすべもなく敗退する。司令部は新京から朝鮮国境に近い通化に移す。つまり百万を超える在満避難民を見捨てるのだ。そんな中で起こったのが葛根廟事件。女子どもを中心にした避難民がソ連の戦車に蹂躙されて1000人以上が殺された。
そこでおれたち一家がいた関東軍火工廠第一工場だが、ここにも沢山の関東軍将校がいた。20代後半から30代の若い将校で、ほとんどが少尉、中尉などの尉官だった。まだ読みかけだが『関東軍火工廠史』によれば、将校にもいろいろな人物がいたようだ。戦争の前線でなく、工場経営を任務とする軍人にはそれ相応の能力が要求される。特にソ連や八路軍との折衝能力の優劣は生死の分かれ目だったようだ。
おれはかつて新聞OB会の文集に満州時代のことを書いたが、おれたちの町を占領したのはソ連ー国府軍ー八路軍とした。これは間違いで、ソ連ー八路軍ー国府軍だった。つまり引き揚げは蒋介石の国府軍によって行われたことになる。そんなことも含めておれの記憶違いがいくつも改められた。これからもおれのルーツを確かめるため暑さにめげずがんばるつもりだ。