戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)
日本敗戦から72年、私が満州から引き揚げて71年になる。終活の意味も込めて敗戦から引き揚げまでを詳しく辿ってみたい。種本は非売品・会員限定頒布の『関東軍火工廠史』後編。関東軍火工廠の在籍者とその家族の、敗戦から引き揚げまでの体験を綴った手記を集めて編集したもので、発行者は「遼陽桜ケ丘会」。1980年(昭和55年)9月1日刊行で、A5判689ページである。
年号表示は西暦に統一したが、人名、地名は手記に書かれたものをそのまま記した。種本のほかに、私の記憶、父母から聞いた話を随所に挿入した。どのくらい長いものになるか不明だが、いずれにしてもこれでもって私のルーツ探しの決定版としたい。
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1、ソ連参戦
1945年8月9日未明、ソヴィエト極東軍は国境を越えて満州の日本軍への攻撃を開始した。以後、160万在満日本居留民は突然襲った爆風に身を晒されることになった。
この日関東軍火工廠の林光道少将(廠長)はラジオのニュースでソ連の参戦を知った。すぐに総司令部より何らかの命令があるものと待っていたが、簡単な公電以外は何もない。後に分かったことだが、新京にあった関東軍総司令部は朝鮮との国境に近い通化への移動中で、的確な命令を発することのできる状態ではなかった。満州国皇帝愛新覚羅溥儀も同行しており、新京は既に首都としての機能を放棄していた。
この「新京撤退、通化移動」は規定の極秘作戦だった。満州国中央政府国務院総務庁の古海忠之次長は44年10月、関東軍池田純久参謀副長に呼ばれて「これから私が伝える事柄は軍の最高機密に属し絶対極秘である」と釘を刺された上で、次のような決定事項を通達された。
「関東軍は伝統的な対ソ攻撃作戦を取り止め、満鮮一体となっての全面持久防衛作戦に切り替えざるを得なくなり、東辺道に立て籠もる作戦をとる。日ソ開戦となれば関東軍総司令部は通化に移動し、関東軍に命令し、朝鮮軍を区処することを決定した」。
こんな作戦計画があったとは、少将の地位にある林廠長さえ知らなかった。関東軍100万の兵力は、十分ソ連と戦えると信じていた。